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2022年5月22日日曜日

海外で「日本人」を育てる



 とは言ったものの、自分が実際何人を育てているのか釈然としていない部分があります。6歳の娘の話です。「娘はニホンジンです。」と、思う事にしていますし、アメリカで生まれ育っているから「アメリカジンです。」というのも、妥当に思います。今日何が食べたい、と聞くと「ハンバーガー!」と言ったりしますが、なっとうご飯の日も多いし、にんたま乱太郎に声を上げて笑い、なにより履き古したスニーカーにこっそり「ありがとう」と手を合わせてから捨てている様子などを見ると、「日本人だ」と感じます。生物学的に半分はロシア人であり、父親に言わせると性格は「とてもスラブ的」だと言います。娘のおばあさんは先祖代々ボルガ川のほとりの小さな村に住んでいたメリヤというフィン系のロシア人でした。娘のマユゲはユダヤ人が見え隠れする時もあります。言語も、文化も、DNAも、いろいろに混ざったチビな命、それがわが子というのが現状です。

 子が生物学的背景をこえて「何人か」を考えるときひとつの指標になるのが「どの言語で深く思考するか」ついで「その国の文化が母文化として体に染みわたっているか」という点かと思います。私自身を振り返れば、「日本で生まれた」ことや、「日本人から生まれた」こと以上に私を日本人たらしめるものがあるとしたら、「私は日本語で深くものを考える」「日本の文化を熟知している」という点ではないかと思います。

 とりわけ日本語による思考は、私が日本という地理的な座標から遠く切り離されても、いつでも変わらぬ基準点として自我を照らしてきました。義両親についても同じで、移民として40年以上このアメリカで暮らしてきましたが、どれだけアメリカの生活に馴染もうと英語がどれほど堪能になろうとも、思考の深部にはいつもロシア語があり、ソビエト的思考回路があり、日常のいたるところで脳裏にソビエトの詩、歌、美術や歴史の知識があふれます。たとえ国を捨てたとしても、やはりどこまで行ってもソビエトの人なのです。これは、アメリカの移民一世の中ではよく見られる現象です。「血は水よりも濃い」といいますが、この移民の国に住むと水よりも血よりも濃くさらに強力に自己を醸成する存在は「土」であり、それと固く抱き合った存在である言語と思考である、と思えるようになります。

 まっとにかく、そのような観点から見れば、いずれアメリカで義務教育を修了してアメリカ文化に精通し英語による深い思考能力を身に着けることになる娘は、アメリカ人だということになります。生まれた時から疑いようもなくアメリカ人であるよその子供達と比べたら、成長のうちのどこかの段階でアメリカ人に「なる」後天的なアメリカ人とも言えるかもしれません。

 ここで日本人の親としては、子供が「アメリカ人」であると同時に「日本人」であることは両立し得るのか、というソボクな疑問が浮上します。さっき書いた考えをもとにすると、子が「日本の文化を体験として知っている」「日本語での深い思考が可能」であれば、「およそ日本人」と言えるとも思うので、じゃあ、将来的にそれをある程度可能にするレベルの日本語の力が子供にもあるといいいな、というところまでやってきます。




 ここワシントンDCメトロエリアは、日本人や日系子女が学ぶ場としていくつかのオプションが存在します。文化公共事業、および学生支援などを行うワシントンDC日米協会をはじめ、日本語継承センター、文部科学省承認校で高校2年生まである補習授業校ワシントン日本語学校などがその筆頭と言えます。また、全米でも珍しいのですが公立校で英語と日本語によるエマ―ジョン教育を展開しているFox Mill ElementaryGreat Falls Elementaryなどの小学校があります。未就学児についても土曜だけ開園する幼稚園にさくら学園たんぽぽ幼稚園ひまわりの会、日本語で保育を行うホームデイケア・プリスクールにバージニア州ハーンドンのわらべ教室、メリーランド州ベセスダのWEEセンター、などがあります。日系人の若者同士の相互扶助や夏冬のキャンプ・プログラムの運営をしている団体としてオーエン・ネットワークがあります。

 在住日本人の母数としては決して多いとは言えない都市圏にありながら、「日本文化や言語の継承」という観点から取ることの出来る選択肢が複数存在することは比較的恵まれていると言えます。北米において「バイリンガルの技能を高いレベルで維持している(バイリテラシー)」と判定されることは、たとえばバージニア州では「Seal of Biliteracy」の称号が与えられたりAP試験 (Advanced Placement Program Exam)やSAT試験(SAT Japanese with Listening)で大学の単位を先取り取得できたりと、進学や就職活動において実益を伴うので、子にとってもメリットがあります(とはいえDC圏は非常に優秀な人が多く、「マルチリンガルで全ての言語がビジネスレベルに達してる」というようなバケモノ人材もゴロゴロしているため、実際には言語に+αとなる活動や運動系の技能なども同じくらい重視されると思います)。ともかくも子供に多言語教育を施す事にはさまざまな恩恵があるということで、特に日本の義務教育に批准した内容を教えてくれる日本語補習校には、毎年多くの子供達が進学します。


娘が初めてキンダーへ行く日、自分はスクールバスの所に連れて行ってもらえないと知った時の犬


 と、ここまで色々書いてきてずっこけてしまうかもしれないのですが、娘は補習授業校の1年生には上がらず、うちでのんびり自宅学習で日本語をやっていくことにしました。主な理由は、地理的な距離(上述したような機関の多くはうちから1時間圏にあります)と、またすでにアメリカの学校生活や習い事もある中で、さらに補習校へも行くとなると、子供が教室や机や車の中で過ごす時間が長くなりすぎるということです。ちょっとヒッピー的な考え方かも知れないけれど、今の我が子供の状態を見発達度合いを見、アメリカの幼稚園の成績を見、と総合的に俯瞰した時に「もっと実際の世界でさまざまな人と交流し、本物の自然と触れ、身体を動かしたり時にケガをし、原体験を積むことが必要だ」と感じました。

 普通に考えれば今後長く日本語学習を続けていくわけなので、勉強の習慣をつけるためにも速やかに日本式の学校に入れるのが良いと思いますが、最終的に学校で強制的につけられる『勉強習慣』と同じくらいかそれ以上に、実際の体験とそれに裏付けられた思考力、自信、独立性、社会性、根気そしてそして体力✊などがこれからの世を生きていく人には特にだいじで、まずはこれらの芽を伸ばしたいと考えました。

 また人間の子供を育てるうちに気付いたのですが「子の周囲に質の高い友達の輪がある」ということはかなりだいじな反面、子供が自力でこれを構築&維持していくことが難しいです。特に車社会のアメリカではこの傾向が顕著で、ここでは小さいうちからそういうものを作ってあげるのはじつは重要な親の役割だった、と気が付いたわけですが、しかし親が自分から働きかけて作っていく以外に効率的な方法はなく、一朝一夕では困難です(だから日本でもアメリカでも子供を私立に入れたがる忙しい親、というのが一定数いるのかな、と思います。ネットワークづくりを学校が手伝ってくれるので、、、)。というわけで、今後は犬のブログにときどき「外国で日本人を育てる(という無理難題にのたうちまわる私)ノート」が入ってくるかもしれませんが、ちょっと箸休め的な話題と思って、お許しください。




 ところで娘は昨日初めて「お弁当に箸が入っている事がみんなと違ってると思って急に恥ずかしくなった。」と教えてくれました。先週までは何の疑いもなくお箸とのり弁を持って学校に行っていたのです。クラスメイトは9割以上が白人の地域ですが、初日からお箸も海苔も、スナックに実家から送られたおつまみの貝柱(⇐娘の大好物)も持たせていたのです。かなり能天気な娘も、自分の食べ物がまわりとだいぶ違うということに急に気が付いたみたいで、日露米あやふや人⇒アメリカ人、への変容は既に始まっていると言えるでしょう。

 箸が恥ずかしくなった娘ですが、今朝のべんとうはサンドイッチにして、食器はフォークやスプーンを入れようか?と言うと、箸のままでいいと言ったのでそのままになりました。よく聞いてみるとどうもアメリカ人の子は弁当に野菜がたくさん入っているのに慣れてない子がいるみたいで、娘は茶色や緑色のお煮しめを「ew(きもっ)」と言われることもあるようなのです。「次は、あなたは工場で作ったソーセージや油で揚げたポテトばかり食べてるの?ew、といいなさい。」と言ったら大笑いしていました。

 まだまだ小さい今のうちに身辺の出来事に自分で対処する方法を学んでもらいたいです。相手と同じ土俵に立ってみっともないと思われるかもしれないですが、○○ちゃんにewと言われた、とか先生に言いつけて自分の問題をだれかになんとかしてもらおうとするまえに、小さいうちからハッキリ言いかえしていじわるするべきでない相手だと分からせることはだいじなことです(「何度もいじられる場合や、身体的に被害が及びそうな時は先生に言う」ことと基準は与えています)。それに、言い方は悪いけど、そうやって自分の力で他者を打ち負かす経験をしていないとはっきり言って自信は育たないと思うので、幼稚園の今がチャンスと思って頑張ってもらってます。


タコのようにかしこく柔軟に



2022年3月30日水曜日

最近の草


 そだてている草(多肉植物など)の近況です。犬も子供もまっったく関係のない記事でごめんなさい。いつぞやもボヤいていた通り、私の地方の園芸やは管理があまり良くないところが多いので、買った株をすぐバラバラにして養生したりしていると、鉢ばっかり増えてしまいます。でも、こういう草は一般的にはミニチュアの頃が一番可愛いとされ貰い手も多いんで、これでいいのかもしれません。根がきちんと張って太ってきたやつから友達にあげたりしていますが、結構喜んでもらえます。



 去年の8月の時点ではこんなに初々しかった宝草。それから子株がボーボーに生えてきていつのまにか「ヤンママ風」の様相を呈しています。そろそろ植え替え時なのかもですが、これはこれで可愛いのでいじりたくないです。でもこのままだと根づまりしそうなのでやっぱりそろそろ土を変えた方がいい気もします(めんどくさし)



 これも去年の8月頃に買ってきて解体して、そこから発根していたエケベリア・ローラですが、こんな風になっています。盆栽用の浅鉢に入れて放置してたのであまり育ってないのですが、先週重い腰を上げて植え替えて見ました。大きく育ってほしいやつはちゃいろの鉢に入れてみました。夏に向けてバンバン光を当てたいです。先週の金曜あたりを最後にバージニアは氷点下の夜は終わったので、今後は外で管理します。デッカくなってネ。


 一番最近来たやつ、ハオルチア・エメリアエ。近所のホムセンでひと冬ネグレクトされてたようでとんでもない姿になっているけど、「もともとこういう植物だ」と思い込むことにしました。すると、これはこれで可愛く思えてくるので不思議です。窓がブツブツしてて触ると気持ちがいい。いつか子株がとれたら、植え替えをしてピチピチのプリプリに仕上げてやりたい草。



 休眠処理という名の屋外放置を経て芽を出しているギボウシ左グアカモレ・右ゴールドスタンダード。いやあ強い!こんな小さな鉢で何度もガチガチに凍ってもう絶対死んだと思っていましたが生えてきましたね~。枯れ葉など体積物をそのままにしたのと、完全に乾燥させたのがよかったかもしれません(むしろ中途半端に水やってたら死んでたかも)。しかしさすが日本の野草、アメリカにはるばる渡ってきても大和魂は受けつがれていると思いました。

 無事新葉も出てきたので、また今年も室内で育成してみたいと思います。ゴールドスタンダードは西日で焼け死ぬと知ったので今年は同じ失敗はしないようにしたいです。というか、気を付けてあげないとちょくちょく植物が焼け死ぬ家です。普通に天気のいい日にデッキとかに出て照度計で計っても8万ルクスは固いので、さっさとサボテンでも買ってきた方が良いのかも知れません(この思考、破滅への入り口)。


2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳


 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。


 それから、人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向があるなあと思いました。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。コディは生粋の肉男で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いない!と思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。

思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます

 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。


 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。


 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだ雲の中ですが。


2021年8月31日火曜日

井戸水の問題/オフ・グリッド化


 室内で育てているギボウシ(ホスタ)のつぼみがめちゃめちゃ長くなってきました。いつの間にか拉致されて、部屋の奥のほうにある戸棚に置かれていた。照度計で調べたところ、明るい時で24000ルクスくらいある棚ですが、いかんせん日の当たる時間が短い。暗い所が平気で有名なギボウシとはいえ、長期的に生きていけるか疑問のロケーションです。もともと林床などに生育するので相当暗くても(林内の照度は夏季が最も低くなる)大丈夫なはずですが、家の中で育てたことがないので、不明です。


 大分ふくらんできている。


 この草は冬季は葉っぱが全部カラカラに枯れて休眠するのですが、室内にいるギボウシもスムーズに休眠が進むのかという疑問もあります。気になって園芸サイトなどで調べてみると、だいたいにおいて

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  • 少なくとも2~3か月の間、気温が4℃程度で安定した、暗く涼しい部屋に配置する。
  • 破砕した木の皮やオルガニック・モルチなどをかぶせて根っこを守る。
  • 1か月に1回程度の割で軽い水やりを行う。完全に乾燥させないこと。
  • 春先に休眠場所からもとの場所に設置。植え替える場合はこのタイミングでする
  • 大きくなり過ぎたら株分けをする。でも、「しなくていい」と書いてあるものもある
ーーーー

というかんじのことが書かれていました。休眠開始時期としては、北バージニアと緯度的に近い東北地方では10月に入ると枯れ始める株が出るというので、10月頭から外に出して寒気にあてて休眠処理し、初霜が降りる11月の初旬までにガレージに取り込んでみようかと思います(水やりを…というか存在をわすれそうですが)。また冬季に加温して冬越しさせている人のブログもありました。冬冷やさなくても、別段株が弱るなどの問題はないようです。しかし、最近のグーグルなどは「情報まとめブログ」のような形式のウェブが沢山検索の前の方に来て、こういう個人の人が時間をかけて情報を集積している良質なソースにアクセスしにくくなっているのは残念です。


今週のコディ君です


 最近、植物にやる水のことで大事なことを学びました。

 わたしたちが今住んでいる地域は北バージニア圏でも山のほうに位置するため、水道が通っておらず、生活用水は家庭ごとにポンプでくみ上げています。地下100m以上から引いている水はかなりの硬度を有するので鉄分を除去する装置を通しますが、処理の過程で水のphバランスが変化します。

 この水を長期にわたって植物に与えた場合、株が脱水状態のようになって弱っていったり、鉢内の土や土壌に塩類が蓄積します。土の変質は非可逆的なもので、物理的に土を入れ替える以外に改善方法がないため注意が必要です(特に夏場に芝生がカラカラだからとホースでじゃんじゃん庭に水をまいてたりすると、芝どころか土ごとだめにする可能性まであるといえます)。田舎の生活スタイルだと、こういう「知ってないと絶対まずいコト」が結構あって、改めて自分が都会育ちの無知なモヤシだということに気付かされます。

 井戸水問題に話を戻しますが、水に関しては雨水を集めてためておく装置の導入を検討しはじめました。ポンプから直接水をとれるよう、バイパスする方法もありますが、工事が必要になるのですぐには難しい。雨水をためるだけなら比較的簡単そうだと思いました。

 観葉植物は、それ自体はローメンテナンスでエコなペット(?)になり得ますが、たとえば水をやるためだけに、わざわざ、資源を使って遠くで作られトラックで店まで運ばれたミネラルウォーターを買って、時間とガソリンを使って家まで運んで、つかったボトルはプラスチックごみになるというのでは、本末転倒です。ボトルをリサイクルすればまだましと思いますが、リサイクルも、そもそもそれ自体大量の電力や水資源が必要であり、処理の過程でマイクロプラスチックの問題が派生したりということがついてまわります。


 犬の世話をしている時も思うのですが、一見エコロジカルに見えることでもためつすがめつしてよく見てみると案外、ノン・エコロジカルな側面が気になる場合があります。たとえば、犬の餌です。「ケージフリーのたまご」「ヒューマン・グレードの魚」「有機農法の野菜」「倫理的に育てられた家畜の肉」「環境に配慮された包装紙」などを使って作った餌があったとして、それらを遠隔地から膨大なエネルギーを使い取り寄せる(時には冷蔵・冷凍設備が必要なこともありますね)ことと、一歩餌のランクは下がるが、近所の量販店などで売っている近隣で製造しているソコソコのブランドの餌を買う、という行動を比べたときに、エネルギーのロスという観点ではローカル産の量産品で満足するほうが、結局ははるかにエコロジカルなのではないか?と感じています。特に本来ヒトが食べない部位や素材等も使って一気に工場で大量に作れ、長期保存がきく「昔ながらのドッグフード」は、エコ指数という観点ではわりと高いのでは、と思っています。

 昔ながらのドッグフード、所謂「カリカリ」はコンパニオン・ドッグ界隈では「マックのポテトのようなもの」とか「食べ物じゃない」と言われてわりと散々な評価を受けていますが、たとえば警察犬や軍用犬などのワーキング・ドッグはカリカリを毎食食べて長く健康を保ち(軍用犬の退役平均年齢10~12歳警察犬の平均退職年齢10歳)、一般家庭の犬をはるかに超えたパフォーマンスを出します。犬の健康を考えるうえで食は非常にたいせつですが、犬の栄養についての多くの科学は、前述のドッグフードから昨今ブームの生餌まで、非常に歴史が浅く発展途上であるということも覚えておかないといけないですね。特に人間は、新しいこと=正しいことだとすぐ勘違いしやすい生き物なので…、、、

 はなしをエネルギーに戻しますが、「なるべく資源を無駄にしない生き方」を考えるとこれはもう「マクロエコ生活学」が必要だと思う位非常に複雑にからみあった問題で、常に何が最適解かを模索している状態です。はっきり言える事は、自分のペットのためだからといって際限なく資源を使うことは、たぶん間違っているということと、同時に、手が届く範囲で出来ることをやる・続けていくことが重要だということです。私の場合は、生活に必要な水・ガスの問題をほぼ自前でなんとか出来るようになったので、数年以内に屋根にソーラーパネルを設置して、生き物や植物の飼養にかかわる電力をできるかぎりオフグリッド化出来たらと、妄想しています。


2021年8月19日木曜日

よしなしごと


 夏が過ぎてゆきます。娘のアメリカの学校びらきまであと丁度一週間となりました。本当に長かった「ホームスクーリングもどき・うぃずコロナ」もあと1週間です。パンデミック以降、子供達が学校で学ぶ権利や、普通に友達と話したり遊んだりする暮らしは圧迫され続けてきましたが、あがき続けた1年と5カ月が終わろうとしています。頑張っても誰に表彰されるわけでもない地味な日々の連続の中で、私は大量の時間といつのまにか髪の毛を失いましたが(昨日、1年半ぶりに会った美容師がびっくりするほど)、子供らのために力いっぱいがんばったと思うので、満足です。

 ところでここ2カ月ほど草に手を出していました。ふだん一人で何かの作業に従事する「個人の時間」を何よりも大切にしているたちなのですが、半年以上自分の時間が全くなかったので、見えないうっぷんが溜まっていたのでしょう。そういう時、逆にこうやって全く関係ない事に着手して、さらに自分の首を絞めてしまう悪いクセがあります。上の写真のは、学生のころ日本で集めていた種類で、とてもなつかしいです。たまたま立ち寄った古道具家で「品種不詳土ナシダニあり根っこ2本」みたいな状態で物置から引っ張り出されてきた個体ですが、家で養生していたところ元気を盛り返してきました。新葉も出ています。すごい生命力ですね~。



実験的に室内で育てているギボウシ(Hosta 'Guacamole')につぼみがついた



 草だの、爬虫類だの魚だの、両生類だのを愛好して幾星霜ですが、こういったいきものが好きなのは、こうして逆境に強い生きる力であったりとか、生きようとする姿勢とか、まわりを気にせず自分の都合のいいほうに勝手にどんどん伸びたり、体温や感情がない(なく見える)分、自分の時間を生きている様子がひときわ鮮烈に感じられるせいかと思います。


たのしみです


 しかしアメリカで日本と同じように趣味のことをやろうとすると、たとえばいい用土や道具がぜんぜん見つからなかったり、あっても高かったり、大量だったり、取り寄せなどで時間が掛かったりで、着手しにくいことがあります。また冒頭の話のように死にかけのやばい状態の草なども平気で売っていたりするので、どんなに安い草でも丁寧に世話をして売っていた日本の地元の植木屋を思い出し、恋しく思いました。ここでは、あらゆるサービスが玉石混合で、よい店や人を調べる事自体に多くの時間や費用を費やさねばなりません。チャイルドケアなどもおなじですね。日本の保育園のような、朝から夜まで、食育あり、連絡帳も書いてもらえて時間外の突発保育もあり、などなどなど…のレベルを期待しようとすると、月に2000ドルは必要です。安価に、非常にバラエティ豊かなサービスを享受することができるという点では、日本はすごくいい場所だと感じます。



 ここ1週間のコディ君です。アパラチアン・トレイルに短いハイキングに行ったり、園芸店に連れて行ってもらってこやしの袋の上でローリングしたりと悠々自適に過ごしていました。上の写真はその後ペット用品店でシャワーをしているところです。こうして、オフロの中でヨレヨレになっている姿もとても可愛いですが、大きい図体&6歳という大の成犬のくせに、ク~ンク~ンといかにもか細い声を出すのが少しはずかしい。今回は特にとなりの洗い場にいたアメリカン・エスキモードッグ達がキリッ!とした表情で、サクッと洗ってもらっていたので、コディの情けなさが際立っていました。頭脳は子犬の時のままなのです。「あかちゃんおじさん」と呼ばれてます。


2021年8月16日月曜日

北米のアジア人差別について

 いつにもまして文字ばかりのブログです。政治経済系のトピックが苦手な方はすみません。しかも子供もコディくんも出てきません(一体、何のブログなのだ)。


 さて今年の上半期は、アジア人を狙った暴行事件やいわゆるヘイト・クライムの件数が全米で上昇傾向にあることがニュース等で取り沙汰されていたことは多くの人が知るところです。アメリカで暮らすアジア人として、またアジア系アメリカ人を育てている人間として、「アメリカにおけるアジア人差別」は大きな関心事のひとつです。

 先に短くまとめると、私が日々ニュースや読み物を読んで思うのは、私のようないわゆる「パンピー」ごく一般的なアメリカのアジア系が気を付けた方がいい差別というのはおおまか言って二種類あり、①「racism(いわゆる、古典的人種差別)」と②「systemic / institutional racism(制度的・構造的な人種差別)」です。一般的に差別と言うと、前者がよりショッキングで話題性もあり、取り沙汰されることが多いですが、学校や会社といった生活の重要な拠点の中で静かに行われる後者のようなアジア人差別についても、十分注意を払うべきだと考えます。それぞれの差別について考えてみます。


 ①「racism(いわゆる、古典的人種差別)」

 古今東西の先進諸国の例に漏れずアメリカにも人種差別の歴史がありますが、2021年版・アジア人差別の概要を知るためにまず、どういう場所で、どのような人々によって、アジア人差別が起こる割合が高いのかを知ることは、私達の生活に直接かかわりのある話題と言っていいでしょう。

 私もりっぱな中年社会人なので、「人種差別は起こっている!人種差別なくそう!」と気勢をあげることよりも、現実問題としてどんな人が?いつ?街のどんな場所で?などの詳細を知る事でよりくわしい差別の実像を掴み、自分や子供の実生活の危機管理に役立てたいと思いました。

 ところが私が普段触れるニュース等のメディアでは、加害者の性別や人種、教育の程度や経済レベルなどの、犯罪のプロファイルを知るためにごく基礎的な事項すら、包括的に書かれているものがありませんでした。特にニュース番組では、アトランタ襲撃事件(CNN英文記事BBC日本語記事)の様な特定の非常にショッキングなニュースがタイムラインを席巻する傾向があり、そのためアジア人差別とは、ヘイトクライムとは、ゼノフォビアとは、なんとなく白人特有のものという印象を持っていました


  そこで休日に合衆国司法省のウェブサイトに行き、なにかおもしろい統計はないか漁りました。そして、Hate Crime Victimization, 2004-2015というページの中にある、Hate Crime Victimization, 2004-2015[PDF]というドキュメントを読みました。少し時間の経っている資料ですが、とても興味深いことがいろいろ書かれていました。「アメリカ合衆国は毎年25万件のヘイトクライムが発生するが、54%は通報されない」とか、「人種バイアス(人種への固定観念)が主な動機で、単純な暴行が9割を締めること」などはとりたてて真新しいものではありませんが、特に私の興味を引いたのはp6の表9「暴力的ヘイトクライム被害者の居住区と地域 (2011-2015)」の部分です。

 ヘイトクライムの発生現場は西海岸と中西部が多く、次いで南部、北東部と続いていました。居住場所の区分は都市と郊外が殆どで、田舎はヘイトクライムの発生率はぐっと落ち込んでいます。なんとなく南部の田舎の方が差別などは起こりやすそうに思っていましたが、数値をみると、実態はほぼ逆であるということを学びました。反対に、アメリカの東海岸や西海岸の都市部というと非常に先進的で教育が行き届き、文化的にも豊かな面がクローズアップされがちですが、こういった差別の問題であったり都心部では非常に深刻な薬物汚染や貧困問題を抱えているなど、スポットライトの当たらない現実があるのだと思いました。

 次に「都市内部の人種差別」についてくわしく知るために、比較的近隣の大都市であるニューヨーク市警(NYPD)の犯罪レポートをみてみました。これは20年度中に逮捕者が出た93件のヘイトクライムについての報告書で、うち20件がアジア人を被害者としたものでした。加害者は、白人が10%、ホワイト・ヒスパニックが25%、ブラック・ヒスパニックが10%、黒人が55%となっていました。ニュースでよく見聞きする「白人によるヘイトクライム」は、全体からみると1割ほどです。その一方で、加害者の90%はヒスパニック系と黒人からなっている事がわかりました。



 テレビ等で見聞きするニュースでは、ヘイトクライムの犯人は白人のことが多いですが、実態とは隔たりがある可能性があると思いました。記憶に残る所では、昨年10月NYでにジャズピアニストの海野雅威さんを集団暴行し大怪我を負わせた犯人達も黒人でしたが、ほとんどの主要メディアでは加害者の人種のまでは言及がありませんでした。たとえばこの犯人が白人のネオナチの若者達などだったならば、もっと大ニュースになっていたのではないかなと思います。



 余談ですがNYPDサイトにはヘイトクライム・ダッシュボードというものもあります。カーソルを動かしてみると、けっこうまだまだゲイ差別があるんだなあという印象です。LGBTQ文化を育んできた歴史あるニューヨークですが、逆風も強いから、皆それだけ強く立ち向かい、文化が花開いたという経緯もあるのではないかと思いました。また、群を抜いて、いかにユダヤ人というものが嫌われているかがわかります。全米で抗議活動が多発した2020年以来、反ユダヤ主義が勢いを増す傾向があり、私が引っ越す前住んでいたレストン(北バージニアの郊外でもひときわリベラルな街)でも、ショッピングセンターに反ユダヤ主義のシンボルがスプレーで描かれるという前代未聞な事件がありました。差別とは、「歴史的に下位にあると見なされた人々がとくべつ成功してお金持ちになったりしている時」に、ひときわ強まるように思います。ユダヤ人もそうですし、男性のゲイなどもそうです(あまり知られていないがアメリカのゲイカップルは経済的に非常に裕福な人が多い



 ②「systemic / institutional racism(制度的・構造的な人種差別)

 実はこの「歴史的に下位にあると見なされてきた者が成功してお金持ちになる」という状態が、いまのアメリカにおけるアジア系の現状にも的確に当てはまるのではないかな~と思っています。2019年~現在の、家庭当たりの収入の中央値を比較したセンサスのグラフを見ると、アメリカ合衆国においてアジア系が突出して成功したグループだという事がはっきり分かります。

 北バージニアにおいても、特にフェアファックス郡中部にベトナム系、南部に韓国系や中華系、西部~ラウドン郡東部にインド系など、移民をオリジンとした一大コミュニティが形成され、なかでも圧倒的な人口密度を誇るインド系の集まる地域などは、地域民に「リトル・ボンベイ」などと揶揄されることすらあります。勤勉で仕事に一生懸命従事し、たくさんの税金を納め、子供達は学校のテストスコアを大幅に引き上げ、平和的で犯罪発生率も圧倒的に少ないアジア系は地域にとってプラスの存在として考えられています。

 一方、北米では主に大学入学の時点や雇用の場面で、各人(実際には、各人種グループ)に与えられる社会的な機会を均等にするために制定されたきまり「Affirmative action(積極的格差是正措置)」「equal employment law(雇用均等法)」などが定められています。一流大学に入ったり、ホワイトカラー職につくときに、人種によって所謂「ゲタをはかせてもらえる」人達が出てくるわけなのですが、努力と才能を頼りに大学進学や就職をめざすアジア人やアジア系アメリカ人にとっては、潜在的に極めて差別的になり得る法令なのではと思っています。

 こうして一度社会のルールとして制定されれば覆すのも難しいのが、アジア人にとっての「systemic / institutional racism(制度的・構造的差別)」です。この話をするためには「Critical Race Theory(批判的人種理論)」という非常に賛否両論ある学説への理解も不可避なのですが、その話もするとかなり長くなってしまいそうなので、興味のある人は、山ほど本やレポートがあるので、読んでみて下さい。日本でもここ20年ほどで取り沙汰されるようになった話で、一部、日本語で読める文献などがあります☞批判的人種理論に関する一考察(大沢[1996])批判的人種理論の現在(桧垣[2011])

 北バージニアに住んでいる人なら、感謝祭でもクリスマスでも正月でも、煌々と灯がともっている夜更けのアジアスーパーを見たことがあると思います。そんな店の裏手で、積み上げた段ボール箱の横に腰かけて煙草をふかしている移民一世のおじさんやおばさんは、「自分は働けるかぎり働いて、子供達にはなるべく高い学歴をつけて、なんとかいい暮らしを」と朝も夜も、文字通り身を粉にして働いていたりします。こう書くのは、私自身の家族にもそういう半生(義父)を送った人がいるためです。デビの飼い主のお父さんも、コディのシッターさんもアジア系ですが、親の代は皆そうだったといいます。

 しかしこれらの努力の結果、多くの家族が移民後1~2世代で生活の基盤を安定させてきました。義父の場合は、ソ連を亡命してからおよそ50年、約2世代をかけて、世帯の経済状況がロシア革命前のレベルまで回復したと言います。義父によると、共産主義革命で全てを失ってから回復までに、合計5~6世代がかかったとしており、その間に多くの家族や親戚達の命が不当に失われてきました。

 共産主義体制下では、その地域に根差してきた代々の土地や財産は全て没収され、家系は離散してしまったため、すべての人が新天地で無一文で身を立てていく道を選ばざるを得なくなりました。アメリカ社会は社会的流動性(social mobility)が乏しい、=だから政府は社会保障をより手厚くすべきである、と言う一部の言説がありますが、義父などのように真に政治的に抑圧された社会体制の国から来た人によれば「全くの詭弁である」としていました。

 北米でアジア人の移民が大幅に増えたのは1970年代に入ってからであり、その後40年程の間、アジア系人口はモラルを持って勤勉に働き、世代を超えた資産を構築してきました。その一方で、奴隷解放宣言から140年、貧困と犯罪率の増加、ひとり親家庭の子供の率は70%近くに到達するなど、特にブラック・アメリカンの人々の抱える社会問題は深度を増しています。

 そんな中でアジア系に対し「お勉強ができるから」「お金持ちだから」と、見えにくいところで少しずつ足枷をはめていくていくこと、社会的に「困っている人がいる」ことを大義名分として、時に、人生をかけて移民し働いてきた人々の血のにじむような過去の努力や、世代を通して積み上げてきた富を、都合よく取り上げること、そういった活動を政策として国家が主導する事は、倫理的に正しい行いと言えるでしょうか。


 余談:メディアバイアスについて

 2020年以降、アメリカの報道番組にはがっかりさせられる事が増えました。特にこちらに来た当初(10年くらい前かな)から親しんできたCNNやMSNBCなどのニュースは、昔からまあまあリベラルでしたが、子育てで忙しくて数年見なかった間に、言論がかなり極端なものになってきている事に驚きました。

 というか、最近はどのメディアを見ても情報の中立性を保つことが難しいという印象です。さしがにテレビ離れを起こしてしまい、最近はAll Sides Mediaというオンラインのニュースサイトを見ているのですが、ひとつの事象に対して左・右両翼のニュースソースからの記述を読むことが出来るので便利です。

 北米社会全体のやや急激な左傾化は州の政策や公立校の運用などにも及んでいます。たとえば先日、北バージニアのフェアファックス郡とラウドン郡の高校では、トランスジェンダー学生を保護する法が議会を通過して、性自認にもとづいたバスルームの使用、スポーツチームへの所属、呼称などについての配慮を(それらの情報を親に開示することなく!)学校に求めることが出来るようになりました(→CNNの記事、→NewsWeekの記事)。

 私自身、学生時代はホモやオカマや半陰陽までもがごろごろいる学校の研究室でお世話になったので、彼らに対する違和感はないどころかどちらかというと寧ろインサイダーであるのですが、「トランスジェンダーが転生後(?)の性別のチームでスポーツ競技に参加する」というのは本当におかしく、生物学的に見ても全く公平性を欠いていると思います。

 トランスジェンダーと言ってもほとんど女性化している人からほとんど「女性の服を着た男」の人まで個体に大幅なばらつきがありますよね。特に女子のリーグは危機に晒される可能性があります。この考え方は端的に言えば小さい頃から、朝暗いうちから起きて一生懸命時間とお金を投資して練習に励んできた女の子達がスポーツを楽しむ権利は、トランスジェンダー者がありのままの自分として生きる自由を享受する権利よりも重要ではないと政府が言っているということに等しいわけで、娘を持つ親としては到底看過できないものであります。


2021年8月3日火曜日

「できないこと」の重要性



 しばらくブログを留守にしていた間、北バージニアの僻地はキイチゴの旬を迎えていました。いろいろな種類があるのです。夕方、暗くなってきた農道のわきに西日に照らされて光るキイチゴは宝石のような輝きを放ちます。その姿を記録したく何度も写真を撮りましたが、私の腕ではあまりうまく写せませんでした。表面につぶつぶがたくさんあるせいか、なかなかピントが合いません。

 面白かったのが、犬のコディがキイチゴが大好きだと分かった事です。コディは雑草は比較的ついばむものの、野菜やフルーツといったファンシーな食べ物は一切受け付けない男です。ところがこのキイチゴを投げたところ、パクっと空中でキャッチして、いくらでも食べることが分かりました。これらの果物には抗酸化成分があるというし、なによりキャッチする時の顔があまりに面白いので夕食後の散歩でキイチゴキャッチをするのが毎日のルーティンとなっていました。季節がすぎ、枯れた果穂を見た時は寂しかったですが、また来年のキイチゴに期待が膨らみました。

 本日は(これまで若干6年ほどのぺ~ぺ~ではありますが)ヒト幼児と大型イヌを一緒に育てる中で気が付いた犬や子供が「できなかったこと」「しなかったこと」の重要性についてごちゃごちゃとムダ話をしたためたいと思います。勉強やらしつけやらで、犬や子供に何かをやらせようと働きかけたが、できなかった、しなかった、ということはわりとよくあります。親や飼い主はついついイライラしてしまうのですが、これらはとても大事なことで、そこで立ち止まって時間をとって、考える価値のある事だと感じています。

 ホームスクーリングもどきを1年以上続けている娘(5歳10ヶ月)は数字に殆ど興味がありません。日系人の子女向けにオンラインのプレイグループをしていると、周囲には4歳くらいで九九まで出来る子とか、小学校に入る前に低学年の漢字をマスターしている子などがちらほらいるのでちょっと焦ってしまい、「娘、記号に弱いのではないか」とか「算数が苦手になるかも知れないので学校へ上がった時のために先取りして教えるべきか」などという気になることもあります。でも、算数は一旦置いておいてほかの科目をしていると、地図記号や、漢字の意味を考える事は、わりと好きだということがわかりました。

 地図記号はもちろん、漢字などは象形文字で、ある意味記号です。つまり、頭の中で実像と結ぶことができる記号や、物語性のある記号は好きなのです。この事から、娘は(他の大勢の子供達と同様に)より多くの学習内容を実像と結べるように、より多くの身体的経験を必要とするタイプだという事が分かります。これは今後10年以上娘という子供の性質と向き合う上で意味のある発見です。

 ここでフト気付いたのが、「自分の娘が数字に興味が無い」ということに気付いた時点で、そのことで頭がいっぱいになり、その苦手を「消す」ためにがむしゃらに反復練習などを日々繰り返していたとしたら、おそらくこの発見はなかったと思われることです。または、ずっと後になってから、もしかすると練習のしすぎで漢字や算数などが嫌いになってから、その事実にたどり着いていた可能性もあります。


ボールを返せという指示があるまで、返すことを「しない」犬。犬自身の考えがあるようだ。


 もうひとつの例はコディです。ドッグトレーニングをしている人なら皆「犬になにかをするようリクエストしたが、犬がそうしなかった」という経験を持っていると思います。私の犬コディも、家の裏庭で遊んでいる時に、たまに「オイデ」を無視することがあります(!)。

 コディにとっての「オイデ」はもともと非常に効力のある言葉で、ドッグパークの雑踏やパーティーの人混みの中や雑木林などでも、わりとすぐに戻ってきます。たとえどこかに向けて走って居ても、呼ばれたらUターンを描いて戻ってきます(シェパオーナーの方はどういう様子かすぐ想像出来ると思います)。

 ところがこの裏庭に居る時、時折「オイデ」を2回言われないと戻ってこない事があります。そういうときは、1回目の「オイデ」では、遠くで立って私の事を見ているのです。それで、興味を持っていろんなところやいろんな時間帯に呼んだりして調べたところ、特に日暮れ前の時刻に、東側の庭(公道と雑木林に挟まれて伸びるスペースです)の中にいる時、「オイデ」が2回要る傾向があると分かりました。

 しばらく今の場所に住んでみて気付いたのですが、この東側のスペースの外側は野生動物の通り道になっていて、シカや小さな生き物が頻繁に通過していることがわかりました。この動物の往来?が最も盛んになるのが、日暮れ前の1時間ほどでした。またあとで知ったのですが、公道をはさんだ向かい側(といっても200m以上離れていますが)に大きなマスチフがいる家があって、その犬の事も警戒しているようでした。

 コディは基本的に言われたことは守る性格ですが、シェパード的な敷地を守る気持ちや、イザとなったら自分で考えて決めようとする気質が強く残っています。その性質をどうしようもなくかき立てるのがこうした害獣の存在であり、この「夕暮れ時の東側の庭」だったということです。私の犬は脅威を身近に感じた時、自分のビジネス(危険管理)を優先する奴だということがわかります。こうして「オイデができないことがある」事の原因を探る過程で、愛犬の性格について、また少し理解を深めることができました。

 犬にもヒトの子供にも言えると思いますが、何かをやらせてみて、「とくいだった」「好きだった」ということから分かることと同等か、時にそれ以上のことが、この「できなかった」「しなかった」ことの分析から分かると思います。だから、やらなかったことの原因を真剣に考えることなく、子供を強制的な練習メニューに放り込んだり、犬にはEカラーをつけるなどして、好ましくない行動をさっと消去しようとすることは、心情的にはとてもよく理解できますが、相手を知るための非常に重要なチャンスをも消去していると言えます。

 別の話でもすこし触れましたが何かを飼い育てる、教えるということは、結局は相手を知ることがほぼ全てなのではないかと考えます。ナンデこれが出来ないのかとか、ナンデしないのかとか、そういうことを探ったりする中で、少しずつ状況が改善したりすることもあるし、ふいに相手から感謝されたりすることもあります。藻掻きながら、親と子だったり飼い犬と飼い主という「オリジナルの関係性」の構築を目指していくことが、結果的に良いことなのではないかと思いました。



2021年6月1日火曜日

だれかの靴を履かない事



 向いていないこと、やってもできないことをみとめる事ほど、自分の子供や愛犬に対してすることが困難を極めるものもないと思います。いちおう、教育関係の末席にひっついている者として、また地域の子供達を集めて勉強会兼プレイグループなどもしている中で、面談などの場になると必ずこの「うちのコができないこと(潜在的にその子に不向きな事もある)を、どう出来るようにするか」というテーマが、往々にして立ち現れることに感心を持っています。育児の命題のひとつなのではないでしょうか。

 この問いに関しては、人の子と比較すると犬などは動物であり、はじめからできる事が明らかに限られているのでまだ「まし」です。呼び鈴が鳴って、毎回、爆吠えしてうるさかったとしても、「そうか、コディは我慢する努力をしたけど、できないんだね」で、なんとなく許されます。

 ところがこれが子供のことになると一変して、みんな我が子の可能性は無限大のように感じてきてしまうわけです。そして、「まわりの皆は出来ているのに、うちの子供は出来ない」と、急にみんな気をもみだしてしまいます。私も人の親として、この感情には身に覚えがあります。だからこそ時折こうして、「人には生まれながらの向き・不向きがある」ということについて考えたくなります。


野ばらの季節になりました。ブログに香りを記せないことが残念


 未就学~小学校くらいの子供達の暮らしを観察していて、やるせなく思う事があります。人と比べて発達がゆっくりな子らのことです。彼らは毎日、ねんどしたり、つみきしたり、草はらの端から端までチョウを追いかけたり、野花をつんで遊んでいたのに、5歳のある日、学校生活が始まって、突如他の子との比較の対象になります。「なんであなたは出来ないの」と、大好きな親に怒られる子が出ます。私が「義務教育」というシステムの根源的な欠陥だと感じるところです。

 義務教育とは、皆がお金をかけずに、だれでもある一定の質の教育を受ける事が出来るという点で非常に優れたシステムですが、年齢をベースにした制度のため、必ず不適合を起こす子供を生み出します。いきものは、同じ年齢でも、心身の発達や性質には開きがあるのは、動物の子供を育てたことのある人ならだれもが自然に知っているにもかかわらず。

 一つの集団を導く存在としていろんな子供に触れていると、人間の子供の個体差の振れ幅に圧倒されます。かつて自分自身がそうだったように、今やっている題材に、頭の成長がぜんぜん追い付いていない子なども、わりとすぐに分かります。人よりゆっくり何かを探求したい子供もいます。教科書の中で、さわりだけの単元をやって、はい、次!ではとても物足りないと思う、知りたがりな子もいます。義務教育の忙しいカリキュラムから抜け出て、時間を与えてあげるだけで、別人のように輝くのではないかと思うことがあります。机に座ってなにかをするより、クレヨンやらタイルを虹色にならべるのが大好きで、一日やっても飽きない奴もいます。所謂、「異能」というやつですが、そんな子らにとっては学校は、彼らの居場所のフリをしているだけの場所に留まるでしょう。

 惜しい、かわいそうだと思う一方で、そういう子を守ってあげすぎることもまた「ちがうのではないか」という気がしているから、悩ましいところです。近代以降のアメリカの学校教育では、平均的な発達段階の集団からはずれた子供達を「発達障害」「学習障害」「〇〇エクセプショナル」etc……、、、として、子細に区別したり、制度上有利な処遇をする傾向がありますが、こうした教育プログラムを経た子供達の大勢が、人一倍成功し、幸せな大人になったという実績はあまり耳にしません(たまたまうまく適合して、すばらしい効果が見られる人もいると思いますが、ここでは全体としての話をしています)。

 子供のうちから「定型発達ではない、特別な人」「あなたはユニークな人」としてとりわけ大切に扱われたとしたって、いずれは人生という競争の場に出て行かねばならないことは決まっています。子供達はどの道自分に与えられた現実に満足したり、もっと重要なのは、そんな現実の中に自らの幸福を見出して行かねばならなくなります。

 勉強や、知の世界を探求することとは、人生における「幸福への感受性」を高める主要な手段の一つだと思うのですが、どの子にとっても、そうあり続けて欲しいと強く思います。そのためには、その個体における「向き・不向き」を恐れずに認める事、親もそんな子供を認めて、子供にとっては親に受け入れてもらえる事が、まずはその第一歩と言っても過言ではないのではないでしょうか。






2021年3月24日水曜日

犬はシェルターから迎える事が最善である。という風潮について。

  

 今日は、「シェルターと犬」という、比較的センシティブな話題にふれるので、読んだら意見の違いを感じる人も多くいらっしゃると思います。あらかじめ申し訳ないなあと思います。そのうえで、個人のブログなので、最近犬をとりまく世間についての私個人の違和感を書いてみたいと思います。

 今日のテーマは、ここアメリカにおいてですが、「犬はシェルターでもらうことが『是』であり『最善』である」という社会の風潮が、近ごろ強まりすぎているような気がしているという点についてです。このことは自分の中で以前、ブリーダーから犬を迎えるということを面と向かって否定された出来事から尾を引いていて、今日はそのことについて身近な出来事も取り上げながら考えてみたいと思い、PCの前に座りました。

 本題に入る前に、間違えのないように強調しますが、シェルターから来て素晴らしいコンパニオン・ドッグになっている犬は星の数ほど存在し、そういうすばらしい可能性を秘めた大勢の犬達が毎年、大勢、処分されているということは改善されるべき問題です。これは、私個人の考えの中でも前提とする大事な部分ですので、とりちがえのないよう、おねがいいたします。




 本題です。慈善の精神が重んじられる国・アメリカに住んでいると、愛犬家なら当然、犬はシェルターから迎えますね!というプレッシャーを感じることがあります。SNSでは、犬好きの友達の多くが「犬をアダプトしよう!」というポストやビデオクリップなどを毎日のように気軽にシェアしてくるし、TVニュースのチャンネルによっては、ヒューマンソサエティ系のコマーシャルが繰り返しよく出てきます(寂しい檻の中で可愛そうな目をした子犬と共に、悲しい音楽の流れるコマーシャルです)。

 フェイスブックの地域のグループでは、「○○という犬種の子犬を飼いたい。誰かいいブリーダーを知りませんか。」といった質問に、「質問の答えにはなってないのはわかっているけど、あなたの犬はシェルターで引き取るべきです。」「A D O P T!」と書き込む人らが大勢表れて、その剣幕に驚かされたこともあります。上に書いた通り、道で出会った見知らぬ人との犬トークでも「ブリーダーなんか要らないのよ!」と、熱心に持論を展開されたこともあります。

 ペット量販店では、レジで「恵まれない犬や猫に募金をしますか?」と聞かれる・又はそういった質問が支払いのパネルに表示されることはわりと普通で、「しません。」を選択する事は当然の権利ながら、なんとなく自分が弱い者を助けないやつになったような気になる事もあります。


大好きなベーグルチェーン「ティム・ホートンズ」(やすい)
 

 時には、「イヌネコはシェルターから」を熱心に推し進めるあまり変なことになっている構図も見られます。ちょっと前の例になりますがたとえば、ロードアイランド州でペットショップで陳列(販売)される犬や猫はシェルターやレスキューから来た生体に限る、という法案が議会を通過して、一部犬好き界隈で話題になっていました。そもそも環境が劣悪な場合があり問題視されている生体販売店に、家や家族をなくして、心身の不安定な状態の犬猫を連れてくるのでは愛護の観点からも本末転倒に思えますが、そもそもこのような法案が出来る気運があり、大真面目に検討されたということ…、これを「いいアイデアだ」と思う人がまとまった数いたのだという事実に、はっきり言ってかなり驚いたのを覚えています。




 犬の世界にとって、犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれない「パピーミル」や、無計画な「バックヤード・ブリーディング」の存在は潜在的に危険なものです。また無責任に捨てられた動物を一時保護観察する場所として、機能的なシェルターがあることは言うまでもなく重要です。そのようなシェルターからいきものを引き取り大切に飼い育てることも、倫理的良い行いと言えます。

 けれども、この「倫理的よい行い」を追求する過程で、『純血種の犬や、それをふやすブリーダーという職業自体もすべて悪である』『みんな、ブリーダーの犬を飼わずにシェルターの犬を飼うべきである』『ブリーダーから犬を買う者は、みんな、無知で愚かである』と、極論に走る人が大勢いるという点には、注意が必要ではないでしょうか。

 犬について真面目に考えたことのある人なら、それは問題を単純化しすぎているとすぐに気付くと思います。しかし残念ながらここアメリカでは若い人などを中心に(ほとんど義憤といっていいレベルの感情とともに)上記のような主張を持った人に何度も出会ったことがあります。冒頭に書いたフェイスブックのご近所グループで「純血種の犬が欲しい」と言った人を攻撃的になじっていた大勢の人々も、この類に入るでしょう。




 そもそも、「シェルターで犬をもらう」という行いの善性について語る前に、「シェルターで犬を貰うことは万人にとって適した行いか」という別の疑問についても、もっと世間で議論されるべきではないのかな。はっきり言って、シェルターの犬をもらっているけど、上手に育てられると思えない家庭環境の人を大勢見たことがある。


 個人的な話になってしまいますが、ペット業界に居た頃、まわりにはシェルターでテクニシャンとして長く働いたり、ボランティア10年選手など、さまざまな人がいました。そんな中で経験を重ねた人ほど、シェルターの犬をもらうことに対して慎重だったことが印象に残っています。

 長年シェルターにいる様々な犬を観察し、時には自宅に引き取って寿命を全うさせる経験を誰もが持っている彼らは、誰にでも気軽にシェルターの犬を勧めるようなことはありませんでした。シェルターに居る犬について本当に色々な事例に触れ、時にはずっと後になってから予期せぬ健康上・行動上の問題が浮上するケースを経験していれば、そのようなことは出来ないのです。

 10年に満たないような私の北米生活歴の中にも、思い返せば「シェルターから犬を貰ってきたら、家の敷地内では可愛かったのに、ある日散歩中に豹変して、近所の老犬に襲い掛かって酷く噛んでしまった」というような話を複数耳にしました(←これは実際私と仲が良かった同僚に起こったことで、残念ながら老犬は死んでしまったのです。コミュニティにショックが走りました)。恥ずかしながら、私自身が仕事中にシェルター出身の噛まれかけた経験も何度かあります。

 前の家に住んでいたときも、隣の団地の犬で、非常に良く吠えるので「s h a t  u p---!」と毎日プロングで引きずられ、大声で叱咤されながら散歩しているハウンド系の犬がいました。子犬のうちに迎えたものの、育ったら猛烈に車を追い道行く犬に凶暴性を見せるようになり、早速、電気カラーで四六時中ビシビシ電流を流されながら散歩しているボーダーコリーミックスの若イヌがいました。どちらもシェルターや里親イベントでもらわれてきた犬たちです。

 上の2頭についてオーナーと立ち話したことがあります。2頭ともとても利口で可愛い犬達だし、オーナーの人達もごくごく普通のアメリカ人で、本当に普通にいい犬、いい人々なのです。ただ、住環境があきらかに犬に合っておらず、また飼い主達も犬の犬種的なニーズであるとか、どのくらいのトレーニングが必要であるとか、そういう事にとりたてて強い関心をよせるタイプではなかったところで悲しいほどのミスマッチが起き、それらが犬と飼い主両方のQOLを著しく下げていたのです。

 メディアやSNSでは里親の家で幸せに暮らしている犬が繰り返し脚光を浴びるなか、現実の世界では、だれにも取り沙汰にされない、「うまく適合しなかった例」も沢山あります。例えばの話、このような飼い主たちは、将来的な体格や、性格や行動がある程度予想しやすい「きちんと殖やされた純血種の犬」を飼っていたら、犬にとっても人にとっても、あるいはまったく違った結果があったのではないか?と思うときがあります。




 以前シェパードをアダプトすることでもグダグダとうんちくを述べていましたが、「シェルターの犬をもらう」という行為の問題点は、きちんと犬の健康や行動を把握できる、犬の心の動きをこまかく観察して、リスク回避やマネンジメントが出来る「アドバンスド飼い主」向けの犬がいたとしても、量販店などの里親イベントであったりシェルターであったり、カジュアルな感じで、「あなたは良い事をしている」という高揚感つきで、安価なペットとして犬を飼えてしまうところにあります。これは本当に良い事でしょうか。

 だから、「犬はシェルターから迎える事が是であり、最善である。」という風潮がいつしか勝手に現代の倫理規範のなかに書き加えられ、この「新倫理」が、

・好きな犬を飼う、その為にブリーダーへ行く
・自分と家族の生活に適した犬を真剣に選ぶ

という個人の自由までもさまたげ、ときに圧迫する様子すら見られることは、危険な傾向ではないかと思います。「個々の人は犬に割けるリソースが全く異なる」「個々の人は、犬を迎え入れる家庭環境に大幅な差異がある」などという、犬を生涯にわたって大切に飼う上で本来、最も重要視しなければいけない観点が、そこからは完全に抜け落ちています。




 大切なのは、どんな時も、出自がどんな犬であっても、毎日自分の犬を大切に世話をして最後まで飼いきることであり、また誰がどんな出自の犬を飼っていても、そこに至った他者の考えや行動、「選択の自由」を尊重する事ではないのかな。

 今日書いたことはもしかしたら世の中の多くの愛犬家とは逆行する考え方なのかもしれません。しかし、より多くの人が「シェルターにいる、かわいそうな犬達をたすける」という、感情に根差した視点を大切にしながらも、そこから一歩を踏み出して考える必要があると強く感じたため、書いてみました。


 今日の写真は5年前に散策したなつかしい夏のトロントから。ほんの数日だけの滞在でしたが、いっぺんで好きになってしまう魅力にあふれた街でした。犬もたくさんいてシティライフを謳歌してるように見えました。いいなあ~。現実逃避はこのへんにして、今日の無駄話をおしまいにしたいと思います。


2021年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます。


 
 こんな辺境ブログですが、見に来て下さる皆さんにとって2021年が、より良いものとなりますように心よりお祈り申し上げます。ゆく年がありとあらゆる厄を持ち去ってくれていますように。


 初霜が降りる頃、わたしたち一家は北バージニアのはずれへ転居しました。東京にもあきる野や奥多摩といった別世界がありますが、若干あのような感じで、周囲は静かな住宅地や畑が点在し山が見え、道端では馬や羊や野生のシチメンチョウに出会ったりする、のどかな土地柄です。

 今後目立った問題が起きなければ娘はここで少女時代を、コディはシニア時代を過ごすことになります。自分にとっては、自然観察や創作などのライフワークにさらに力をいれる場となりそうです(仕事はどうなった?)。自由に使えるスペースが出来たので、家の中に魚や植物や両生類の水槽エリアを設ける企みを練っています。目の前に何も書かれていないスケッチブックが置かれたような気分です。

 このようなザ・準郊外といった環境は犬にとっても人にとっても、いかようにしてソーシャルライフを継続していくかが課題となりそうですが、逆に個々の性質や性格が浮き彫りになる側面もあると気付きました。特に犬は、この場所に住み始めてから面白い程行動が変わっているので、追い追いログを取っていければと思っています。ということで、、、いつものようにのんびり進んでいくブログとなりそうですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。




2020年10月1日木曜日

急に涼しくなりました。

Lake Skaneateles, New York


 疫病に暴動に山火事にと、波乱ばかりの2020年に夏も遠慮したのか、今年の北バージニアは本格的に暑くならないうちにすっかり秋模様となってしまいました。どこへも行かずに終わってしまった今夏なので、今まで撮りためた写真を引っ張り出しては眺めて旅行へ行った気になっています。

 上の写真は、以前住んでいたニューヨーク州北部の街で、ちょうど今頃の時期によく魚釣りをしていた湖のデッキからの眺め。五大湖周辺のこのエリアはヒトの手指に似た細長い形の湖が多数あり、全部まとめて「フィンガー・レイクス」と呼ばれています。ここはその中のスキニーアトラス(スカニースルズとか、スキニアレスと表現されることも)という湖です。かつては北米でも有数の水質と透明度を誇ったのですが、17年頃から毒性のある青緑色の藻が大量発生してしまい、水質の再生が課題となっています。地域の努力でまたきれいな水が戻ってくることを、本当に心から願ってやみません。


スマイル100万点

 犬5歳娘5歳と、「おれたちのコロナ戦争」も継続中です。現地校がなくなって、週に一回のデイケア以外は自宅でホームスクーリングもどきをしている娘が、PC上でお友達に「まいにちたのしいよ。」と言っていたのがせめてもの救いと言えます。

 自分の方はといえば、日中は家や子のせわをして夜皆が寝静まってから仕事をしたり、買い物へ行ったりなどしているので、寝不足です。元気盛りの犬とわが子と、こんなにも濃密な時間を過ごせる1年間は今後一生ないと思いますが、たまに突発的に一人になりたい時もあります。ぶらっと一人で…、中央アジアでも行きたいな。ウクライナでもいい。バルト三国もいいですね。


この足裏みてください

 今週は、犬をブラッシングして、オフロに入れて、全身乾かしアンダーコートをすきました。歯石のチェックをし、ほんの先っちょを切ってお茶を濁す爪切り&パッドの間の毛を切って、4つの足裏を写真のの状態にするまでで半日が経過してしまった。これでも大分スピーディになったつもりでした。兎に角みんなでアメリカ生活のホワイトシェパードわんた氏は、足裏トリムをしたら藪でケガしやすくなったと聞いて以来、どうするのが正解なのかは分からないのですが。

 「いそがしい」とか言いながらこうして自分で不要な作業工程をいろいろ作り出し、ムダな労働と分かっていつつ一旦手を動かし始めると止まれないのが悪いクセだなと思いますが、犬はきれいになったから、まあいいや。


あらっ!手が入ってしまった。

 犬をきれいにして出かけた先は地域の獣医さんです。この場所でずっとやってる小さな病院なんですよ。セラピードッグの活動を続けるためには、定期的に健康診断のフォームを更新しなければなりません。コディは獣医での素行があまり良くないので(診察室内で、この図体でなんでというくらい巧みに注射や診察から逃げ回る)獣医さんや看護師の皆さんにはせめて清潔な犬を診てもらいたい。

 コロナのパンデミックのおかげで獣医さんの方式も大分変わっていました。車からドロップオフしたあとは、病院のスタッフの方で全ての工程をやって下さいます。途中で獣医さんが出てきて、行った治療と検査結果等を口頭で教えてくれます。待合室などで不要な混雑も起きないこのやり方は、検診程度で訪れる患者にとってはいいなと感じました。あとで看護師の方にも話を聞きましたが、飼い主から離されることで診察室内での行動が改善する犬も多いそうです。でも「コディアックはあなたと一緒にいた方がおりこうだけどネ」と言われてしまいました。あらら。


2019年6月2日日曜日

いちご祭りにて


 週末は、バージニア州スカイ・メドウズ州立公園ストロベリーフェスティバルに足を運びました。ワシントンDCからだと大体1時間20分ほどの場所に位置し、豊かな自然とワイナリーに囲まれた風光明媚な田舎の公園です。山積みになったいちごのカートンの出店を抜けると、ノーマン・ロックウェルの1940年代の大衆絵画からそのまま抜け出てきたような、年老いた大道芸人がいました。アメリカにもさるまわしがあることを初めて知りましたが、動物愛護の気運も高まるこのご時世においては、こうして野生生物を使役して収入を得るということは、失われていく文化・芸能のひとつと言えるでしょう。

 3歳と8カ月を迎えて、知性が犬を上回ってきた「ちいさいにんげん」の世話が本当に忙しくなり、最近全体的に遊び足りていないコディは、悪い子でした。最近気付きましたが、犬って、足元が芝生だとてきめんに行動が変わりますね。この日の朝も運動が足りていなかったコディは走りたそうにあっちへフラフラ、こっちへフラフラ、終始いれ込んでいて、いちご屋のディスプレイに突然前足を乗せたり(!)しまいには大きなダニを2匹くっつけて帰って家で念入りにブラッシングにかけねばならず、100点満点でいうと20点くらいのワルでした。

 どこへ行っても、行儀がいい、頭がいいと、割と褒められることの多い犬ですが、慢心せずいつもきちっとコンディションを整えてくることの重要性を再確認しました。


ワルの顔になっております。

 スカイ・メドウの名前の由来になったと思われる、広い空と丘陵を背景に写真を。こんな風景がどこまでも続いています。ワイドアングルのレンズじゃなかったのが残念です。そういえば最近、仲の良い友人の子供が洗礼を受けたのですが、家族の由来のあるヨーロッパの一地方に一族で何十人も集っている写真を見ると、とても賑やかで楽しそうでした。

 そんな様子を見た後だと、私達の家族写真はとても寂しく感じます。皆遠い所からやってきて、今この地に根付こうとしている3人きりのチームです。自由と孤独とが心中に去来します。喋らなくても、いたずらをしたり自己主張をしたり、フカフカとした毛の温かさを家庭に添えてくれる犬の存在は、我が家にとってとても意味があるのではないかと思いました(たとえワルであっても)。


2019年3月1日金曜日

いいことにフォーカスする


 
 犬のフォーカスではなく、私(人間)の話です。

 ここのところ、やっぱり「今の自分が出来る『いいこと』にフォーカスする」という考えを強く意識しながら生活するのは大事だなと、再認識しています。不肖・私自身の場合「自分に出来るいいこと」というと、現時点では仕事や私生活で(自分の子供含む)次の世代をよく教育すること、自然観察のレポートを書いたり(☜実は私の趣味的ライフワーク的活動です。Caudataという日本の生物系専門誌に掲載して頂いてます。興味のある方は是非)、犬と一緒に訪問活動等、生活の余剰エネルギーを社会奉仕の形にして還元することがそれに当たるでしょうか。犬のことに関しては、気付いたことはなるべくこのブログに書きたいと思います。そうすれば、あとで誰かが見て、その方の知識の足しとか、反面教師にしてくれるかもしれません。

 こんな事を考えているのも、常日頃の「生活の中で気を取られそうになる事・特に『かわいそうなできごと』というのが存外多い」という現実をひしひしを感じているためです。たとえば最近だと、やれ子供の虐待だ、犬の虐待のニュースだと、気になって、自分でもなにか発言せねばならないような気になることがすごく多いです。でも、そういう時はこう考えます。「私はただ家で子供を育て犬を飼っているからというだけで彼らのこと何も知らないじゃないか」と。そんな私の発言は、周りの人にとっては価値が少ないはずです。そしてそのような時はむしろ原点にかえって、やっぱり「今の自分の立場『だから』できることはなにか」というところに集中するべき必要性を感じています。


2018年4月29日日曜日

犬種セレクター色々

狭い台所に犬、子供、玩具も人もぎゅう詰め。 箸?もちろんテーブルに直置きさ!!(爆)
広い庭付き一戸建てに住めたらなあ。しかしコディは常に人とくっついてられるので嬉しそう。


 「ちいさいニンゲン」がいたずらばかりしています。少しでも目を離すとぴゅーっと道に出たり池におちてオムツが池の水でタプタプになったりするので、ダッシュで追いかけます。ありとあらゆる事に世話が必要な割に、子本人は人の助けを借りないで自力で行う事に価値を見出していて日々凄い数のエラーを繰り返すので、一日が終わるころには(主に後始末などで)笑えるほどくたくたになっていることが多い。人類史のなかで過去数万年間、10代や20代の若者が集団で行ってきた「子を育てる」という作業を、30代も半ばの、群にも所属してない「中年ハグレ♀」が行おうとする事の意味を日々噛み締めています(苦い)。

 そんななので、子を寝かせた後、PC上で何も考えなくてもできるアクティビティが癒しになっています。いつもは、描画ソフトで絵を描いたりして遊ぶことがおおいですが、今日はそれをする元気もなく、死んだ魚の目をしながら犬種セレクターに条件を入れて、出てきた犬種をただただ眺めるという境地に到達していました。そんな折、犬種セレクターにもいろんな種類があることに気が付きました。感心したりえ~と思うような面白い結果もいろいろ出たので、やったものをメモしておきます。※「正確度」は個人の独断によりです。



犬情報サイト「犬と歩けば」あなたにピッタリな犬種は?

正確度★★★☆☆

ファンシーな情報サイトの一部についてるサービスなので、正確さはあまり期待してなかったけど、目安としてはけっこう参考になる結果がでた。答えに出てくる犬種自体はあまり多くない。幼児がいるという条件をいれると、グレート・ピレニーズやバーニーズ・マウンテン・ドッグ、レトリーバーしかチョイスになくなる。

アイリス あなたにぴったりの犬種は?

正確度★☆☆☆☆

設問が4つしかなかったので、正確度は低いですが、聞いてくる質問がおもしろかった。合ってる犬種に「朝髪型がキマるかどうか」も関わってくるらしい!「車好き」かどうかとか。結果、自分に合う犬種はミニピン一択だそうです(笑)ミニピンは可愛いと思います。

CAIRKweb あなたにピッタリの犬種をみつけよう

正確度★★★☆☆

設問の数は16とまずまずですが、犬の散歩時間の選択肢上限が「毎日1時間ていど」とあった。このセレクターに限らず、他のセレクターでも「散歩の上限が1時間」は散見されるけど、ちょっと少ないなあと思ってしまう。私はおそらく、「子供」が条件に入るためかワイマラナ―、フラットコーテッドレトリバー、ゴールデンレトリバーが出る結果が多かったですが、特にワイマラナ―は散歩1時間では無理なのでは。


④IAMS犬種セレクター・ツール 日本語版 英語版 

正確度★★★★☆

「結果」で選抜された犬種をチェックして、dog breed compare toolという機能で比べられるのは画期的だと思った。英語版は読まずに絵でポチポチ押していけるので、テストがさっさと気楽に受けられる。自分の場合、ハンガリアンクーヴァース、アナトリアンシェパードが入りました(クーヴァースがわりと訓練が入りやすい犬だとは知りませんでした)。また、これの英語版で初めてジャーマンシェパードがチョイスに入ってきましたが、日米における「ファミリードッグ」の概念の違いを感じたような気がして、おもしろかった。(2019/7/20追記):日本語版は久々にアクセスしたら閉鎖してしまったようです…残念。

PURINA Dog Breed Selector

正確度★★★★☆

すこしでも向いてるとおぼしき犬の犬種をこれでもかと沢山列挙してくれるので、アイデアが欲しいときには便利かもしれないです。あと、犬の外見とかでなく、運動量の質問が最初に来る所に好感がもてた。私は、ノルウェイジャンエルクハウンドが選択肢に入りました。そういえば、いつも行くドッグパークにエルクハウンドが数頭いて、最近少し人気が出ている印象があります。でもオーナーの人曰く、敷地内でよく吠えるのと、社会性が育ちにくい、訓練が入りにくいので、「ペット」という感じではないそうです。でも、シバやコリアンジンドーからの比較で言えば、スピッツ系の中ではマイルドで飼いやすい方だと思うのですが。

AKC find a MATCH

正確度★★★☆☆

週にできるトレーニングの量で、最大値が10時間+になってました。一日約2時間くらいかな?楽勝楽勝!幼児がいなければ!!!(笑)でも、何回かやってみましたが、ベルジアンマリノワ、ノバスコシアダックトーリングレトリーバー、スウェディッシュバルフント、フィニッシュスピッツなど、アメリカではともかく、日本では入手しにくい犬ばかりが選択肢にあがりました。

ほかの犬種でも言える事ですが、理想を言えば、自分の家から車で行ける範囲に2、3件ブリーダーがあるような状態がいいと思います。コディの時に色々見て回ってても感じた事ですが、ケンネルが実際に会って話せる距離にあることは非常に助かるし、それに、同エリア内にブリーダーが複数あるほうが競争が生まれるので、犬の質が良くなると思う。一番リスクが高いのは、一度も訪ねることもせずに、遠くに一軒だけあるレア犬種のケンネルとかから犬を送ってもらおうとすることです。このあたりはもうどうしてもそうならざるを得ない理由もあると思いますが、やはりネックだと思うのは人間、実際に会ったこともない人に、生まれた胎の中から一番いい子犬を譲ることは絶対にありえないと思うので、理想を言えば、会って一緒に食事をするくらいのことは出来る距離が良いと思う。

Dogtime.com Dog Breed Selector

正確度★★☆☆☆

犬種という意味ではこのセレクターが一番列挙してきました。ただ、挙げてきた犬の傾向がわりとバラバラで、頼りになるか?と言われたら微妙かな…、、、シュヌードルとかゴルダドールとか、正確には「犬種」ではない候補も入っていたので、とにかく自分の用意できる環境に少しでも掠りそうな犬をたくさんチェックしたい、という人向けでしょうか。というか、ここまでセレクターを沢山やってみて、それぞれが出してくる候補にかなり幅があることが分かりました。こういうのの中から繰り返し出てくる犬種というのが本当に合っている犬、という意味では色々試す事にも意味があると思いました。

Animal Planet Dog Beed Selector

正確度★★★★★!

このあたりで吹っ切れて「子供」を考慮しない解答をしました。ベルジアングローネンダール(99%)、ベルジアンマリノワ、ジャイアントシュナウザー、ベルジアンタービュレンと、私の趣味がこれ以上ない程丸出しの結果に(一点だけ、私はジャイアントシュナウザーよりブラックロシアンテリア派です)。趣味と自分に合った犬種が合致するのはとても幸せな事ですが、それが現実、実現不可能と分かった時の悲しみも半端ではないので悲喜こもごもですね。


 では現実逃避はこのへんにして、就寝しようと思います(死んだ魚の目)。これから犬を飼おうと考える、どなたかの参考になれば幸いです。


2016年4月30日土曜日

東京鳥聞録

「美魔女よ!」と申しております。


 日本に帰省しています。ふるさと東京に滞在するほか、家族の故郷山口県にも立ち寄ってきました。
 久しぶりの日本の田舎は、犬が減ったのにビックリ。
 かわりにちょっと未来のペットを思わせるおもしろい動物に出会いましたので、あとで書きたいと思います。
 写真は実家においてきた愛ハトです。4月24日にお誕生日を迎えました。
 15歳めざして元気で頑張れるよう、アメリカへ戻る前にひよこ電球をプレゼントしようと思います。


家の中を縦横無尽に飛び回るぽっぽさん

タンスの上を闊歩


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