2021年3月24日水曜日

犬はシェルターから迎える事が最善である。という風潮について。

  

 今日は、「シェルターと犬」という、比較的センシティブな話題にふれるので、読んだら意見の違いを感じる人も多くいらっしゃると思います。あらかじめ申し訳ないなあと思います。そのうえで、個人のブログなので、最近犬をとりまく世間についての私個人の違和感を書いてみたいと思います。

 今日のテーマは、ここアメリカにおいてですが、「犬はシェルターでもらうことが『是』であり『最善』である」という社会の風潮が、近ごろ強まりすぎているような気がしているという点についてです。このことは自分の中で以前、ブリーダーから犬を迎えるということを面と向かって否定された出来事から尾を引いていて、今日はそのことについて身近な出来事も取り上げながら考えてみたいと思い、PCの前に座りました。

 本題に入る前に、間違えのないように強調しますが、シェルターから来て素晴らしいコンパニオン・ドッグになっている犬は星の数ほど存在し、そういうすばらしい可能性を秘めた大勢の犬達が毎年、大勢、処分されているということは改善されるべき問題です。これは、私個人の考えの中でも前提とする大事な部分ですので、とりちがえのないよう、おねがいいたします。




 本題です。慈善の精神が重んじられる国・アメリカに住んでいると、愛犬家なら当然、犬はシェルターから迎えますね!というプレッシャーを感じることがあります。SNSでは、犬好きの友達の多くが「犬をアダプトしよう!」というポストやビデオクリップなどを毎日のように気軽にシェアしてくるし、TVニュースのチャンネルによっては、ヒューマンソサエティ系のコマーシャルが繰り返しよく出てきます(寂しい檻の中で可愛そうな目をした子犬と共に、悲しい音楽の流れるコマーシャルです)。

 フェイスブックの地域のグループでは、「○○という犬種の子犬を飼いたい。誰かいいブリーダーを知りませんか。」といった質問に、「質問の答えにはなってないのはわかっているけど、あなたの犬はシェルターで引き取るべきです。」「A D O P T!」と書き込む人らが大勢表れて、その剣幕に驚かされたこともあります。上に書いた通り、道で出会った見知らぬ人との犬トークでも「ブリーダーなんか要らないのよ!」と、熱心に持論を展開されたこともあります。

 ペット量販店では、レジで「恵まれない犬や猫に募金をしますか?」と聞かれる・又はそういった質問が支払いのパネルに表示されることはわりと普通で、「しません。」を選択する事は当然の権利ながら、なんとなく自分が弱い者を助けないやつになったような気になる事もあります。


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 時には、「イヌネコはシェルターから」を熱心に推し進めるあまり変なことになっている構図も見られます。ちょっと前の例になりますがたとえば、ロードアイランド州でペットショップで陳列(販売)される犬や猫はシェルターやレスキューから来た生体に限る、という法案が議会を通過して、一部犬好き界隈で話題になっていました。そもそも環境が劣悪な場合があり問題視されている生体販売店に、家や家族をなくして、心身の不安定な状態の犬猫を連れてくるのでは愛護の観点からも本末転倒に思えますが、そもそもこのような法案が出来る気運があり、大真面目に検討されたということ…、これを「いいアイデアだ」と思う人がまとまった数いたのだという事実に、はっきり言ってかなり驚いたのを覚えています。




 犬の世界にとって、犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれない「パピーミル」や、無計画な「バックヤード・ブリーディング」の存在は潜在的に危険なものです。また無責任に捨てられた動物を一時保護観察する場所として、機能的なシェルターがあることは言うまでもなく重要です。そのようなシェルターからいきものを引き取り大切に飼い育てることも、倫理的良い行いと言えます。

 けれども、この「倫理的よい行い」を追求する過程で、『純血種の犬や、それをふやすブリーダーという職業自体もすべて悪である』『みんな、ブリーダーの犬を飼わずにシェルターの犬を飼うべきである』『ブリーダーから犬を買う者は、みんな、無知で愚かである』と、極論に走る人が大勢いるという点には、注意が必要ではないでしょうか。

 犬について真面目に考えたことのある人なら、それは問題を単純化しすぎているとすぐに気付くと思います。しかし残念ながらここアメリカでは若い人などを中心に(ほとんど義憤といっていいレベルの感情とともに)上記のような主張を持った人に何度も出会ったことがあります。冒頭に書いたフェイスブックのご近所グループで「純血種の犬が欲しい」と言った人を攻撃的になじっていた大勢の人々も、この類に入るでしょう。




 そもそも、「シェルターで犬をもらう」という行いの善性について語る前に、「シェルターで犬を貰うことは万人にとって適した行いか」という別の疑問についても、もっと世間で議論されるべきではないのかな。はっきり言って、シェルターの犬をもらっているけど、上手に育てられると思えない家庭環境の人を大勢見たことがある。


 個人的な話になってしまいますが、ペット業界に居た頃、まわりにはシェルターでテクニシャンとして長く働いたり、ボランティア10年選手など、さまざまな人がいました。そんな中で経験を重ねた人ほど、シェルターの犬をもらうことに対して慎重だったことが印象に残っています。

 長年シェルターにいる様々な犬を観察し、時には自宅に引き取って寿命を全うさせる経験を誰もが持っている彼らは、誰にでも気軽にシェルターの犬を勧めるようなことはありませんでした。シェルターに居る犬について本当に色々な事例に触れ、時にはずっと後になってから予期せぬ健康上・行動上の問題が浮上するケースを経験していれば、そのようなことは出来ないのです。

 10年に満たないような私の北米生活歴の中にも、思い返せば「シェルターから犬を貰ってきたら、家の敷地内では可愛かったのに、ある日散歩中に豹変して、近所の老犬に襲い掛かって酷く噛んでしまった」というような話を複数耳にしました(←これは実際私と仲が良かった同僚に起こったことで、残念ながら老犬は死んでしまったのです。コミュニティにショックが走りました)。恥ずかしながら、私自身が仕事中にシェルター出身の噛まれかけた経験も何度かあります。

 前の家に住んでいたときも、隣の団地の犬で、非常に良く吠えるので「s h a t  u p---!」と毎日プロングで引きずられ、大声で叱咤されながら散歩しているハウンド系の犬がいました。子犬のうちに迎えたものの、育ったら猛烈に車を追い道行く犬に凶暴性を見せるようになり、早速、電気カラーで四六時中ビシビシ電流を流されながら散歩しているボーダーコリーミックスの若イヌがいました。どちらもシェルターや里親イベントでもらわれてきた犬たちです。

 上の2頭についてオーナーと立ち話したことがあります。2頭ともとても利口で可愛い犬達だし、オーナーの人達もごくごく普通のアメリカ人で、本当に普通にいい犬、いい人々なのです。ただ、住環境があきらかに犬に合っておらず、また飼い主達も犬の犬種的なニーズであるとか、どのくらいのトレーニングが必要であるとか、そういう事にとりたてて強い関心をよせるタイプではなかったところで悲しいほどのミスマッチが起き、それらが犬と飼い主両方のQOLを著しく下げていたのです。

 メディアやSNSでは里親の家で幸せに暮らしている犬が繰り返し脚光を浴びるなか、現実の世界では、だれにも取り沙汰にされない、「うまく適合しなかった例」も沢山あります。例えばの話、このような飼い主たちは、将来的な体格や、性格や行動がある程度予想しやすい「きちんと殖やされた純血種の犬」を飼っていたら、犬にとっても人にとっても、あるいはまったく違った結果があったのではないか?と思うときがあります。




 以前シェパードをアダプトすることでもグダグダとうんちくを述べていましたが、「シェルターの犬をもらう」という行為の問題点は、きちんと犬の健康や行動を把握できる、犬の心の動きをこまかく観察して、リスク回避やマネンジメントが出来る「アドバンスド飼い主」向けの犬がいたとしても、量販店などの里親イベントであったりシェルターであったり、カジュアルな感じで、「あなたは良い事をしている」という高揚感つきで、安価なペットとして犬を飼えてしまうところにあります。これは本当に良い事でしょうか。

 だから、「犬はシェルターから迎える事が是であり、最善である。」という風潮がいつしか勝手に現代の倫理規範のなかに書き加えられ、この「新倫理」が、

・好きな犬を飼う、その為にブリーダーへ行く
・自分と家族の生活に適した犬を真剣に選ぶ

という個人の自由までもさまたげ、ときに圧迫する様子すら見られることは、危険な傾向ではないかと思います。「個々の人は犬に割けるリソースが全く異なる」「個々の人は、犬を迎え入れる家庭環境に大幅な差異がある」などという、犬を生涯にわたって大切に飼う上で本来、最も重要視しなければいけない観点が、そこからは完全に抜け落ちています。




 大切なのは、どんな時も、出自がどんな犬であっても、毎日自分の犬を大切に世話をして最後まで飼いきることであり、また誰がどんな出自の犬を飼っていても、そこに至った他者の考えや行動、「選択の自由」を尊重する事ではないのかな。

 今日書いたことはもしかしたら世の中の多くの愛犬家とは逆行する考え方なのかもしれません。しかし、より多くの人が「シェルターにいる、かわいそうな犬達をたすける」という、感情に根差した視点を大切にしながらも、そこから一歩を踏み出して考える必要があると強く感じたため、書いてみました。


 今日の写真は5年前に散策したなつかしい夏のトロントから。ほんの数日だけの滞在でしたが、いっぺんで好きになってしまう魅力にあふれた街でした。犬もたくさんいてシティライフを謳歌してるように見えました。いいなあ~。現実逃避はこのへんにして、今日の無駄話をおしまいにしたいと思います。