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2025年6月1日日曜日

「あなたの犬、咬みますよ」

 


 所用で知り合いの家に行った時、そこの家の、もう成人した子供さんがウエストバージニアのパウンド(保健所)から引き取ったという若い犬と出逢いました。ヒーラー系の小柄な雑種で可愛い犬です。子供さんの大学院がお休みの間、友人夫婦に預けられたというその犬の目つき、挙動を一目見てあれ?と思いました。この犬は以前だれかを咬んだことがあるのでは、と感じたからです。



 その知り合いは私よりかなり年上で、よい関係ですがなんでも言い合えるようなすごく親しい間柄というわけでもないのです。そこへきて、しかもまだ何も起こっていないうちから「この犬咬みそう」なんて、あまり空気を気にしない私でもさすがに言えないぞ。でもちょっと考えてしまいました。


 今思えば問題行動の段階で相談してくれていた時に、当たり障りのない助言しかできていなかったな。私が地域の訓練士さんのおすすめのリストを持って行ったりしていたころ、彼等はまさに事故が起こるせとぎわにいたのに。そんな人に悠長に『アドバイス』とは我ながら聞いてあきれる。その咬まれて死んだ近所の老犬、保健所送りになった同僚の愛犬への責任は私にもあるのだ。

「グッドボーイはどこかな?」と探すフリをする私
自分を見つけてもらえるかも知れない嬉しさで頭を抱えてるコディ

 ここで私がやいやいすると「少しのことでおおげさな人」みたいに見られることが多いのもまた悩む所です。

 〇行動を起こさない➱ 犬が事故を起こす、友達が怪我をする、犬の命がなくなる
 〇行動を起こす  ➱ 何事も起こらない、自分はうるさい友達と思われる

というような構図になったりします。これはウィン&ウィンの逆で、マケ&マケみたいな、不毛な二択です。ただ私が「うるさい友達」と思われるポジションで満足していればいいだけなのですが、悲しいかな、「よき友人と思われたい」という願望が私にも存在するんですよね・・・

 間をとってやさしく指摘したり、訓練をすすめたりすればいいじゃんと思うかもしれないですが、経験上、やさしく指摘するのだと危機感がちゃんと伝わらないことが多いです。犬に関して、大抵の人は実際に問題が起こってはじめてあれ・・・ちょっとやばいかな?となるものだからです(そういう必要性にピンと気付いて未然になにかしようという性格の飼い主だと、そもそもあやしい状況までいかないことが多いです)。

チラッ

 何よりも、私がこういう些末な大人の都合みたいなことをことをごちゃごちゃと思案している間にも、今すぐにでも軌道修正しなければならない目の前の怪しい犬が、何のおとがめもなく、「また自分の思い通りにやれた」と自信をつけている様子が手に取るようにわかります。私の中に住んでいる『犬しつけ職人』が居ても立っても居られなくなる瞬間です。

 こういう時「もし私が犬の訓練士の資格でも持っていたなら、もっとはっきりと進言できたのかな。」と思います。いや、無理かもしれないな。世の中でもまれる中年をやって久しく、すぐ相手の立場や気持ちを考えすぎるクセがついてしまって、それは良いことだと思うのですが、目の前の問題に即座にとりかかって目標を達成したり、現状を打破する際のスピード感みたいなものが大幅ダウンしたと思う。


 こういう時、嫌われ者になったり、うるさい人と思われてもいいから、ブレイクスルーする力が欲しい。上手に伝える術はどこかにあるはずで、それをさがし続けないといけないと思う。場面や状況、相手によっても変えていかないといけないし、そういうのを「本物のソーシャルスキル」と言うのだと思う。ただあたりさわりのない、安心させるような耳ざわりのいい事を言って、相手の問題を真剣に解決しようとしない、それだと相手は結局は失敗したり、困ってしまうことが多い。そういうのは真の意味での社交上手ではないし、なにより不誠実である。


 人間の教育現場でもよくある葛藤なのですが。

 なんだかんだ10年くらい教育関係の領域の末席をうろついていると「この子は、幼いころにあまりしつけをしてもらえなかったんだな」という子供に出会う事があります。しつけって、勉強以前の問題で学校とかへ行くずっと前から「父さん母さんはこう考えるんだ」「ウチではこうやるんだ」ということからくる、その人の行動原理を形作るものということですが、この部分が抜けてる子がちょっと増えてる気がします。

 今の学校って、子供が小さい時は「まだ小さいから愛情を求めている」とか、低学年くらいになると「苦手も個性だから尊重し、良い所を見つけて褒めて伸ばす」というアプローチで、『子供の人権』とか、最新のナントカ式教育技術をうたう『識者』みたいなのが急に出てきて、耳ざわりの良い事を説き、今実際に目の前の子供に起こっている問題の実質的な解決が先延ばしにされてしまうことが多いと思う。親も「プロの先生が言うのだからこの通りでいいのだ」と安心させられてしまったりして、その子供の勉強だったり素行上の問題について本当に責任を持って取り組んでる人が実はだれもいない、という図になっていたりしています。

 そうこうするうちに、こういう子達の多くが小学校ではぼんやりとした不適合を起こし、4、5年生くらいから学力も伸び悩むようになり、中学校位になると思春期もあってだんだんまわりから手を差し伸べてくれる人も引いていき、親も仕事で忙しかったり、なおかつ衰えてきて積極的に介入したり子供の軌道修正ももはや出来なくなり、だれからも真剣に向き合ってもらったことがないから自分自身の価値に気付かず、大人を尊敬することも知らず、よって手本となる人もいない、夢もない、得意な事もない、誰からもなんとなく放置された若者が残される・・・そんなに珍しい話ではないと思う。

犬の口元のこの「ふぐふぐ」した所が大好きです
コディの「ふぐふぐ」は触り心地も匂いもとてもかわいい

 この経路を逆算して子供に接するので、私は小さい子供に対しても、子犬などに対しても、比較的厳しいと思います。すると「○○ちゃんのきびしいお母さん」「こわい先生」と思われることもあります。いつの間にかよそんちの子供のしつけを肩代わりさせられてる時もあります。

 でも、犬の子だって小さなよちよち歩きの頃からその10ヶ月後の姿を想像しながら育てないとならないですよね。抱きしめたいほど愛らしい子犬の中にも「今、正した方がいい考えや行動」というのはある。そういうのをひとつひとつ優しくでもしっかりとしつけてやるのは重要な飼い主の、というか飼い主にしか出来ない役割だと思います。人の子供も同じなのではないかな。小さい頃から傍について「あなたたちは大人からどう見られているか」「社会からどんなふるまいを求められているのか」「その中でどう幸せを目指していくか」子供に知らせて、時に手本を見せてあげることが親やまわりの大人の責任なのではないかな。

 とかなんとかああでもない、こうでもないと思いめぐらせながら歯科治療を受けていた今日です。実は今日の日記は全部歯医者さんのイスの上で書いてます。「ウエストバージニアのパウンドから引き取ったウチのダルメシアン、同居の犬を咬むんだよね。今日マズルを買うわ。」という歯科衛生士さん。すわ、チャンス到来!!!「今日からすぐやるといいこと」を紙に書いて渡しました。それにしても『ウエストバージニアのパウンド』はいったい、どうしたことか?興味がわいてきました。一度覗いてみたいです。

~オマケ~


 チビのスナネズミがやたらと人に慣れてきました。見ているとずっと手の上にだっこされています。私はストレスで死を覚悟して固まってると思ってたのですがこの状態のままトイレットペーパーの芯などを差し出すとカリカリかじっていたり、そのうちねむたそうな感じになってきます・・・どうやら娘の言う通りほんとにリラックス?しているのかも??

 スナネズミがこんなによく人に慣れるとは知らなかったので、どうやったの?と聞いたら「お母さんが言った『おどろかさない、5秒くらいの短い間やさしくだっこする、暴れてもケージに下ろさない、掴まれたり撫でられても落ち着いていたらすぐケージに下ろしてミルワームをあげる、落ち着いていられる時間を少しずつ延ばす』ことをやった。」と言います。

 聞くとこのやり方をなんとかの一つ覚えみたいに毎日10回、20回と愚直に繰り返していたようなのです。時間のある小学生すごい!ということと、やはりストレスでは?という一抹の不安、それからスナネズミもトレーニングが入るんだ!と二重の意味で感心しました。そして、トレーニングの基本はやっぱり頻度だなと確信しました。チビは、もう一匹の方も全く同じことしたけどあまり覚えがよくない、お勉強が苦手なのかな、とかブツブツ言っていました。こんなに小さな齧歯類だけど個性がちゃんとある!と感心しました。


2024年11月24日日曜日

牧羊犬の「空間的感度」



 最近、夜中にこっそり娘のスナネズミ飼育コーナーに入って行って、こそこそハムスターフードを食べてるところを現行犯逮捕された犬の後ろ姿です↑。どうりでエサの減りが異様に早いと思っていました。大きな体をまるめて、静かにケージのまわりを歩き回り、小さなバケツに入っていたフードをぽりぽりと食べてました。

 おなかの不調になやまされたここ数週間だったのですが、その検査の結果も何も異常がなく、獣医さんにも「おそらく庭で『食べるべきでないなにか』を拾い食いしたと思われます」と言われたコディです。乳酸菌等サプリを処方してもらい(ハムスターフードも取り上げられ)、失われた体重も回復し、すっかり元通りにしています。

 「家が田舎で裏庭が野原になっている」と言うと犬を飼ってる友達などにはいいね!と言われることが多いですが、落ちてる異物を見つけるのはほぼ不可能だったり、野生動物の出入り(=招かれざるバクテリアやウイルス・寄生虫の出入り)や、時には何かの死骸があったり、時期によっては化成肥料が撒かれていたりと、ペットにとってはわりとリスクもある環境です。犬の安全と健康をとるか、自由と冒険をとるかというジレンマがありバランスがむずかしいです。


じー(凝視)

 ところで、最近たまたま目に留まった文章で牧羊犬についてのおもしろい言葉が出てきました。Spacial Sensitivity、私の翻訳機は「空間的感度」と訳してくれたのですが、日本語ではほとんど聞いた事がない言葉です。これはspatial awareness、空間認識(能力)とやや近似したコンセプトだと思いますが、牧草地などの平面上に散在する家畜をまとめるために非常に優れた空間認識能力を生まれ持つ牧羊犬が、その一面として持つ空間に対する感受性とか過敏さ、と言えると思います。これについての記述が面白いのです。

”…これは牧羊犬のもう一つの奇妙な特徴です。牧羊犬は周囲の空間を敏感に察知し、他の犬、家具や壁などの物体、人など、何に対しても近づきたがりません。犬の首輪に手を伸ばそうとしたのに犬が後ずさりした経験があるなら、それは空間過敏症です。牧羊犬の中には、空間過敏症が顕著で、飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬もいます。そうなると、当然、犬をつかんでリードをつけるなどするのが非常に難しくなります。…”

と書かれていました。これはすごく面白いですね。犬のまわりにスペースみたいなものがあるということですかね。いったい、この世界がどんなふうに見えているのか聞いてみたくなります。今まで実際に働いているプロの牧羊犬は何度か見たことがありますが(例)、非常に賢い一方で、なんか野生の動物みたいなところがあったりペットとしては困った行動をする犬が多く「この子らは獣医でおりこうに出来るのか」という純粋な興味があります。こんど獣医さんに行ったら聞いてみようかな(飼い犬の年齢がら獣医のことが気になる人)。


うちの犬はあまりおりこうではないです

 そういう目で見てみると、一応牧羊犬の端くれであるコディもちゃんと(?)この「飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬」の片鱗があるので感動してしまいました。今でも何もない草地などに自由にさせるとそのような行動を見せます。コディはまた、若い頃は確かに首輪を掴まれることを嫌がったので、それでしばらく練習をしたことも思い出しました。このブログの中でも何回か書いたと思いますが、撫でられたり体に触れられることも本質的にそんなに好きではなかったです(なでられるのは後から「良い事」と分かったみたいです)。これらは「犬が自分のまわりにある空間をはっきり認識してる」ためだったのかも知れません。

 また、コディが大きな体にも関わらず私自身や家具にぶつかったり、足元に置いてある小さな植木鉢を倒したりといったことがないことについても、言いつけを守ってエライと思ってきたのですが、それも上に書いたような牧羊犬らしさと連続した特徴なのではないか?と思いあたりました。彼の場合「境界」をかなり明確に認識していて、柵などで区切られたスペースから出ない、いったん袋に入れられたものはどんなチャチな袋であっても出さないなど、自分なりに決まりをあてはめながら日常生活上のいろいろな要素について繊細に感じ取っていることが感じられました(ハムスターフードの『バケツ』は境界として認識されなかったようですが!)。


私の長年のペットであるヘビ(14才)の餌を買いに、ペット用品店へ。
娘が消えたので探したらネコちゃんの里親コーナーに吸い込まれていた

この子猫が可愛くて、差し出した指にそっと白いお手々を乗せてきました
「マーベリック」という名前のオスの子猫でした。幸せを掴んで欲しい



 今月は学校行事やコディの獣医などで町に行く機会が多かったなあ。幼児の帰りに町に昔からあるちょっとしょぼめのグロッサリー(食料品店)に立ち寄ると、すごい色のカップケーキや、砂糖でネチャネチャした生地にM&Mがこれでもかとちりばめられた大人の顔くらいあるクッキーが棚にぎっしりと並べられ、こうなってくると忙しかった2024年ももう終盤、という雰囲気です。

 最近時々思うのですが、いつか自分がばあさんになった時、私は、こういった日々の普通のアメリカの光景のことを非常に懐かしく恋しく思う時がくるのだろうと思います。砂糖とショートニングの味がする極彩色のカップケーキであったり、地元の無料の新聞についている、どうでもいいクロスワードを娘と一緒に解く日曜日の午後の日差しだったり、乾いた北風にゆれる無人のガソリンスタンドの、錆びた看板の空の雀の巣や、犬を車にのせて通り過ぎるアパラチアの山すその鄙びた家々であったり、私はキリスト教徒ではないけれど、祈るとしたら今なのだということを肌で感じて分かります。今日自分を構成する、ひとつひとつのものについて手繰り寄せ、丹念に確認し、感謝を捧げることが祈りの本質であるのだと。


2024年11月15日金曜日

まずは足元から・・・



 北バージニアの田舎地域では急にぐっと気温が下がってきました。若干の霜も降り始めたので、外に出していた植物を順次、中に入れています。表では、今年もすっかり役目を果たした棚の枯れたぶどうが晩秋の風に揺れています。枯草の風あいを楽しみながら歩いているといつのまにか犬の全身にくっつき虫が付着していたりして、ちょっと隙を見せるとすぐジャブを打ってくる感じがいかにも植物、いかにも自然、といった感じですね。こうした所に住んでいると、人間にとって自然というのは「常に全力で叩きのめさないと制御できない存在」という方が本質であって、私達が慈しんでいる部分というのは、自然という神が、自分の着物の裾かざりらへんでちょっと遊ばせてくれているのに過ぎないんじゃないのかなと思います。

 コディは久しぶりに子供関係の寄り合いに出席する可能性が出てきて、今週は近隣の街まで出てトレーニングをしていました。犬は、「練習だ」と分かると目がきり!として一生懸命です。セラピーワークなどを始め訪問の活動は長く続けられる良いライフワークですが、訪れる場所柄、あまり写真に残せない現場が多い点はちょっと残念です。 


千切れ雲の合間に飛んでいくハクトウワシが見えました


 そんな中ですが、実はここ2週間ほどコディのおなかの調子がよくありません。本犬は食欲もあってボール持って走り回っているのが救いですが、調子いい時と悪い時とが数日間隔くらいできています。すでに病院へ行って検査を始めていますが、まだこれといった要因が分かりません。私は炎症性腸疾患を疑っています。腫瘍などの可能性もチェックしないといけないので来週以降、さらに細かい検査をする予定です。

 また、今年後半に入ってから、後ろ足の筋力に少し衰えが感じられるようになりました。そこで遊びの一環として階段に前足をかけた状態でゆっくりとタテ・スワレをする動きをやっています。コディはここでも「練習だ」と分かると目がきり!として一生懸命です。でも『やるよ』と言うとカッとパワーが沸きすぎて「ゆっくり正確に」が苦手な犬なので、私がいつまでも厳しく合格を出さないと、耳を倒し前足ですがりついて「クウォ~ン」と文句を言ってくるようになりました😂。私も日本語で「ちゃんと落ち着いて丁寧にやんなさい」とか言い返したりして、もう、お互いに付き合いが長くなって遠慮がなくなってきてるわけです。笑

 犬は、前肢に意識が集中している生き物で後肢は工夫しないと重点的には使いません。この部分を鍛えるにはあるていどの負荷が必要になりますが、これが犬の場合かなりの難題です。特に体重のある犬の場合はすぐ膝などに負担がかかるので案外ちゃんと鍛えるのが難しい箇所だと思います。とにかく、腸と足元の健康は本当に大事だな、なるべく保存をと、地道にできる事をやっています。→(追記)犬のハムストリングはじめ後肢の筋肉強化について書きました。


番でしょうか、ハクトウワシがもう一羽続きます。見えるかなー

 そういえば前回ぶつぶつ言っていたアメリカの大統領選挙も終わりましたね。
 二大政党の応援合戦も終わり、どこかホッとしたような街のようすです。

 私とコディが今住んでいる村一帯は北バージニアの中でもかなりコンサバティブ(保守的)な地域ですが、ここに来る前に住んでいた街は逆にかなりリベラルな地域でバージニア州に住んでかれこれ15年弱、政治的には180°の環境を経験してきたことになります。それで気付いたことがあるのですが、ほとんどのアメリカ人はコンサバティブであれ、リベラルであれ、共通点がひとつあって、それは皆政治的な議論には熱心だけど、自分の足元に落ちているごみを拾うひとはあまりいないということです。笑

 リベラルな街にいた8年間は、特に印象的でした。その頃私は赤ん坊を背負ってコディのひもを腰に巻いて、毎週自宅周辺のブロックの歩道をブロワーで掃除したり生垣の伸びすぎた枝を摘み、落ちたごみがあればささっと拾っていたのですが(スモールトークが苦手なのでいつも超速で)、民家の間を縫うように進む公共の道はごみがたくさん落ちていました。それについては誰も気にしてない感じでした。わりと仲の良かったナチュラリストのご近所さんがある日「季節ごとにゴミ拾い作業員の方を雇うし、その人達の仕事を奪わないため」と教えてくれました。

 私はそれは変だな・・・と思いました。毎日通る道について「数カ月に一度大掃除をするから今は汚れてても平気」という考え方はまあなんとなく分かるけれど、なんか納得はしにくい。それに、ある地点のゴミの総量が減れば業者の仕事の質があがり、決められた時間内でより広範囲に清掃が進み、私達の生活の質も上がり、清掃業者のレビューも良くなって、みんなそっちの方が良いんじゃないだろうか?やはりもとからゴミが少ないに越したことはないはずだ、と思っていました。

 でもそれより気になったのは「誰かの仕事を奪わない」とか、なんとなくいいかんじの理由をつけてやらないことを正当化しているところでした。ゴミのことは単なる一例ですが、自分のすぐそばに散乱している問題、たとえば勉強とか将来設計とか家族関係を良くすることだとか、には取り組まずに、自分だけは快適な部屋の中で地球環境とか動物や女性の権利の議論に興じようという人、という図にしばしば出会った気がします。大義のためには滅茶苦茶がんばるけど、自分自身や至近距離の人のくらしを良くすることについてはやけに力を出し惜しむような。でも別の見方をすれば私のような考え方も「些末な事にばかり気をとられて大局的でない」と思われるのだと思います。

 例えばこれがたとえばユニフォームなどを作って、ただのゴミ拾いを「#地域の保全活動」みたいな形に整えてあげると急に「コミュニティのために!!!」と我先に飛び出してきてやってくれるところもあるんですよね。メディアでは自由奔放に見えるアメリカ人も、一般大衆は意外と『体裁』をかなり気にしているし、常識から逸脱することにもかなり抵抗を示す人が多いですね。

2024年11月1日金曜日

新しい友達/大統領選挙



 先日、近所に住む日本人のイヌ友さんの子犬を見に行ってきました。ピチピチ生後7か月(だったかな)のドーベルマン君です。可愛いですね~。バネ仕掛けの人形みたいにビョインビョインしてました。目がくりくりで骨と皮しかない可愛いカチカチの頭で「愛の頭突き」をしてきました。うちの先住犬も若い頃こうだったな、と非常に懐かしく思いました。コディも少しの間、お庭で一緒に遊ばせてもらえましたが、相手はまだ体の出来ていない若犬なので怪我させないよう頻繁に呼び戻されて、ちょっと気の毒でした。写真もなんか不完全燃焼の時の顔ですね。

 コディの「完全燃焼」というのは、ヒグマのようにお互いに後肢で立ち上がり雄たけびを上げ相手の首を狙って嚙みまくる(フリ)どすこいぶつかり稽古を小一時間、それかオトリ役の犬を追い回して首を狙ってピンダウンするトドメさし(フリ)なので・・・・・・よく相手を吟味しないといけません。けれど世の中本当にうまくできていて猛獣に襲われる気分が心の底から好きな変態ユニークな子がたまにいるのですよね。そういう子達と出会ってこられたことは本当に幸運でした。


日本語の家勉をやってると来ます


 さてアメリカでは大統領選が近づき、なんとなく街や人々の空気が変わってきました。4年前の大統領選前夜、私とコディは深夜のDCを徘徊したのですが、ちょっとスリリングで楽しかったのでよく覚えています。街はまた板張りになっているそうで、「近づかないように」と日本大使館から通達も来ました。日米メディアではハリスの評価が総じて高いようですね。

 私個人の所感としては、ここ数年の物価の大幅な上昇、違法薬物の蔓延や治安の悪化、バランスを欠いたように見える学校教育関係の政策が次々と生まれるなど、ここ4年間だけでもこの国に急速にさまざまな変化が起こっている事を日々自分の目で見て、生活を通して、時に直に影響を受けることで実感して来ました。

 同じくここ数年で国際情勢もかなり、大丈夫かなという状態になってきていますよね。これを書いている今現在も地図上のさまざまな場所での戦争と大国同士の緊張関係が続いています。国際舞台での米国のプレゼンスが弱まっていることを実感します。


ごみ置き場にされてることに気付いた犬


 近年の新聞やニュースなどでは地球環境、機会の平等、多様性、移民政策、SDGs等が常に取り沙汰されてきて、全体的に見て『社会的弱者の救済』がトレンドでした。これまでのアメリカという国はそこそこ秩序ある社会と経済力があったから、これらにまつわるさまざまな政策が実現してきたと思います。しかし、実際に日々暮らしている者からするとだんだんそういった文化的「あそび」を許してきた基盤が崩れ去ろうとしているのではないか?それに伴い、人々の生活の質も落ちてきているのではないか?と感じることが多くなりました。



 先日コディが歯の手術をした時にふと頭に浮かんだのが、もしかして今、アメリカ中で、治療が出来ずに安楽死になる犬が増えているのではないかという考えです。ペットの安楽死の件数については包括的な統計がなく、さっと示せるデータがないので完全に憶測なのですが・・・

 北米のペットの医療費は以前ちょっと触れたとおりもともとインフレ率を遥かに上回るスピードで上昇してきたのですが、ここ数年で人件費や医薬品費、医療設備費などの高騰が追い打ちになったのか、さらに割高になった感があります。私達の場合も、検査と日帰りで歯を数本抜く処置で、一般家庭のひと月分の生活費くらいのコストがかかりました。もし、入院が必要な高度な手術や、治らない病気の治療だったら?さまざまな事情で医療費の準備ができない家庭も多いはずです。なついてくれて、ずっとついてきてくれた犬なのに、どうしてもお金がないから助けてやれない、そのような人が増えているのではないか?とふと想像しました。

 飼い犬を苦しませてしまうことは犬の飼い主として一番辛く苦しい事ですが、一般的な中流のアメリカ人の視点から見ると、働いて税金を払い、各種ローンや保険料を支払い、ものの値段がどんどん上がる中、家族を養い、ガソリン代の高騰や高度オートメーション化にAI化で職もいつ失うかも知れないという危機感の中で、どうしても無い袖が振れない、また今回だけはと家中からお金をかき集めたとしても、もし今後もずっと治療が続くようならあきらめなければならない人、というのが一体どのくらいいるでしょうか。そうやって治療を泣く泣く放棄する人を非難できる人が、またどれだけいるでしょうか。

 犬好きなので犬を例にとりましたが、このようなことが多くの人々の生活の色々な場面で生じているのが、今のアメリカの現状なのだろうと思います。大統領選挙というのは昔から「4年に1度のセレブリティ大運動会」みたいなもので、こういった民草の現状を候補者が本当に理解することは難しいのかも知れませんが、見た目や性別や話し方ではなく、実務能力こそを政治家に求めたい、周囲を見渡すと多くのアメリカ人がそう感じているように見えます。これはメディアには決してとり上げられることのない、「地に足をつけて日々の生活を営み家族を支える多くの平凡なアメリカ国民の思い」ではないかなと思います。


2024年10月20日日曜日

散歩の愉しみ



いや~、散歩には最高の季節がやってきましたね

空の色、枯草の色合い、行き過ぎていく景色がいいなあと思いながら歩いています

うちの犬は毛深いのでこれから3月上旬までが「散歩シーズン」です。

個人プロジェクト(ごみ拾い)も再開です。コディよ、がんばってね。




いきものウォッチングにもちょうどいい季節になりました。

・ドッグトレーニング
・ドッグフィットネス
・自身のトレーニング
・個人プロジェクト
・気分転換
・両生類の観察(長年の趣味)

などなど、相変わらず散歩に全部盛り込んでいます。
日々新しい場所を探索するきっかけとしても見過ごせないですね

私が生き物を探したりそのへんの人と立ち話する間、待たされるコディは不満顔ですが!


第一村人発見


最近自室を整理して、ついでに生活習慣も見直していました。

今年は年始の抱負通り、貯筋にはげみ、ずっとほったらかしだった検診なども受けてきました。
脳MRIをとって脳の灰白質や白質の容積を見たり、認知機能の確認もしてきました。
こんなにも忘れっぽいのに信じられないですが異常ナシ。

次は膝と脊椎の専門のスキャンを受けてみたいですがいつになるかな。
婦人科系、マンモグラフィーなども主治医にこれからは毎年しなさいと言われたので、ハイ、します。笑
偏食も何とかしたい。私は同じものばかり食べるので栄養状態が偏ってるみたいです
これは、血液検査で分かりました。

犬だったらドッグフード食べてるだけで健康なのに、人間は大変だ。


カエルが通ります 美しいですね


生活習慣の見直しは始めてみると結構おもしろくて、発見が沢山ありました。
今年は生活の中で不要な癖化していたものをいろいろやめたんですよ。
何かをやめること、やめどき、というのは判断が難しいものですが
「途中までやってほったらかしになっていた趣味」などは一旦、すべてリセットしました。

外食、計画外の買い物(※多肉植物以外)、snsもやめました。
意味なく人と逢う事もやめました、、、というとなんか孤独な中年の第一歩みたいなひびきですが
人間関係も投資と捉え、今後はこれはという目的がある人や催しに重点的に力を割り振るということです。

こうして削り出した時間を、優先度の高い事柄に集中して使っていこうと思います。


わたしは散歩はきらいです byおこげ


今の私にとって優先度の高い事柄は勉強、家族と個人のプロジェクトです。

不思議なのですが小さい頃から楽しんでた事
たとえば読書、新聞のスクラップ、運動、自然観察、捕獲と釣り、飼育栽培、
どうでもいいこまごまとした考え事や調べもの、それらを手帳をつける、お話を書く、犬、
そういったことはやはり生活の基本として残るし、いくらやっても飽きないということです

つまり楽しいのでしょう。

「三つ子の魂百まで」とは本当に言い得て妙であります。




見慣れた農道は無心で歩けるので、いろんな考え事も捗ります

人も犬も馬も、みな無心に行く古い道です

これも散歩の愉しみの一つでしょうか。


2024年10月10日木曜日

バージニア、秋です。




カエデの葉の紅葉がはじまりました。
バージニアの山々が一番華やかになる季節がもうそこまでやってきてます。
前の夜は、見上げると立ち眩みがするほどの満点の星が見えました。

うちの地域はみんな夜が早すぎて夜も7時くらいを過ぎるとどこの家も真っ暗
道を歩いてるのはポッサムかアライグマだけとなります。
天の川も、流れ星も、自宅の庭から見放題なのは嬉しいです。
寒風にガチガチと鳴る奥歯に耐えられればの話ですが・・・。




どうして昨晩の夜更けの星空について私が詳しいのかというと、、、
お腹をこわしていたこちらの犬のクンクン声に夜中たびたび起こされたためです。

肌着一枚みたいな恰好で外に出てしまったのでめちゃくちゃに寒かったです。
私は一度起きると眠れない体質なので諦めて起床し数日分のおやつを焼いたりしていました。
コディも外に出てトイレしたあとは台所をうろうろして焼きたてのクッキーやロールパンを欲しがっていました。

コディは炭水化物にはあまり興味がないんです。
でも、ホールフーズ(日本の成城石井みたいなスーパー)で買ったフランスパンの両端の部分と、
「家で作ったパン」だけは例外的にすごく欲しがります。
背丈があるのでカウンターもテーブルのものもなんでも手が届きますが、
私から直接わけてもらうまで絶対に待っているので、律儀だと感心しています。

 コディの聞きわけの良さは一般的な犬のレベルを超越していてたまにちょっと心配になるほどです。

時々友達の家に行ってそこんちの犬と遊んだりすると
「ああ、犬って本来こうだったな」
と思い出すことが色々あります。

小型犬も含めてどんな犬でも好きなのですが、聞き分けに関してはやはりシェパードは飛び抜けて良いですね。
9年間でほんとにスポイルされてしまった。

 
スナネズミも養い始めた我が家

とくべつ料理好きでも得意でもない私なのですが、
なぜせっせと焼き菓子などを作っているのかというと、、、ズバリ経費削減のためです。

前回のブログで触れたように、
大型犬がちょっと具合が悪くなっただけで、すぐ驚くほどの医療費がかかります。
そんなことを言っている自分達だっていつ病気や事故に遭うか分からないですよね。

日本と同じでアメリカも物価上昇が続いています。
あまり先のことを考えすぎるのも無意味かもしれないですが・・・
できるだけ計画的にやらなきゃなと思い立ちました。
生まれて初めてかんたんな家計簿もつけてみたりして。
数値化されるとゲームみたいになってきて、ちょっと楽しくなっています。

 


そんなこんなで、ちょっとずつ「家庭で育てられる食糧調べ」にも着手していますよ。

ハーブ類は、費用対効果がすごく高いですね。
バジルなんか環境が合えば際限なく茂るから、ペストにして、
家で作った「なんちゃってピザ生地」にのせて、チーズを加えて焼けば一食できます。

コディのためにとってる鶏ガラスープも、ニンニクとキノコ、
ちょっと摘んだディルを入れるだけで食事の足しになって、とっても得した気分です。


2022年11月11日金曜日

オジサンはつらいよ




 地域のスポーツ専門店に行った時ふと感じたことです。最近思っていたことなのですが、「この世に住むオジサン達、もしかして・・・・・・・。コミュニケーションが・・・・・・。下手?🤔」ということです。もしここを読んでいらっしゃる中に、いわゆる世に言うオジサンの方がいらしたら申し訳ありません。いや、能力が無いとかそういう意味で言っているんではないんです。そういう私自身も人とのコミュニケーションはそんなに上手な方ではありません。それなのになんだかエラソウに申し訳ないです(言い訳がましくなってきたのでやめます)




 セラピーの訪問でも思うのですが、犬への近付き方になんとなく性差があります。初めから「あらかわいい、あなたの犬すてきね」とまず私(ハンドラー)の目を見ながら近づいてくる人は女の人が多いです。「この犬と関わるには、まずこの犬の保護者と平和な関係を築くべき」という観念を感じます。これは、子育ての現場でもそうなんです。公園とかで、だれかの子供だけに声をかけて、その親に全く挨拶をしない人というのはいません。そういう人がもしいたら「変わった人」と思われるでしょうし、プレイグラウンドで「変わった人」と思われる事はまずい事だと多くの女の人達は本能的に、または経験上、知っています。

 一方セラピーで訪れるファシリティでも、普段の生活で寄るこういうお店でも、後ろから無言でス―――――ッと付いてきて犬とだけ交流し、ハンドラーの方は一切見もしないという行動パターンを取る人が一定数おり、男性が圧倒的に多いです。「異様にエネルギッシュで私の相槌を待つ間もなくすごく喋りまくってしまう人」もわりと男性に多いですね。コミュニケーションスタイルが変わってる人がわりと散見され、「中庸」というものが少なく、みなそれぞれのスタイルに突出する傾向がある気がします。



 
 こうしてみなそれぞれの方向に突出した結果、思いの外不器用な生を生きているオジサンは意外と多いのではないか、と思っています。もちろんコミュニケーションが上手なオジサンも沢山います。この写真のスケートショップの店長さんも磨かれた素晴らしいコミュニケーション能力の持ち主でした。だからスポーツ用品店でマネージャーをしているのでしょうね。

 オジサンについてさらに大変だなと思うのが、この生来の不器用さに、競争心とかがくっついてきてしまう時です。彼らの悲しさというのは「これはオジサン的には全くふつうだ、論理的である」という行動をとったとして、それがしばしば女の人の怒りにふれることだと思います。「プレイグラウンド」の例えで書いたように、女の人は本能や経験を駆使して平和に暮らすことがうまいので、そういう女の人の理念みたいなのとおじさんの論理がぶつかり合った場合、おじさんの考え方がおかしい、そうはいかんだろ、と怒らせてしまう。

 競争心のあるオジサンはここで競争したくなりますからたとえどんなにくだらない議論でも、相手を負かさないとスッキリしないわけです。女の人はそもそも議論は競争だとは思ってない人が多いので、ここでも認識に違いが出ます。このような戦いの行く末として、友人、家族や伴侶に手痛く人格を否定されたりして、心に傷を負ったオジサンというのもわりと世間でよく見られるものな気がしています。


2022年5月22日日曜日

海外で「日本人」を育てる



 とは言ったものの、自分が実際何人を育てているのか釈然としていない部分があります。6歳の娘の話です。「娘はニホンジンです。」と、思う事にしていますし、アメリカで生まれ育っているから「アメリカジンです。」というのも、妥当に思います。今日何が食べたい、と聞くと「ハンバーガー!」と言ったりしますが、なっとうご飯の日も多いです。にんたま乱太郎に声を上げて笑い、履き古したスニーカーにこっそり「ありがとう」と手を合わせてから捨てている様子などを見ると、「日本人だ」と感じます。生物学的に半分はロシア人であり、父親に言わせると性格は「スラブ的」だと言います。娘のおばあさんは先祖代々ボルガ川のほとりの小さな村に住んでいたメリヤというフィン系ロシア人の民族出身でした。小さなマユゲにユダヤ人が見え隠れする時もあります。言語も、文化も、DNAも、いろいろに混ざったチビな命、それがわが子というのが現状です。

 子が生物学的背景をこえて「何人か」を考えるときひとつの指標になるのが「どの言語で深く思考するか」ついで「その国の文化が母文化として体に染みわたっているか」という点かと思います。私自身を振り返れば、「日本で生まれた」ことや、「日本人から生まれた」こと以上に私を日本人たらしめるものがあるとしたら、「私は日本語で深くものを考える」「日本の文化を熟知している」という点ではないかと思います。

 とりわけ日本語による思考は、私が日本という地理的な座標から遠く切り離されても、いつでも変わらぬ基準点として自我を照らしてきました。義両親についても同じで、移民として40年以上このアメリカで暮らしてきましたが、どれだけアメリカの生活に馴染もうと英語がどれほど堪能になろうとも、思考の深部にはいつもロシア語があり、ソビエト的思考回路があり、日常のいたるところで脳裏にソビエトの詩、歌、美術や歴史の知識があふれます。たとえ自ら国を捨てたとしても、やはりどこまで行ってもソビエトの人なのです。血は水よりも濃いのだ、ということですね。水、血そしてここからさらに強力に自己を醸成する存在は「土」なのかもなあ、とも思います。正確には、血と土と固く抱き合った存在である言語と思考である、とやっぱり思っています。

 そのような観点から見れば、いずれアメリカで義務教育を修了してアメリカ文化に精通し英語による深い思考能力を身に着けることになる娘は、アメリカ人だということになります。生まれた時から疑いようもなくアメリカ人であるよその子供達と比べたら、成長のうちのどこかの段階でアメリカ人に「なる」後天的アメリカ人とも言えるかもしれません。

 ここで日本人の親としては、子供が「アメリカ人」であると同時に「日本人」であることは両立し得るのか、というソボクな疑問が浮上します。さっき書いた考えをもとにすると子が「日本の文化を体験として知っている」「日本語での深い思考が可能」であれば、「およそ日本人」と言えるとも思うので、じゃあ、将来的にそれをある程度可能にするレベルの日本語の力が子供にもあればよいのにな、という願望が芽生えます。




 ここワシントンDCメトロエリアは、日本人や日系子女が学ぶ場としていくつかのオプションが存在します。文化公共事業、および学生支援などを行うワシントンDC日米協会をはじめ、日本語継承センター、文部科学省承認校で高校2年生まである補習授業校ワシントン日本語学校などがその筆頭と言えます。また、全米でも珍しいのですが公立校で英語と日本語によるエマ―ジョン教育を展開しているFox Mill ElementaryGreat Falls Elementaryなどの小学校があります。未就学児についても土曜だけ開園する幼稚園にさくら学園たんぽぽ幼稚園ひまわりの会、日本語で保育を行うホームデイケア・プリスクールにバージニア州ハーンドンのわらべ教室、メリーランド州ベセスダのWEEセンター、などがあります。日系人の若者同士の相互扶助や夏冬のキャンプ・プログラムの運営をしている団体としてオーエン・ネットワークがあります。

 在住日本人の母数としては決して多いとは言えない都市圏にありながら、「日本文化や言語の継承」という観点から取ることの出来る選択肢が複数存在することは比較的恵まれていると言えます。北米において「バイリンガルの技能を高いレベルで維持している(バイリテラシー)」と判定されることは、たとえばバージニア州では「Seal of Biliteracy」の称号が与えられたりAP試験 (Advanced Placement Program Exam)で高校の単位を先取り取得できたりと、進学や就職活動において実益を伴うので、子にとってもメリットがあります(とはいえDC圏はもともと非常に優秀な人が多く、「マルチリンガルで全ての言語がビジネスレベルに達してる」というような人材もゴロゴロしているため、バイリンガルであるというだけではあまり評価に繋がらず、実際には+αとなる活動や運動系の技能などが同じくらい重要視されます)。

 子供に多言語教育を施す事には、目に見えることだけでない恩恵があるということで、毎年多くの子供達が日本語補習校などに進学します。


娘が初めてキンダーへ行く日、自分はスクールバスの所に連れて行ってもらえないと知った時の犬


 と、ここまで色々書いてきてずっこけてしまうかもしれないのですが、娘は補習授業校の1年生には上がらず、うちでのんびり自宅学習で日本語をやっていくことにしました。主な理由は、地理的な距離(上述したような機関の多くはうちから1時間圏にあります)と、またすでにアメリカの学校生活や習い事もある中で、さらに補習校へも行くとなると、子供が教室や机や車の中で過ごす時間が長くなりすぎるということです。ちょっとヒッピー的な考え方かも知れないけれど、今の我が子供の状態を見発達度合いを見、アメリカの幼稚園の成績を見、と総合的に俯瞰した時に「もっと実際の世界でさまざまな人と交流し、本物の自然と触れ、身体を動かしたり時にケガをし、原体験を積むことが必要だ」と感じました。

 普通に考えれば今後長く日本語学習を続けていくわけなので、勉強の習慣をつけるためにも速やかに日本式の学校に入れるのが良いと思いますが、最終的に学校で強制的につけられる『勉強習慣』と同じくらいかそれ以上に、実際の体験とそれに裏付けられた思考力、自信、独立性、社会性、根気そしてそして体力✊などがこれからの世を生きていく人には特にだいじで、まずはこれらの芽を伸ばしたいと考えました。

 また人間の子供を育てるうちに気付いたのですが「子の周囲に質の高い友達の輪がある」ということはかなりだいじな反面、子供が自力でこれを構築&維持していくことが難しいのだということです。特に車社会のアメリカではこの傾向が顕著で、小さいうちからそういうものを作ってあげるのはじつは重要な親の役割だった、と気が付きました。友達の輪は、親が自分から働きかけて作っていく以外に効率的な方法はなく、一朝一夕では困難です(だから日本でもアメリカでも『子供を私立に入れたがる忙しい親』というのが一定数いるのかな、と思います。ネットワークづくりを学校が担保してくれるので、、、)。というわけで、今後は犬のブログにときどき「外国で日本人を育てる(という無理難題にのたうちまわる私)ノート」が入ってくるかもしれません。



 ところで娘は昨日初めて「お弁当に箸が入っている事がみんなと違ってると思って急に恥ずかしくなった。」と教えてくれました。先週までは何の疑いもなくお箸とのり弁を持って学校に行っていたのです。クラスメイトは9割以上が白人の地域ですが、初日からお箸も海苔も、スナックに実家から送られたおつまみの貝柱(⇐娘の大好物)も持たせていたのです。かなり能天気な娘も、自分の食べ物がまわりとだいぶ違うということに急に気が付いたみたいで、日露米あやふや人⇒アメリカ人、への変容は既に始まっていると言えるでしょう。

 箸が恥ずかしくなった娘ですが、今朝のべんとうはサンドイッチにして、食器はフォークやスプーンを入れようか?と言うと、箸のままでいいと言ったのでそのままになりました。よく聞いてみるとどうもアメリカ人の子は弁当に野菜がたくさん入っているのに慣れてない子がいるみたいで、娘は茶色や緑色のお煮しめを「ew(きもっ)」と言われることもあるようなのです。「次は、あなたは工場で作ったピンクのソーセージばかり食べてるの?ew!っていったら?」と言ったら大笑いしていました。

 まだまだ小さい今のうちに身辺の出来事に自分で対処する方法を学んでもらいたいです。相手と同じ土俵に立ってみっともないと思われるかもしれないですが、○○ちゃんにewと言われた、とか先生に言いつけて自分の問題をだれかになんとかしてもらおうとするまえに、小さいうちからハッキリ自分の意見を言って、『いじわるするべきでない相手』と分からせることはだいじなことです(「何度もいじられる場合や、身体的に被害が及びそうな時は先生に言う」ことと基準は与えています)。それに、言い方は悪いけど、そうやって自分の力で他者を打ち負かす経験をしていないとはっきり言って自信は育たないと思うので、幼稚園の今がチャンスと思って頑張ってもらってます。


タコのようにかしこく柔軟に



2022年3月30日水曜日

最近の草


 そだてている草(多肉植物など)の近況です。犬も子供もまっったく関係のない記事でごめんなさい。いつぞやもボヤいていた通り、私の地方の園芸やは管理があまり良くないところが多いので、買った株をすぐバラバラにして養生したりしていると、鉢ばっかり増えてしまいます。でも、こういう草は一般的にはミニチュアの頃が一番可愛いとされ貰い手も多いんで、これでいいのかもしれません。根がきちんと張って太ってきたやつから友達にあげたりしていますが、結構喜んでもらえます。



 去年の8月の時点ではこんなに初々しかった宝草。それから子株がボーボーに生えてきていつのまにか「ヤンママ風」の様相を呈しています。そろそろ植え替え時なのかもですが、これはこれで可愛いのでいじりたくないです。でもこのままだと根づまりしそうなのでやっぱりそろそろ土を変えた方がいい気もします(めんどくさし)



 これも去年の8月頃に買ってきて解体して、そこから発根していたエケベリア・ローラですが、こんな風になっています。盆栽用の浅鉢に入れて放置してたのであまり育ってないのですが、先週重い腰を上げて植え替えて見ました。大きく育ってほしいやつはちゃいろの鉢に入れてみました。夏に向けてバンバン光を当てたいです。先週の金曜あたりを最後にバージニアは氷点下の夜は終わったので、今後は外で管理します。デッカくなってネ。


 一番最近来たやつ、ハオルチア・エメリアエ。近所のホムセンでひと冬ネグレクトされてたようでとんでもない姿になっているけど、「もともとこういう植物だ」と思い込むことにしました。すると、これはこれで可愛く思えてくるので不思議です。窓がブツブツしてて触ると気持ちがいい。いつか子株がとれたら、植え替えをしてピチピチのプリプリに仕上げてやりたい草。



 休眠処理という名の屋外放置を経て芽を出しているギボウシ左グアカモレ・右ゴールドスタンダード。いやあ強い!こんな小さな鉢で何度もガチガチに凍ってもう絶対死んだと思っていましたが生えてきましたね~。枯れ葉など体積物をそのままにしたのと、完全に乾燥させたのがよかったかもしれません(むしろ中途半端に水やってたら死んでたかも)。しかしさすが日本の野草、アメリカにはるばる渡ってきても大和魂は受けつがれていると思いました。

 無事新葉も出てきたので、また今年も室内で育成してみたいと思います。ゴールドスタンダードは西日で焼け死ぬと知ったので今年は同じ失敗はしないようにしたいです。というか、気を付けてあげないとちょくちょく植物が焼け死ぬ家です。普通に天気のいい日にデッキとかに出て照度計で計っても8万ルクスは固いので、さっさとサボテンでも買ってきた方が良いのかも知れません(この思考、破滅への入り口)。


2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳



 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。




 人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向がありますね。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。

 コディは生粋の肉食で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いないと思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。


思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます


 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。




 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。




 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだまだ雲の中ですが・・・。


2021年8月31日火曜日

井戸水の問題/オフ・グリッド化


 室内で育てているギボウシ(ホスタ)のつぼみがめちゃめちゃ長くなってきました。いつの間にか拉致されて、部屋の奥のほうにある戸棚に置かれていた。照度計で調べたところ、明るい時で24000ルクスくらいある棚ですが、いかんせん日の当たる時間が短い。暗い所が平気で有名なギボウシとはいえ、長期的に生きていけるか疑問のロケーションです。もともと林床などに生育するので相当暗くても(林内の照度は夏季が最も低くなる)大丈夫なはずですが、家の中で育てたことがないので、不明です。


 大分ふくらんできている。


 この草は冬季は葉っぱが全部カラカラに枯れて休眠するのですが、室内にいるギボウシもスムーズに休眠が進むのかという疑問もあります。気になって園芸サイトなどで調べてみると、だいたいにおいて

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  • 少なくとも2~3か月の間、気温が4℃程度で安定した、暗く涼しい部屋に配置する。
  • 破砕した木の皮やオルガニック・モルチなどをかぶせて根っこを守る。
  • 1か月に1回程度の割で軽い水やりを行う。完全に乾燥させないこと。
  • 春先に休眠場所からもとの場所に設置。植え替える場合はこのタイミングでする
  • 大きくなり過ぎたら株分けをする。でも、「しなくていい」と書いてあるものもある
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というかんじのことが書かれていました。休眠開始時期としては、北バージニアと緯度的に近い東北地方では10月に入ると枯れ始める株が出るというので、10月頭から外に出して寒気にあてて休眠処理し、初霜が降りる11月の初旬までにガレージに取り込んでみようかと思います(水やりを…というか存在をわすれそうですが)。また冬季に加温して冬越しさせている人のブログもありました。冬冷やさなくても、別段株が弱るなどの問題はないようです。しかし、最近のグーグルなどは「情報まとめブログ」のような形式のウェブが沢山検索の前の方に来て、こういう個人の人が時間をかけて情報を集積している良質なソースにアクセスしにくくなっているのは残念です。


今週のコディ君です


 最近、植物にやる水のことで大事なことを学びました。

 わたしたちが今住んでいる地域は北バージニア圏でも山のほうに位置するため、水道が通っておらず、生活用水は家庭ごとにポンプでくみ上げています。地下100m以上から引いている水はかなりの硬度を有するので鉄分を除去する装置を通しますが、処理の過程で水のphバランスが変化します。

 この水を長期にわたって植物に与えた場合、株が脱水状態のようになって弱っていったり、鉢内の土や土壌に塩類が蓄積します。土の変質は非可逆的なもので、物理的に土を入れ替える以外に改善方法がないため注意が必要です(特に夏場に芝生がカラカラだからとホースでじゃんじゃん庭に水をまいてたりすると、芝どころか土ごとだめにする可能性まであるといえます)。田舎の生活スタイルだと、こういう「知ってないと絶対まずいコト」が結構あって、改めて自分が都会育ちの無知なモヤシだということに気付かされます。

 井戸水問題に話を戻しますが、水に関しては雨水を集めてためておく装置の導入を検討しはじめました。ポンプから直接水をとれるよう、バイパスする方法もありますが、工事が必要になるのですぐには難しい。雨水をためるだけなら比較的簡単そうだと思いました。

 観葉植物は、それ自体はローメンテナンスでエコなペット(?)になり得ますが、たとえば水をやるためだけに、わざわざ、資源を使って遠くで作られトラックで店まで運ばれたミネラルウォーターを買って、時間とガソリンを使って家まで運んで、つかったボトルはプラスチックごみになるというのでは、本末転倒です。ボトルをリサイクルすればまだましと思いますが、リサイクルも、そもそもそれ自体大量の電力や水資源が必要であり、処理の過程でマイクロプラスチックの問題が派生したりということがついてまわります。


 犬の世話をしている時も思うのですが、一見エコロジカルに見えることでもためつすがめつしてよく見てみると案外、ノン・エコロジカルな側面が気になる場合があります。たとえば、犬の餌です。「ケージフリーのたまご」「ヒューマン・グレードの魚」「有機農法の野菜」「倫理的に育てられた家畜の肉」「環境に配慮された包装紙」などを使って作った餌があったとして、それらを遠隔地から膨大なエネルギーを使い取り寄せる(時には冷蔵・冷凍設備が必要なこともありますね)ことと、一歩餌のランクは下がるが、近所の量販店などで売っている近隣で製造しているソコソコのブランドの餌を買う、という行動を比べたときに、エネルギーのロスという観点ではローカル産の量産品で満足するほうが、結局ははるかにエコロジカルなのではないか?と感じています。特に本来ヒトが食べない部位や素材等も使って一気に工場で大量に作れ、長期保存がきく「昔ながらのドッグフード」は、エコ指数という観点ではわりと高いのでは、と思っています。

 昔ながらのドッグフード、所謂「カリカリ」はコンパニオン・ドッグ界隈では「マックのポテトのようなもの」とか「食べ物じゃない」と言われてわりと散々な評価を受けていますが、たとえば警察犬や軍用犬などのワーキング・ドッグはカリカリを毎食食べて長く健康を保ち(軍用犬の退役平均年齢10~12歳警察犬の平均退職年齢10歳)、一般家庭の犬をはるかに超えたパフォーマンスを出します。犬の健康を考えるうえで食は非常にたいせつですが、犬の栄養についての多くの科学は、前述のドッグフードから昨今ブームの生餌まで、非常に歴史が浅く発展途上であるということも覚えておかないといけないですね。特に人間は、新しいこと=正しいことだとすぐ勘違いしやすい生き物なので…、、、

 はなしをエネルギーに戻しますが、「なるべく資源を無駄にしない生き方」を考えるとこれはもう「マクロエコ生活学」が必要だと思う位非常に複雑にからみあった問題で、常に何が最適解かを模索している状態です。はっきり言える事は、自分のペットのためだからといって際限なく資源を使うことは、たぶん間違っているということと、同時に、手が届く範囲で出来ることをやる・続けていくことが重要だということです。私の場合は、生活に必要な水・ガスの問題をほぼ自前でなんとか出来るようになったので、数年以内に屋根にソーラーパネルを設置して、生き物や植物の飼養にかかわる電力をできるかぎりオフグリッド化出来たらと、妄想しています。


2021年8月19日木曜日

よしなしごと


 夏が過ぎてゆきます。娘のアメリカの学校びらきまであと丁度一週間となりました。本当に長かった「ホームスクーリングもどき・うぃずコロナ」もあと1週間です。パンデミック以降、子供達が学校で学ぶ権利や、普通に友達と話したり遊んだりする暮らしは圧迫され続けてきましたが、あがき続けた1年と5カ月が終わろうとしています。頑張っても誰に表彰されるわけでもない地味な日々の連続の中で、私は大量の時間といつのまにか髪の毛を失いましたが(昨日、1年半ぶりに会った美容師がびっくりするほど)、子供らのために力いっぱいがんばったと思うので、満足です。

 ところでここ2カ月ほど草に手を出していました。ふだん一人で何かの作業に従事する「個人の時間」を何よりも大切にしているたちなのですが、半年以上自分の時間が全くなかったので、見えないうっぷんが溜まっていたのでしょう。そういう時、逆にこうやって全く関係ない事に着手して、さらに自分の首を絞めてしまう悪いクセがあります。上の写真のは、学生のころ日本で集めていた種類で、とてもなつかしいです。たまたま立ち寄った古道具家で「品種不詳土ナシダニあり根っこ2本」みたいな状態で物置から引っ張り出されてきた個体ですが、家で養生していたところ元気を盛り返してきました。新葉も出ています。すごい生命力ですね~。



実験的に室内で育てているギボウシ(Hosta 'Guacamole')につぼみがついた



 草だの、爬虫類だの魚だの、両生類だのを愛好して幾星霜ですが、こういったいきものが好きなのは、こうして逆境に強い生きる力であったりとか、生きようとする姿勢とか、まわりを気にせず自分の都合のいいほうに勝手にどんどん伸びたり、体温や感情がない(なく見える)分、自分の時間を生きている様子がひときわ鮮烈に感じられるせいかと思います。


たのしみです


 しかしアメリカで日本と同じように趣味のことをやろうとすると、たとえばいい用土や道具がぜんぜん見つからなかったり、あっても高かったり、大量だったり、取り寄せなどで時間が掛かったりで、着手しにくいことがあります。また冒頭の話のように死にかけのやばい状態の草なども平気で売っていたりするので、どんなに安い草でも丁寧に世話をして売っていた日本の地元の植木屋を思い出し、恋しく思いました。ここでは、あらゆるサービスが玉石混合で、よい店や人を調べる事自体に多くの時間や費用を費やさねばなりません。チャイルドケアなどもおなじですね。日本の保育園のような、朝から夜まで、食育あり、連絡帳も書いてもらえて時間外の突発保育もあり、などなどなど…のレベルを期待しようとすると、月に2000ドルは必要です。安価に、非常にバラエティ豊かなサービスを享受することができるという点では、日本はすごくいい場所だと感じます。



 ここ1週間のコディ君です。アパラチアン・トレイルに短いハイキングに行ったり、園芸店に連れて行ってもらってこやしの袋の上でローリングしたりと悠々自適に過ごしていました。上の写真はその後ペット用品店でシャワーをしているところです。こうして、オフロの中でヨレヨレになっている姿もとても可愛いですが、大きい図体&6歳という大の成犬のくせに、ク~ンク~ンといかにもか細い声を出すのが少しはずかしい。今回は特にとなりの洗い場にいたアメリカン・エスキモードッグ達がキリッ!とした表情で、サクッと洗ってもらっていたので、コディの情けなさが際立っていました。頭脳は子犬の時のままなのです。「あかちゃんおじさん」と呼ばれてます。