2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳


 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。


 それから、人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向があるなあと思いました。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。コディは生粋の肉男で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いない!と思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。

思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます

 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。


 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。


 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだ雲の中ですが。


2021年11月19日金曜日

褒めることの有効性


 どの飼育書、しつけ本にも必ず書かれていることがあります。犬がいいことをしたら「犬を褒める」ということです。でも常々疑問に思っていることがあって、「褒める事はいつも必ずしも有効なのか」ということです。これはいままでいろいろな犬にふれあったり、また以前飼っていたドーベルマンや、今飼っているシェパードに毎日かかわる中で出てきた問いです。

 この世には「褒められる事が有効な犬」というのと、そうでない犬がいるように思います。私の思う「褒められることが有効な犬」というのは、①生まれつき褒められる事への感受性が豊かな犬、そして②後天的に褒められる事への感受性が豊かになっている犬の2種類です(厳密に言えば、同じ犬でも状況によって感受性が増減しますが、、、たとえば家のキッチンと公園とでは褒めへのリアクションが違ったり、、、今回は「本質的に褒められることが有効かどうか」について考えたいと思います)。


 ①は、遺伝的背景などによって、ほとんど生まれつき褒められることが大好きなように見える犬です。子犬なのに声掛けすると短いしっぽをピロピロ振って、いくらでも人間の活動に付き合おうとするような犬です。特別人に対して親和性を育みやすい性質などの副産物なのかもしれません。私からするとそんな犬と暮らす事が出来ている人は大変ラッキーだと思うのですが、世の中の多くの犬はむしろ、飼い主との沢山の良い思い出を通して「褒められること=いいこと」と、頭の中でしっかりとヒモ付けられて、はじめて褒められることの意味を真に理解できるようになっていくように思います。これは②のパターンです。

 ②の犬は、しかし、「自分が褒められてる」「褒められることはうれしいことだ」とピンとくるまでに、かなり時間がかかることもあります。飼い主の側がそう思える状況を十分に作れていないなど、理由は多々考えられますが、生まれ持った性質としか思えない事もあります。私が以前飼っていたドーベルマンもそうで、「この犬は自分が褒められて心の底からよろこんでいる」と私が確信するまでに、じつに7年位かかりました。しつけ本に出てくるみたいな「素直に喜んでくれる犬」「褒められようとがんばる犬」になるまでに、寿命の半分以上が経過してしまったのです。後から思えば、犬にとって私と言う存在がまだまだそこまで重要視されていなったからだと思います。ドーベルマンは強い犬なので、そんな人間にほめられようが怒られようがシッタコッチャネ~、だったというわけです。

 犬のしつけを考えるとき、トレーナーさんの言う通りにやっているけどなかなかうまくいかないな、というペアの中には、こうしてほめるとかしかるとかいう以前に、犬と人の関係がまだきちんと構築できていないケースもけっこうあるのではないかと思いました。そういう時「褒める事」は報酬として全く意味を成さなくなります。




 考えてみればあたりまえなのですが、実際のところ自分に対してどんな価値があるのかはっきり分からないひとが、自分がやったことに対して突然キャーキャー言って喜んだって、なんか嬉しそうだと気分が盛り上がることはあっても、それで天にも昇るような気分になったり、震えるほど感激するということはないわけです。周囲のドッグトレーニングの様子を見ていても、そんな状況になっている場面を時折見ます。飼い主はワオ!グッド!とすごく嬉しそうだけど犬自身は全く気にしてなかったり、むしろ気弱な犬とかだと、どうも自分が原因らしい飼い主の豹変(?)に挙動不審になっている場合すらあります。こうなると「褒め」は通過して、犬にとってはドッキリの域といえます。個体によって適切なレベルの褒め方があるとも考えられます。

 また超個人的な見たてになりますが、これは、叱る時も同じだと思います。もともと飼い主と強い絆で結ばれている犬は、少々叱られたり、小突かれたりした位では揺らぎませんが、仮にそれら抜きにいきなり叱ったりしたら、「頭ごなしな学校の先生」とか「暴力的なオヤジ」みたいな感じになってしまい、自らの飼い主としての魅力を著しく下げることになるでしょう。また犬は驚き、「こわいから言う事を聞く」ようになるかもしれません。これは良い人&犬の関係を築く上で、多くの人が目指したい所ではなさそうです。先進国社会では犬を叱ることについては非常に賛否両論ありますが、私は、自分の犬を厳しく叱ることがあります。ただし叱る時はふだんからその10倍、いや50倍は褒めるくらいの気構えでいるのと、叱る事も褒める事も犬にわかる・伝わる形で行う事を最優先に考えている、ということは明記します。


 「褒め」のもう一つの側面として、「犬をやたらと興奮させてしまう」という効果もあるように思います。これは逆に褒められることの意味をとてもよく分かっている犬に起こりやすいように思います。たとえば今飼っている犬のコディは、特定の状況で遊びをしている時に「グッドボーイ」と言うと、真顔になり、耳が直立し、身体がこわばり、私を凝視する瞳がギラギラしてくることがあります(以前通っていたドッグランに、この状態のコディがどうしても怖くて冷汗がでて体が硬直してしまうという人がいました)。犬自身は歓喜と期待で興奮状態です。こうなると、コディの場合はその後何かをさせても乱雑で適当な動きになってしまいます。「グッドボーイ」が刺激的すぎて、コディの心と体のコントロールを弱めてしまうのです(考えようによっては、犬が爆発的に力を出すようなタスクをやるには向いてるのかも知れません)。このことから、場所や状況によっても、適切なレベルの「褒め」があるのではないかと思いました。

 いつもの如く長くなってきたので振り返りますが、犬を褒めることも(叱る事も)、まずは関係ができてから、犬に「この人にほめられたい」と思う人になることが、多分先決だということ。そして、個体・場所・状況によっても適切な褒め方があるんではないか~?、、、というところまでまとめて、おわりにします。

 今日の写真は2ヶ月前に発根していたエケベリアです。ゆっくりですが窓際でも成長を見せてくれています。これらは皆同じ親株から出たクローン体のはずですが、成長速度や体色にけっこうばらつきがあるのがおもしろいです。来春頃には人にゆずれる位の大きさになってるかも知れません。



2021年11月16日火曜日

「ミッション・レディネス」


 犬の運動機能の向上についてちょこちょことオンラインの講座を受講したりして、勉強を続けています。日々の生活のすきま時間を利用してなので、自分でも考えたりためしたりしながらだと遅々として進みませんが、徐々に犬の体を見る目が養われてきているような気になって?楽しいです。学んでいるのは主にワーキングドッグ(警察犬、探知犬、救助犬や牧場で働く犬等)、プロテクションスポーツをする犬のハンドラーを対象としたものなので、自分の犬には転用できない事もありますが、参考として全て頭に叩き込むつもりで見ています。

 題材の中に、「Mission Readiness/ミッション・レディネス」という言葉が出てきます。「使命を果たす準備がととのっているか」というような意味でしょう。作業犬にはさまざまな使命がありますが、ペットに毛が生えたようなコディにも、セラピーの訪問という使命があります(日夜命がけの作業に従事する犬がいる中、本当にお気楽な『使命』ですが)。

 犬達は要請があった時、即座に社会の役に立つために、最上級のパフォーマンスが出来る状態を極めておく必要があります。これだけ言うと、使役する人の側の都合を押し付けているみたいですが、心技体がバランスよく整っていることは犬の自信を向上させ、ストレスを軽減し、怪我を防止し、間接的にその犬が長く健康に仕事に従事することが出来るという意味でもあります。犬自身の福祉にとっても非常に大切なことなのです。


 ワシントンDCは新型コロナウイルスの流行下、政府の施設の多くが閉鎖されたため、政府付属の機関に定期的に通っていたコディの活動も休止していました。ワクチンの普及と共に街のようすは元にもどってきたものの、セラピードッグ達が気軽に訪れられる状況はまだまだといった感じで、コディも加齢とともに以前と違った行動を見せているし、もしかするとこのまま引退かなあなどとのんきにしていました。

 ところが先月になって緊急の招集がかかりました。行き先は、最近政権が崩壊した中近東の国のタスクフォースで、土日祝24時間稼働しているとのことでした。ライフワークバランスを重視すると思われがちなアメリカ人が、昼も夜もスーツで缶詰になっている部署というのはふつうではありません。こういう、緊張感の高い場所へ行くほど、犬も人もむしろ平常運転でいることの方が大切です。窓のない政府の建物の中で日夜、冷たい活字と早口の要請の渦の中にいる人々にとって、犬は温かい生命や、日常の象徴ともいえるものです。ふつうの、どうでもいい会話の糸口であったり、落ち葉やよだれや、生き物の温もりを運ぶことがコディの「ミッション」です。夜間の訪問でしたが、準備は万端で臨むことができました。

 この訪問をアレンジしてくれているコーディネーターの方は、この機関にセラピードッグが定期的に訪問するようプログラムを確立したのは「2年前、初めて訪れてくれたコディアック(『The pup who started it all』)が大きなインスピレーション源になった」と、あとでメールに書いてくれました。また、訪問後自宅にブリンケン現合衆国国務長官のサインの入った感謝状が届けられました。セラピードッグの訪問活動を通して、こんなに大きな賞賛を立て続けにもらうことは今後もないと思われますが、「Mission Readiness」を意識しながら日々犬も人も心身の状態を整えていたことが、わかりやすく報われた出来事でした。


2021年9月27日月曜日

収穫の秋(?)


 

 突然肌寒い日々が続いている北バージニア地方です。日中は日差しが暑いのですが、朝夕はかなり冷え込むようになってきました。家のまわりにワインのためのブドウを作っている家が点在するのですが、道から、棚のブドウがずいぶん育ってきているのが見えます。近所のダイズ畑も、急に黄金色に色が変わり、小さなエダマメみたいなやつ(というか、正にエダマメですね)が鈴なりになっています。収穫の季節がもうすぐそこといった風です。

 そんな中私とコディは「ゴミの収穫」という新たなゲームを発見しました。こういう、犬とやるどうでもいいミニゲームみたいなのを考えるのが大好きですが、、、私はいつも犬とばかり遊びすぎで、人間とぜんぜん遊ばないので、たまに自分でも「これでいいのか」と心配になるのですが…、、、まあ、この調子で30ウン年来ているので、今更の改善は見込みにくいでしょうか。とにかく、毎朝1時間の有酸素運動の時間を、まわりに目を光らせながら歩くようになりました。写真は今日の朝の収穫???です(今日はとくに大漁でした)。

 この地域には、入植期から残存する、土やジャリがむきだしの未舗装路が多くあります。通称Loudoun's Rural Roadsなどとよばれ、史料価値があるらしく保存の試みがなされています(資料1資料2資料3資料4資料5)。放っておくと数カ月ほどでボコボコになるため、定期的に砂利を継ぎ足しているようです。昔のままの道というのは、現代のように車がひっきりなしに往来することに耐えうる強度がないのだと思います。そこへ行くと馬などは、悪路でも丈の高い植物の茂った農耕地でも平気で進んでいくし、騒音はないし道はもとの綺麗なまま、ガソリンはいらないわ、時折コヤシまで撒いていくわで、「ちょっとそこまで」ののりものとして優れた点が目につき、地元のホースマンが通りかかると見とれてしまいます。

 話をもとにもどしますが、この地面の「ボコボコ」の上を、近隣で働くお兄さんやおじさん達のトラックがどんどん走って行く時、荷台にちょっと置いてあったカンとか、ドーナツの袋とか、そういったものがはずみでぽろっと道に落ちるようです。よく見ると、ストーリー性を感じるゴミがあります。小さな飼葉桶が落ちていたこともあります。アンティークショップに置いてありそうなガラスの瓶をみつけた時もあります。写真をとっておけばよかったかな。

 空き缶は危ないので自分でひろいますが、紙箱系やペットボトルがあった時は、コディに拾わせます。指で指し示して拾わせて、手の上に持って来させます。まだ、手近な所にあるオブジェクトしか持って来られないですが、だんだんに遠い所に落ちてる異物(ごみ)を識別できるようにしてみたいと思います。この半月ほどでこの近隣のはおおかた拾いつくしてしまったので、今後は別の道へも足をのばしてみたいと思います。


2021年9月5日日曜日

犬の聴覚過敏とつきあう

Echeveria lola – "Mexican Hens and Chicks"

 

 近所の園芸店で買ってきたエケベリア。思うところあって掘り返してみたら、根っこがグズグズで茎の中央部まで根腐れが進んでいた。アメリカの「その辺の植木屋」で多肉を買うと結構よくある展開です。葉っぱをばらばらにしてひと月くらい、最近発根がはじまりましたよ(白いマルのところ)。上手く発芽までいってほしいです。こうして根っこが出ても、芽が出ないというヤツもいます。

 昨晩は犬のコディのクンクンという声と、階下をウロウロ歩き回る音で目が覚めました。時折大音響で雷が鳴っています。山の近くに引っ越してから「短時間で急発達するビックリするほど激しい雷雨」というのが、このあたりでよくありがちな天候イベントだと気付きました。

 コディが雷を不安がる様子をはっきりと見せたのは、実は昨日が初めてです。5歳を過ぎたころから音にやや敏感になってきている印象があって気にかけていましたが、不安感が強くなってきているようです。犬の聴覚過敏の類は、遺伝による先天的なものと、恐怖体験によってあとから身に着くものとに大別されるとされ、また近年では落雷前後に発生する静電気が不安感を増幅させるのではないかという説がいわれています。

 加えて、牧羊犬は聴覚過敏に陥る傾向が強いことが分かってきており、特にボーダーコリーとジャーマンシェパードで多く報告されています。コディの場合はおそらく犬種的なものと、中年を過ぎての2度の引っ越しや、すごい嵐が来る地方に来てしまった事で、音に対する嫌悪感が累積してきていると考えられます。田舎の家は、今まで5年間過ごした郊外の家とくらべて雑音が一切ありません。本当にめちゃくちゃに静かなのです。騒音が全くない環境なので、逆に雷の爆音とか、「へんな音」がより際立って感じられるのかもしれません。呼び鈴への反応も強くなったように思います。生活環境から生じたかもしれないこれらの不安感だとか警戒心は、不可抗力とはいえ、可愛そうに思います。

 犬に聴覚過敏の傾向がある場合、①特定の音に対して過敏性を減じる(ディセンシタイズ=脱感作)トレーニングを行う、②犬の精神の安定を助けるとされる道具や医薬品の助けを借りるという2つの対処法が一般的です。これに私はあと、➂日中に運動をたくさんするも付け加えたいと思います。人間でもそうですが、衣食住にも困らず、仕事も肉体労働もせず、日がな一日ブラブラしていたら、誰だって余計な事が気になりだすと思います。犬もきっと同じなのではないでしょうか。



 ということで、早速雷の音源を使ってトレーニングを開始しました。並行して、時間をきっちり測って運動する時間を増やしました。最近暑かったこともあって、散歩に出かける時間や長さはやや適当になってきていましたが、時間を計って有酸素運動の時間をたっぷりとり、その後に筋肉を使う運動をする時間もメニューを組んで入れるようにしました(この時間帯に、今練っている筋トレメニューをテストしています。いい感じになってきたら、そのうちノートに残したいです)。

 また、これはまだ試していませんが、クレートを防音仕様にするのはどうかとも思いつきました。家庭で使える防音ブランケット(参考)などが市販されていますが、これをクレートを囲むように、若しくは直接貼り付ける形で設置して、小さな防音室のようにする考えです。それで、ものすごい嵐が来る夜だけ、クレートで寝て貰えば多少はマシになるのではないかと思いました。ただ、コディは非常に暑がりなため、クレートの中の風通しが悪くなるとそれはそれでストレスを感じると思われます。なのでもう少し考えてみる必要がありそうです。

 あとは、以前、専門店でバイトをしていた店によく売れていた「サンダーシャツ」「サンダースプレー」も、購入しました。私はどちらかというとこういう民間療法ぽいものよりもすぐに薬に頼るほうなので効果には懐疑的でしたが、当時のお客さん達は効果があると言っていたので…、、、

 ところでこのシャツの購入には手こずりました。案の定、チャートの上では大丈夫そうだった「XL」が、胴回りがぜんぜん足りず、返品したり新しいのを取り寄せたり、ひと仕事でした。コディのように大きくかつ体格のいい犬の場合、使えるグッズがそもそも限られます。ほかの大型犬種、ボルゾイとかデンなどとも体形が全く異なるので、「超大型」と書いてあるグッズを買ったとしても、サイズがあわないという失敗が多いです。XLのシャツは、胸の所がパツパツで襟元から厚い胸毛が噴き出し、パリのゲイバーで見たおじさんみたいになっていました。コディの名誉のために写真は載せないことにします。


2021年9月1日水曜日

オオカミと犬、遊び、絆 雑考



 とても面白い話を耳にしました。オオカミと「取ってこい」:子オオカミのボール遊びが何を意味するか(Science)。スウェーデン・ストックホルム大学で研究用に集められた幼いオオカミの子供にボールを投げたところ、ごく少数ではあったものの、ボールを投げた人の所へ持ち帰る行動を見せた個体が初めて観察されました。この行動は全体の数からみると珍しい行動でありながら、他にも同様な行動を見せた個体が少数おり、オオカミの中に特性として受け継がれているのではないかという研究者の考えが述べられていました。これは太古の昔、犬がオオカミから分化した過程がどのようにはじまったかという話題について極めて一般的な「食べ物が介在して順化が起こった」とする論に一石を投じる発見だといいます。

 言い換えると、大昔オオカミが人の集落のまわりをウロウロするようになったのは、食べ物だけが目的なのではなかったかもしれない、遊びが介在して順化がはじまったということも考えられるかもしれない、ということになります。近年コンパニオンドッグ界隈でも「犬と人との遊び」の重要性が説かれるようになって久しいですが、そもそもイヌという種族自体が、ヒトとの遊び能力を基にして選抜が起こった可能性すら出てきたというわけです。

 最近コディにまだ熟れていないナシの実を投げていて思いついたのですが、、、人が何の気なしに投げた枝を同じ場所に戻しに来たり、崖下に転がり落ちて行った果物を拾ってきてくれたりするオオカミが、稀に存在したのかもしれません。オオカミもヒトもこれをおもしろいと思い、ヒトは感心して、これは何かの役に立つかもしれないと思ったかもしれません。おもしろい行動をするオオカミに積極的に餌やおやつをなげてやったりして、いつしかそういう「ヒトにとっておもしろいオオカミ」は集落のまわりで暮らしはじめ、おもしろいヤツ同士で結婚しさらにおもしろい子供が生まれ、そしていつしか村の中で、家の中で暮らすようになった。コディを見ながらそんなことを思うと、何かとても自然な気がしました。

 写真は小さい頃のコディ君です。コディは、食べ物をくれる人も好きでしたが、一番は棒や転がるもので遊んでくれる人になつきました。ゲーム全般と、かじるのがとにかく好きで、家をかじられないために一日の大部分を外で過ごしました。大型犬、超大型犬は子犬のうちは運動制限を進められることが多いですが、自由運動に関しては何も制限せず毎日たっぷりとさせました。外の草原で私と共に遊びまくっている時が一番楽しそうに見えたのです。しかし、撫でられることはあまり好きではなかったので、褒め方にはコツがいりました。


2021年8月31日火曜日

井戸水の問題/オフ・グリッド化


 室内で育てているギボウシ(ホスタ)のつぼみがめちゃめちゃ長くなってきました。いつの間にか拉致されて、部屋の奥のほうにある戸棚に置かれていた。照度計で調べたところ、明るい時で24000ルクスくらいある棚ですが、いかんせん日の当たる時間が短い。暗い所が平気で有名なギボウシとはいえ、長期的に生きていけるか疑問のロケーションです。もともと林床などに生育するので相当暗くても(林内の照度は夏季が最も低くなる)大丈夫なはずですが、家の中で育てたことがないので、不明です。


 大分ふくらんできている。


 この草は冬季は葉っぱが全部カラカラに枯れて休眠するのですが、室内にいるギボウシもスムーズに休眠が進むのかという疑問もあります。気になって園芸サイトなどで調べてみると、だいたいにおいて

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  • 少なくとも2~3か月の間、気温が4℃程度で安定した、暗く涼しい部屋に配置する。
  • 破砕した木の皮やオルガニック・モルチなどをかぶせて根っこを守る。
  • 1か月に1回程度の割で軽い水やりを行う。完全に乾燥させないこと。
  • 春先に休眠場所からもとの場所に設置。植え替える場合はこのタイミングでする
  • 大きくなり過ぎたら株分けをする。でも、「しなくていい」と書いてあるものもある
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というかんじのことが書かれていました。休眠開始時期としては、北バージニアと緯度的に近い東北地方では10月に入ると枯れ始める株が出るというので、10月頭から外に出して寒気にあてて休眠処理し、初霜が降りる11月の初旬までにガレージに取り込んでみようかと思います(水やりを…というか存在をわすれそうですが)。また冬季に加温して冬越しさせている人のブログもありました。冬冷やさなくても、別段株が弱るなどの問題はないようです。しかし、最近のグーグルなどは「情報まとめブログ」のような形式のウェブが沢山検索の前の方に来て、こういう個人の人が時間をかけて情報を集積している良質なソースにアクセスしにくくなっているのは残念です。


今週のコディ君です


 最近、植物にやる水のことで大事なことを学びました。

 わたしたちが今住んでいる地域は北バージニア圏でも山のほうに位置するため、水道が通っておらず、生活用水は家庭ごとにポンプでくみ上げています。地下100m以上から引いている水はかなりの硬度を有するので鉄分を除去する装置を通しますが、処理の過程で水のphバランスが変化します。

 この水を長期にわたって植物に与えた場合、株が脱水状態のようになって弱っていったり、鉢内の土や土壌に塩類が蓄積します。土の変質は非可逆的なもので、物理的に土を入れ替える以外に改善方法がないため注意が必要です(特に夏場に芝生がカラカラだからとホースでじゃんじゃん庭に水をまいてたりすると、芝どころか土ごとだめにする可能性まであるといえます)。田舎の生活スタイルだと、こういう「知ってないと絶対まずいコト」が結構あって、改めて自分が都会育ちの無知なモヤシだということに気付かされます。

 井戸水問題に話を戻しますが、水に関しては雨水を集めてためておく装置の導入を検討しはじめました。ポンプから直接水をとれるよう、バイパスする方法もありますが、工事が必要になるのですぐには難しい。雨水をためるだけなら比較的簡単そうだと思いました。

 観葉植物は、それ自体はローメンテナンスでエコなペット(?)になり得ますが、たとえば水をやるためだけに、わざわざ、資源を使って遠くで作られトラックで店まで運ばれたミネラルウォーターを買って、時間とガソリンを使って家まで運んで、つかったボトルはプラスチックごみになるというのでは、本末転倒です。ボトルをリサイクルすればまだましと思いますが、リサイクルも、そもそもそれ自体大量の電力や水資源が必要であり、処理の過程でマイクロプラスチックの問題が派生したりということがついてまわります。


 犬の世話をしている時も思うのですが、一見エコロジカルに見えることでもためつすがめつしてよく見てみると案外、ノン・エコロジカルな側面が気になる場合があります。たとえば、犬の餌です。「ケージフリーのたまご」「ヒューマン・グレードの魚」「有機農法の野菜」「倫理的に育てられた家畜の肉」「環境に配慮された包装紙」などを使って作った餌があったとして、それらを遠隔地から膨大なエネルギーを使い取り寄せる(時には冷蔵・冷凍設備が必要なこともありますね)ことと、一歩餌のランクは下がるが、近所の量販店などで売っている近隣で製造しているソコソコのブランドの餌を買う、という行動を比べたときに、エネルギーのロスという観点ではローカル産の量産品で満足するほうが、結局ははるかにエコロジカルなのではないか?と感じています。特に本来ヒトが食べない部位や素材等も使って一気に工場で大量に作れ、長期保存がきく「昔ながらのドッグフード」は、エコ指数という観点ではわりと高いのでは、と思っています。

 昔ながらのドッグフード、所謂「カリカリ」はコンパニオン・ドッグ界隈では「マックのポテトのようなもの」とか「食べ物じゃない」と言われてわりと散々な評価を受けていますが、たとえば警察犬や軍用犬などのワーキング・ドッグはカリカリを毎食食べて長く健康を保ち(軍用犬の退役平均年齢10~12歳警察犬の平均退職年齢10歳)、一般家庭の犬をはるかに超えたパフォーマンスを出します。犬の健康を考えるうえで食は非常にたいせつですが、犬の栄養についての多くの科学は、前述のドッグフードから昨今ブームの生餌まで、非常に歴史が浅く発展途上であるということも覚えておかないといけないですね。特に人間は、新しいこと=正しいことだとすぐ勘違いしやすい生き物なので…、、、

 はなしをエネルギーに戻しますが、「なるべく資源を無駄にしない生き方」を考えるとこれはもう「マクロエコ生活学」が必要だと思う位非常に複雑にからみあった問題で、常に何が最適解かを模索している状態です。はっきり言える事は、自分のペットのためだからといって際限なく資源を使うことは、たぶん間違っているということと、同時に、手が届く範囲で出来ることをやる・続けていくことが重要だということです。私の場合は、生活に必要な水・ガスの問題をほぼ自前でなんとか出来るようになったので、数年以内に屋根にソーラーパネルを設置して、生き物や植物の飼養にかかわる電力をできるかぎりオフグリッド化出来たらと、妄想しています。


2021年8月19日木曜日

よしなしごと


 夏が過ぎてゆきます。娘のアメリカの学校びらきまであと丁度一週間となりました。本当に長かった「ホームスクーリングもどき・うぃずコロナ」もあと1週間です。パンデミック以降、子供達が学校で学ぶ権利や、普通に友達と話したり遊んだりする暮らしは圧迫され続けてきましたが、あがき続けた1年と5カ月が終わろうとしています。頑張っても誰に表彰されるわけでもない地味な日々の連続の中で、私は大量の時間といつのまにか髪の毛を失いましたが(昨日、1年半ぶりに会った美容師がびっくりするほど)、子供らのために力いっぱいがんばったと思うので、満足です。

 ところでここ2カ月ほど草に手を出していました。ふだん一人で何かの作業に従事する「個人の時間」を何よりも大切にしているたちなのですが、半年以上自分の時間が全くなかったので、見えないうっぷんが溜まっていたのでしょう。そういう時、逆にこうやって全く関係ない事に着手して、さらに自分の首を絞めてしまう悪いクセがあります。上の写真のは、学生のころ日本で集めていた種類で、とてもなつかしいです。たまたま立ち寄った古道具家で「品種不詳土ナシダニあり根っこ2本」みたいな状態で物置から引っ張り出されてきた個体ですが、家で養生していたところ元気を盛り返してきました。新葉も出ています。すごい生命力ですね~。



実験的に室内で育てているギボウシ(Hosta 'Guacamole')につぼみがついた



 草だの、爬虫類だの魚だの、両生類だのを愛好して幾星霜ですが、こういったいきものが好きなのは、こうして逆境に強い生きる力であったりとか、生きようとする姿勢とか、まわりを気にせず自分の都合のいいほうに勝手にどんどん伸びたり、体温や感情がない(なく見える)分、自分の時間を生きている様子がひときわ鮮烈に感じられるせいかと思います。


たのしみです


 しかしアメリカで日本と同じように趣味のことをやろうとすると、たとえばいい用土や道具がぜんぜん見つからなかったり、あっても高かったり、大量だったり、取り寄せなどで時間が掛かったりで、着手しにくいことがあります。また冒頭の話のように死にかけのやばい状態の草なども平気で売っていたりするので、どんなに安い草でも丁寧に世話をして売っていた日本の地元の植木屋を思い出し、恋しく思いました。ここでは、あらゆるサービスが玉石混合で、よい店や人を調べる事自体に多くの時間や費用を費やさねばなりません。チャイルドケアなどもおなじですね。日本の保育園のような、朝から夜まで、食育あり、連絡帳も書いてもらえて時間外の突発保育もあり、などなどなど…のレベルを期待しようとすると、月に2000ドルは必要です。安価に、非常にバラエティ豊かなサービスを享受することができるという点では、日本はすごくいい場所だと感じます。



 ここ1週間のコディ君です。アパラチアン・トレイルに短いハイキングに行ったり、園芸店に連れて行ってもらってこやしの袋の上でローリングしたりと悠々自適に過ごしていました。上の写真はその後ペット用品店でシャワーをしているところです。こうして、オフロの中でヨレヨレになっている姿もとても可愛いですが、大きい図体&6歳という大の成犬のくせに、ク~ンク~ンといかにもか細い声を出すのが少しはずかしい。今回は特にとなりの洗い場にいたアメリカン・エスキモードッグ達がキリッ!とした表情で、サクッと洗ってもらっていたので、コディの情けなさが際立っていました。頭脳は子犬の時のままなのです。「あかちゃんおじさん」と呼ばれてます。


2021年8月16日月曜日

北米のアジア人差別について

 いつにもまして文字ばかりのブログです。政治経済系のトピックが苦手な方はすみません。しかも子供もコディくんも出てきません(一体、何のブログなのだ)。


 さて今年の上半期は、アジア人を狙った暴行事件やいわゆるヘイト・クライムの件数が全米で上昇傾向にあることがニュース等で取り沙汰されていたことは多くの人が知るところです。アメリカで暮らすアジア人として、またアジア系アメリカ人を育てている人間として、「アメリカにおけるアジア人差別」は大きな関心事のひとつです。

 先に短くまとめると、私が日々ニュースや読み物を読んで思うのは、私のようないわゆる「パンピー」ごく一般的なアメリカのアジア系が気を付けた方がいい差別というのはおおまか言って二種類あり、①「racism(いわゆる、古典的人種差別)」と②「systemic / institutional racism(制度的・構造的な人種差別)」です。一般的に差別と言うと、前者がよりショッキングで話題性もあり、取り沙汰されることが多いですが、学校や会社といった生活の重要な拠点の中で静かに行われる後者のようなアジア人差別についても、十分注意を払うべきだと考えます。それぞれの差別について考えてみます。


 ①「racism(いわゆる、古典的人種差別)」

 古今東西の先進諸国の例に漏れずアメリカにも人種差別の歴史がありますが、2021年版・アジア人差別の概要を知るためにまず、どういう場所で、どのような人々によって、アジア人差別が起こる割合が高いのかを知ることは、私達の生活に直接かかわりのある話題と言っていいでしょう。

 私もりっぱな中年社会人なので、「人種差別は起こっている!人種差別なくそう!」と気勢をあげることよりも、現実問題としてどんな人が?いつ?街のどんな場所で?などの詳細を知る事でよりくわしい差別の実像を掴み、自分や子供の実生活の危機管理に役立てたいと思いました。

 ところが私が普段触れるニュース等のメディアでは、加害者の性別や人種、教育の程度や経済レベルなどの、犯罪のプロファイルを知るためにごく基礎的な事項すら、包括的に書かれているものがありませんでした。特にニュース番組では、アトランタ襲撃事件(CNN英文記事BBC日本語記事)の様な特定の非常にショッキングなニュースがタイムラインを席巻する傾向があり、そのためアジア人差別とは、ヘイトクライムとは、ゼノフォビアとは、なんとなく白人特有のものという印象を持っていました


  そこで休日に合衆国司法省のウェブサイトに行き、なにかおもしろい統計はないか漁りました。そして、Hate Crime Victimization, 2004-2015というページの中にある、Hate Crime Victimization, 2004-2015[PDF]というドキュメントを読みました。少し時間の経っている資料ですが、とても興味深いことがいろいろ書かれていました。「アメリカ合衆国は毎年25万件のヘイトクライムが発生するが、54%は通報されない」とか、「人種バイアス(人種への固定観念)が主な動機で、単純な暴行が9割を締めること」などはとりたてて真新しいものではありませんが、特に私の興味を引いたのはp6の表9「暴力的ヘイトクライム被害者の居住区と地域 (2011-2015)」の部分です。

 ヘイトクライムの発生現場は西海岸と中西部が多く、次いで南部、北東部と続いていました。居住場所の区分は都市と郊外が殆どで、田舎はヘイトクライムの発生率はぐっと落ち込んでいます。なんとなく南部の田舎の方が差別などは起こりやすそうに思っていましたが、数値をみると、実態はほぼ逆であるということを学びました。反対に、アメリカの東海岸や西海岸の都市部というと非常に先進的で教育が行き届き、文化的にも豊かな面がクローズアップされがちですが、こういった差別の問題であったり都心部では非常に深刻な薬物汚染や貧困問題を抱えているなど、スポットライトの当たらない現実があるのだと思いました。

 次に「都市内部の人種差別」についてくわしく知るために、比較的近隣の大都市であるニューヨーク市警(NYPD)の犯罪レポートをみてみました。これは20年度中に逮捕者が出た93件のヘイトクライムについての報告書で、うち20件がアジア人を被害者としたものでした。加害者は、白人が10%、ホワイト・ヒスパニックが25%、ブラック・ヒスパニックが10%、黒人が55%となっていました。ニュースでよく見聞きする「白人によるヘイトクライム」は、全体からみると1割ほどです。その一方で、加害者の90%はヒスパニック系と黒人からなっている事がわかりました。



 テレビ等で見聞きするニュースでは、ヘイトクライムの犯人は白人のことが多いですが、実態とは隔たりがある可能性があると思いました。記憶に残る所では、昨年10月NYでにジャズピアニストの海野雅威さんを集団暴行し大怪我を負わせた犯人達も黒人でしたが、ほとんどの主要メディアでは加害者の人種のまでは言及がありませんでした。たとえばこの犯人が白人のネオナチの若者達などだったならば、もっと大ニュースになっていたのではないかなと思います。



 余談ですがNYPDサイトにはヘイトクライム・ダッシュボードというものもあります。カーソルを動かしてみると、けっこうまだまだゲイ差別があるんだなあという印象です。LGBTQ文化を育んできた歴史あるニューヨークですが、逆風も強いから、皆それだけ強く立ち向かい、文化が花開いたという経緯もあるのではないかと思いました。また、群を抜いて、いかにユダヤ人というものが嫌われているかがわかります。全米で抗議活動が多発した2020年以来、反ユダヤ主義が勢いを増す傾向があり、私が引っ越す前住んでいたレストン(北バージニアの郊外でもひときわリベラルな街)でも、ショッピングセンターに反ユダヤ主義のシンボルがスプレーで描かれるという前代未聞な事件がありました。差別とは、「歴史的に下位にあると見なされた人々がとくべつ成功してお金持ちになったりしている時」に、ひときわ強まるように思います。ユダヤ人もそうですし、男性のゲイなどもそうです(あまり知られていないがアメリカのゲイカップルは経済的に非常に裕福な人が多い



 ②「systemic / institutional racism(制度的・構造的な人種差別)

 実はこの「歴史的に下位にあると見なされてきた者が成功してお金持ちになる」という状態が、いまのアメリカにおけるアジア系の現状にも的確に当てはまるのではないかな~と思っています。2019年~現在の、家庭当たりの収入の中央値を比較したセンサスのグラフを見ると、アメリカ合衆国においてアジア系が突出して成功したグループだという事がはっきり分かります。

 北バージニアにおいても、特にフェアファックス郡中部にベトナム系、南部に韓国系や中華系、西部~ラウドン郡東部にインド系など、移民をオリジンとした一大コミュニティが形成され、なかでも圧倒的な人口密度を誇るインド系の集まる地域などは、地域民に「リトル・ボンベイ」などと揶揄されることすらあります。勤勉で仕事に一生懸命従事し、たくさんの税金を納め、子供達は学校のテストスコアを大幅に引き上げ、平和的で犯罪発生率も圧倒的に少ないアジア系は地域にとってプラスの存在として考えられています。

 一方、北米では主に大学入学の時点や雇用の場面で、各人(実際には、各人種グループ)に与えられる社会的な機会を均等にするために制定されたきまり「Affirmative action(積極的格差是正措置)」「equal employment law(雇用均等法)」などが定められています。一流大学に入ったり、ホワイトカラー職につくときに、人種によって所謂「ゲタをはかせてもらえる」人達が出てくるわけなのですが、努力と才能を頼りに大学進学や就職をめざすアジア人やアジア系アメリカ人にとっては、潜在的に極めて差別的になり得る法令なのではと思っています。

 こうして一度社会のルールとして制定されれば覆すのも難しいのが、アジア人にとっての「systemic / institutional racism(制度的・構造的差別)」です。この話をするためには「Critical Race Theory(批判的人種理論)」という非常に賛否両論ある学説への理解も不可避なのですが、その話もするとかなり長くなってしまいそうなので、興味のある人は、山ほど本やレポートがあるので、読んでみて下さい。日本でもここ20年ほどで取り沙汰されるようになった話で、一部、日本語で読める文献などがあります☞批判的人種理論に関する一考察(大沢[1996])批判的人種理論の現在(桧垣[2011])

 北バージニアに住んでいる人なら、感謝祭でもクリスマスでも正月でも、煌々と灯がともっている夜更けのアジアスーパーを見たことがあると思います。そんな店の裏手で、積み上げた段ボール箱の横に腰かけて煙草をふかしている移民一世のおじさんやおばさんは、「自分は働けるかぎり働いて、子供達にはなるべく高い学歴をつけて、なんとかいい暮らしを」と朝も夜も、文字通り身を粉にして働いていたりします。こう書くのは、私自身の家族にもそういう半生(義父)を送った人がいるためです。デビの飼い主のお父さんも、コディのシッターさんもアジア系ですが、親の代は皆そうだったといいます。

 しかしこれらの努力の結果、多くの家族が移民後1~2世代で生活の基盤を安定させてきました。義父の場合は、ソ連を亡命してからおよそ50年、約2世代をかけて、世帯の経済状況がロシア革命前のレベルまで回復したと言います。義父によると、共産主義革命で全てを失ってから回復までに、合計5~6世代がかかったとしており、その間に多くの家族や親戚達の命が不当に失われてきました。

 共産主義体制下では、その地域に根差してきた代々の土地や財産は全て没収され、家系は離散してしまったため、すべての人が新天地で無一文で身を立てていく道を選ばざるを得なくなりました。アメリカ社会は社会的流動性(social mobility)が乏しい、=だから政府は社会保障をより手厚くすべきである、と言う一部の言説がありますが、義父などのように真に政治的に抑圧された社会体制の国から来た人によれば「全くの詭弁である」としていました。

 北米でアジア人の移民が大幅に増えたのは1970年代に入ってからであり、その後40年程の間、アジア系人口はモラルを持って勤勉に働き、世代を超えた資産を構築してきました。その一方で、奴隷解放宣言から140年、貧困と犯罪率の増加、ひとり親家庭の子供の率は70%近くに到達するなど、特にブラック・アメリカンの人々の抱える社会問題は深度を増しています。

 そんな中でアジア系に対し「お勉強ができるから」「お金持ちだから」と、見えにくいところで少しずつ足枷をはめていくていくこと、社会的に「困っている人がいる」ことを大義名分として、時に、人生をかけて移民し働いてきた人々の血のにじむような過去の努力や、世代を通して積み上げてきた富を、都合よく取り上げること、そういった活動を政策として国家が主導する事は、倫理的に正しい行いと言えるでしょうか。


 余談:メディアバイアスについて

 2020年以降、アメリカの報道番組にはがっかりさせられる事が増えました。特にこちらに来た当初(10年くらい前かな)から親しんできたCNNやMSNBCなどのニュースは、昔からまあまあリベラルでしたが、子育てで忙しくて数年見なかった間に、言論がかなり極端なものになってきている事に驚きました。

 というか、最近はどのメディアを見ても情報の中立性を保つことが難しいという印象です。さしがにテレビ離れを起こしてしまい、最近はAll Sides Mediaというオンラインのニュースサイトを見ているのですが、ひとつの事象に対して左・右両翼のニュースソースからの記述を読むことが出来るので便利です。

 北米社会全体のやや急激な左傾化は州の政策や公立校の運用などにも及んでいます。たとえば先日、北バージニアのフェアファックス郡とラウドン郡の高校では、トランスジェンダー学生を保護する法が議会を通過して、性自認にもとづいたバスルームの使用、スポーツチームへの所属、呼称などについての配慮を(それらの情報を親に開示することなく!)学校に求めることが出来るようになりました(→CNNの記事、→NewsWeekの記事)。

 私自身、学生時代はホモやオカマや半陰陽までもがごろごろいる学校の研究室でお世話になったので、彼らに対する違和感はないどころかどちらかというと寧ろインサイダーであるのですが、「トランスジェンダーが転生後(?)の性別のチームでスポーツ競技に参加する」というのは本当におかしく、生物学的に見ても全く公平性を欠いていると思います。

 トランスジェンダーと言ってもほとんど女性化している人からほとんど「女性の服を着た男」の人まで個体に大幅なばらつきがありますよね。特に女子のリーグは危機に晒される可能性があります。この考え方は端的に言えば小さい頃から、朝暗いうちから起きて一生懸命時間とお金を投資して練習に励んできた女の子達がスポーツを楽しむ権利は、トランスジェンダー者がありのままの自分として生きる自由を享受する権利よりも重要ではないと政府が言っているということに等しいわけで、娘を持つ親としては到底看過できないものであります。


2021年8月4日水曜日

Ball’s Bluff Battlefield Regional Park(1)



 少し涼しくなった月曜日、娘を夏教室(サマーキャンプ)に行かせた後に少し時間が出来たので、北バージニアはリースバーグにあるボールズ・ブラフ戦場公園へ足を延ばしました。犬・人共々、コロナと子供に付き合う日々で体幹が完全に衰えているので、未舗装路でバランスをとったり、高低差のあるハイキングをもっと頻繁に行いたいです。

 北バージニア圏で高低差のあるハイクを目指す場合、山に行く以外の選択肢として、ポトマック川周辺がオッズが良いように思います。周囲の公園は、川に近づくにつれてどんと落ち込む地形がよく見られるためです。今回のボールズ・ブラフは、トレイルが起伏に富んでいるわりに距離は短くて小ぢんまりとしているので、お迎え時間に追われる私のような者にとっては気軽に訪れることができて、助かりました。


 写真を撮るために立たせていますが、地域の野生生物管理局の登録地なので、犬はリードが必要です


 バージニア州、とくに北バージニアは、首都ワシントンDCの付属都市としてであったり、ビジネスセンター、テック・センターとしての機能が取り沙汰されることが多いですが、実際に生活しながらよく目を凝らしてみると入植時代から連綿と続くアメリカ史の中で重要な史跡類が数多くみられます。

 ボールズ・ブラフは戦場公園の名の通り、南北戦争時の戦場の跡地です。名もない兵士の墓標や、当時の食糧庫など建物の一部が保存されています。今回は時間の関係で、史跡サイドには立ち寄れなかったため、また戻って来られた時には、「ボールズ・ブラフその2」としてまとめたいと思います。




 車で通りすぎるだけでない、久しぶりのポトマック川です。近くで見ると、あまりきれいでもない泥水の川ですが、ちゃぷちゃぷした音を聞いたり水面に頼りなく浮かぶ流木などを見ていると、日頃のストレスが洗われるような気がしました。160年前はここは戦場だったと思うと不思議な気分になります。

 水が大好きなコディ君は本当は飛び込みたくて仕方ないので、逆にストレスをためていました。今日は我慢しなさいと言われ息を荒くしていた(笑)。上の写真も、あわよくば上半身だけでも、いや前足だけでも、水に浸したいと思っている目をしてます。こういう時、前足だけなら…、などという情けは無用です。なぜなら前足が入ったと思った瞬間、頭までガボッ!と水に突っ込んでしまうからです。そして水にぬれた頭を、丁度よい高さにある私のまたぐらに突っ込み、頭を左右に動かして満遍なく泥水を塗りたくるからです。


坂道の興奮を落ち着けようとツユクサをバリバリ食べる犬


 川からの帰り道は、急こう配の細道をふたりで上がってきました。こういう運動を求めていたと身体で感じ嬉しくなりました。息を切らしながら上がってきた細道の頂上付近には、乗り越えられるかぎりぎり位の大きな倒木までありました。こういう時いつも犬はチラッと私を見るのですが、よし!いこう!と肩をパンとやるとがぜん気合が入るらしく、えい!と力を入れて乗り越えていきます。コディはいわゆるスポーティさはない犬ですが、ばんえい競馬の馬などに見られる類の健気さがあって、大きなチャームポイントだと思います。また「乗り越えられない」と自己判断した時に見せるショボショボとした申し訳なさそうな目にも、特有の味わいがあります。


2021年8月3日火曜日

「できないこと」の重要性



 しばらくブログを留守にしていた間、北バージニアの僻地はキイチゴの旬を迎えていました。いろいろな種類があるのです。夕方、暗くなってきた農道のわきに西日に照らされて光るキイチゴは宝石のような輝きを放ちます。その姿を記録したく何度も写真を撮りましたが、私の腕ではあまりうまく写せませんでした。表面につぶつぶがたくさんあるせいか、なかなかピントが合いません。

 面白かったのが、犬のコディがキイチゴが大好きだと分かった事です。コディは雑草は比較的ついばむものの、野菜やフルーツといったファンシーな食べ物は一切受け付けない男です。ところがこのキイチゴを投げたところ、パクっと空中でキャッチして、いくらでも食べることが分かりました。これらの果物には抗酸化成分があるというし、なによりキャッチする時の顔があまりに面白いので夕食後の散歩でキイチゴキャッチをするのが毎日のルーティンとなっていました。季節がすぎ、枯れた果穂を見た時は寂しかったですが、また来年のキイチゴに期待が膨らみました。

 本日は(これまで若干6年ほどのぺ~ぺ~ではありますが)ヒト幼児と大型イヌを一緒に育てる中で気が付いた犬や子供が「できなかったこと」「しなかったこと」の重要性についてごちゃごちゃとムダ話をしたためたいと思います。勉強やらしつけやらで、犬や子供に何かをやらせようと働きかけたが、できなかった、しなかった、ということはわりとよくあります。親や飼い主はついついイライラしてしまうのですが、これらはとても大事なことで、そこで立ち止まって時間をとって、考える価値のある事だと感じています。

 ホームスクーリングもどきを1年以上続けている娘(5歳10ヶ月)は数字に殆ど興味がありません。日系人の子女向けにオンラインのプレイグループをしていると、周囲には4歳くらいで九九まで出来る子とか、小学校に入る前に低学年の漢字をマスターしている子などがちらほらいるのでちょっと焦ってしまい、「娘、記号に弱いのではないか」とか「算数が苦手になるかも知れないので学校へ上がった時のために先取りして教えるべきか」などという気になることもあります。でも、算数は一旦置いておいてほかの科目をしていると、地図記号や、漢字の意味を考える事は、わりと好きだということがわかりました。

 地図記号はもちろん、漢字などは象形文字で、ある意味記号です。つまり、頭の中で実像と結ぶことができる記号や、物語性のある記号は好きなのです。この事から、娘は(他の大勢の子供達と同様に)より多くの学習内容を実像と結べるように、より多くの身体的経験を必要とするタイプだという事が分かります。これは今後10年以上娘という子供の性質と向き合う上で意味のある発見です。

 ここでフト気付いたのが、「自分の娘が数字に興味が無い」ということに気付いた時点で、そのことで頭がいっぱいになり、その苦手を「消す」ためにがむしゃらに反復練習などを日々繰り返していたとしたら、おそらくこの発見はなかったと思われることです。または、ずっと後になってから、もしかすると練習のしすぎで漢字や算数などが嫌いになってから、その事実にたどり着いていた可能性もあります。


ボールを返せという指示があるまで、返すことを「しない」犬。犬自身の考えがあるようだ。


 もうひとつの例はコディです。ドッグトレーニングをしている人なら皆「犬になにかをするようリクエストしたが、犬がそうしなかった」という経験を持っていると思います。私の犬コディも、家の裏庭で遊んでいる時に、たまに「オイデ」を無視することがあります(!)。

 コディにとっての「オイデ」はもともと非常に効力のある言葉で、ドッグパークの雑踏やパーティーの人混みの中や雑木林などでも、わりとすぐに戻ってきます。たとえどこかに向けて走って居ても、呼ばれたらUターンを描いて戻ってきます(シェパオーナーの方はどういう様子かすぐ想像出来ると思います)。

 ところがこの裏庭に居る時、時折「オイデ」を2回言われないと戻ってこない事があります。そういうときは、1回目の「オイデ」では、遠くで立って私の事を見ているのです。それで、興味を持っていろんなところやいろんな時間帯に呼んだりして調べたところ、特に日暮れ前の時刻に、東側の庭(公道と雑木林に挟まれて伸びるスペースです)の中にいる時、「オイデ」が2回要る傾向があると分かりました。

 しばらく今の場所に住んでみて気付いたのですが、この東側のスペースの外側は野生動物の通り道になっていて、シカや小さな生き物が頻繁に通過していることがわかりました。この動物の往来?が最も盛んになるのが、日暮れ前の1時間ほどでした。またあとで知ったのですが、公道をはさんだ向かい側(といっても200m以上離れていますが)に大きなマスチフがいる家があって、その犬の事も警戒しているようでした。

 コディは基本的に言われたことは守る性格ですが、シェパード的な敷地を守る気持ちや、イザとなったら自分で考えて決めようとする気質が強く残っています。その性質をどうしようもなくかき立てるのがこうした害獣の存在であり、この「夕暮れ時の東側の庭」だったということです。私の犬は脅威を身近に感じた時、自分のビジネス(危険管理)を優先する奴だということがわかります。こうして「オイデができないことがある」事の原因を探る過程で、愛犬の性格について、また少し理解を深めることができました。

 犬にもヒトの子供にも言えると思いますが、何かをやらせてみて、「とくいだった」「好きだった」ということから分かることと同等か、時にそれ以上のことが、この「できなかった」「しなかった」ことの分析から分かると思います。だから、やらなかったことの原因を真剣に考えることなく、子供を強制的な練習メニューに放り込んだり、犬にはEカラーをつけるなどして、好ましくない行動をさっと消去しようとすることは、心情的にはとてもよく理解できますが、相手を知るための非常に重要なチャンスをも消去していると言えます。

 別の話でもすこし触れましたが何かを飼い育てる、教えるということは、結局は相手を知ることがほぼ全てなのではないかと考えます。ナンデこれが出来ないのかとか、ナンデしないのかとか、そういうことを探ったりする中で、少しずつ状況が改善したりすることもあるし、ふいに相手から感謝されたりすることもあります。藻掻きながら、親と子だったり飼い犬と飼い主という「オリジナルの関係性」の構築を目指していくことが、結果的に良いことなのではないかと思いました。



2021年8月1日日曜日

ホームスクールもどき:1年5ヵ月の振り返り


 娘5歳10ヶ月についての話題です(最後の方にコディ君も出てきます)。

 去年の3月、新型コロナウイルスの流行を受けて、バージニア州全域で学校が休校となり、引っ越しも重なってプリスクールを退学した時から始めた「ホームスクールもどき」も1年と5ヵ月目に突入しました。子供は、日本の学齢だと春から年長で、アメリカの学齢だと、秋からキンダーガーテン(幼稚園)に進む頃です。

 見様見真似、子供を寝かせてから手順本などを読み教育関係のポッドキャストなどを聞きかじり、主宰していた「オンラインプレイグループ」と、友人らと週1で開催した「ラーニングポッド」(いずれ、別記します)を軸にしながらスケジュールを組んで、なんとかかんとかやってきたわけですが、そんなあがきも数年後見返せば面白いのではないかと思い、ここに記録したいと思います。


 まず、ホームスクールもどきをやって困難だった点についてです。一言で言うと、親、めちゃくちゃ大変ということです。一人っ子家庭であり、しかももともと要領が非常に悪くマルチタスクができない私の場合、自分の持ちうるマンパワーのじつに75%は家庭学習とそれにまつわる労働に消費されてしまい、のこりの15パーセントで仕事、犬の世話、犬の運動、引っ越しの後片付け、運転、買い物、家の修理、などなどを過不足なく行うのは非常に困難でした。

 大変さの要因として、5歳すぎという年齢もあったように思います。本来幼稚園という社会の末席で人の波に揉まれているであろう年代の人を家庭に留め置いているわけですが、同年代の子供達と自由に遊ぶことはできないので、それに見合った活動量を家庭内で満たす必要がでてきます。手先を動かしたり、知的好奇心などを満たしてやる題材が日に複数個必要になりますが、興味の幅が犬などとは比べ物にならない位広いのです(あたりまえですね…、すっかり基準が犬になってました)

 活動の前後の準備や後片付け、材料の用意などを先だって行う必要があるので、計画性と計画を遂行するエネルギーがないと(どちらかだけがあってもダメ)、ただ無為に時間が流れるということに容易に陥ります。4歳から5歳という非常に感受性ゆたかな時期を核家族の非常に小規模な輪の中で過ごしたことによって、子供達の身体能力や心理に、中長期的な意味でどのような影響が出るのかといった点が不明なことも、心配事項です。


 次に、ホームスクールもどきをやってみて良かったかなあと思う点を見てみます。まず思い出がたくさん出来たことは良かったところだと思います。と言っても毎日毎日をギリギリ及第点くらいにするのが精いっぱいだったため、「すごい所に行った」とか、「特別すごいことをした」とか、そういうことは本当に何もないのですが、チビが朝元気よく目を覚ますところから夜ふとんに送り込むところまで、毎日の成長を欠かさず目に焼き付けることが出来たのは、貴重な体験だったと思います。わが子を育てるとは、この世で自分だけに与えられたプロジェクトであり、その報酬の一つにこの「二度とない時間を共有することができる」というものが挙げられるのではないかと感じました。


 家庭学習に関しては、子供の興味に沿ってカスタマイズした勉強ができるという点が一番よかったと思いました。私達の場合は語学、(年相応な内容の)社会科やお金の話、もらった日本の「どうとく」の教科書(こちらでは学ぶ機会がない)、アメリカの歴史(5歳児なので「むかしのえらい人」などがメイン)等、初等教育で教わる機会の少ない題材を自分の子供の興味に沿う形で取り入れられたことはよかった。運動などの習いごとを、時間を気にせず自由に組み込むことが出来たのも非常に助かりました。

 また、コロナを契機として、さまざまなオンラインクラスの開講が増えたことの恩恵もかなりあったように思います。娘はオンラインクラスを利用して、音楽と生け花のクラスをとりました。生け花は、おばあちゃまたちに混ざって一丁前に質問したりして、楽しかったようです。音楽の先生は外国に住んでいたので、自分の知らない遠くの世界に思いを馳せたようでした。まだ「好き」の方向性が定かではない子供に新しいアイデアを与えたり、その様な子供の様子をつぶさに観察できた事も、今後の子供そだてに役立つのではないかと思われました。



 最近のコディ君です。北バージニアでもワクチン接種が進んで、ホームパーティなどが多少開けるようになってきました。このような時、コディの役割はテーブルの下で皆の足を温める係です。人間とゲームをすることが好きなので、話の合間に誰かが小さなピンポン玉などを意味ありげに転がしたりするとすぐ目を光らせながら寄ってきます。「家でパーティをすると、かならず最後は皆フュリーと遊んでいる」と、ブリーダーがコディの母犬について話したことを思い出します。コディはきっと母犬に似ているのだろうと思う瞬間です。

 また、ボールや転がされたものを拾ったら、私の手のひらまで持ってきて置くよう教えてあるのですが、こういうのを人に見せるとすごく賢く見えるらしく、けっこう感心されたり話題のタネになるので、なんてことのない日常動作ですが教えてあげてよかったな~と思います。

 こうして家の中では猫を被っているコディ男ですが庭に居る時は引き続き猛犬のフリにも余念がありません。人が通りかかると芝居がかった吠え方で知らせます。私がコディを呼び戻そうとドアを開け、道行く人に「犬が失礼しました。」と言うと、「He should bark.(君の犬は吠えるべきだ)」「That's his job!(それが彼の仕事だからね!)」などと返ってきます。今まで都会や郊外で暮らしてきて、犬が吠える事は近所迷惑でしかない、という文化に親しんできたため、都会と田舎でのものの価値基準の異なりを実感するところです。


2021年6月30日水曜日

田舎生活の課題点

 ランチブレイク時のミニミニトラッキング(黄色い旗が目印)

 田舎エリアへの引っ越しから早くも8カ月が経過しました。仕事や子供のホームスクーリングもどきも大詰めを迎える中で、かなり忙しくしてしまい、コディにはその分しわ寄せが行っていたように思います(本犬はのんびりウサギの糞を食べたりして満足そうですが…)そんな中で、「田舎生活と飼い犬の健康ライフ」という観点から、2つほど気付いたことがあります。

 まずひとつ目に、田舎では犬との行動範囲がかなり制限されるということです。車を出してどこかへ行って…、というような事はもとより、ふだんの散歩などにおいても、畑あり、林道あり、雑木林あり、各家々の敷地などは広々としてスペース的には十分な見たかんじとは裏腹に、自由に立ち入らせたりできる所はほぼ皆無なのがちょっと残念な所だと思いました。これらの場所は私有地なのでもちろん勝手に犬を放して遊んだりといった活動もいけません。

 このような住環境に来るときめた時点で、そういった点は考慮してありましたが、計算外だった点は積極的に犬を連れだす主な人(私)がこのコロナでうっかり多忙を極めてしまったことです。その結果、コディの外出機会が目に見えて減少するという事が起こりました。加えて、都会や郊外では馴染みのある犬の運動や遊びを代行してくれる場所や、サービスなどにもアクセスできにくい状況です。モノとモノの距離が離れているので、飼い主が忙しいと、途端に社会化のための外出や、しつけ教室等に参加する機会も限られてきます。子犬や若い犬と暮らしている人にとっては特に死活的な問題です。「愛犬との田舎暮らし」は、自然がいっぱいで空気もよくてと、なんとなく先行するイメージとは異なり、大きく飼い主のマンパワーに依存した案外と脆弱なものであるという感想に至りました。

 またもう一点は、田舎の住環境で犬に与えられる運動が比較的単調だということです。道を延々と歩く…、、、林道を延々とウロウロする…、、、そういう運動が非常に多くなりました。これらの運動は気分転換やストレスを除くためにはとても大切なものですが、身体を作っていく運動とは異なります。コディは幸運なことに、犬生の初めの5年間を人気のない自然公園の横に住み、人工的な床での運動・昇降はもとより、自然の道や獣道、倒木の上を乗り越えて丘を谷を自由に駆けまわる生活を続けてきたわけですが、今思うとかなり恵まれた環境だったと言えます。現在の日々の運動の内容を見返してみると、以前と比べて見劣りがします。見た目からは分かりにくいですが、体幹の筋肉などはかなり失ったのかもしれません。こうなってくるとケガが心配です。何しろ、(後述しますが)完全にやる気が体力に先行している性格なので…。

 余談ですがアメリカの田舎の方のドッグイベントを調べると、アジリティ大会がものすごく多い事に気付かされます。今までは、実務になにも関係のない遊びの競技がなぜこんなにポピュラーなのかなあと思っていましたが、今回実際に似た環境に住んでみて、はじめてその理由を体感した気がします。アジリティは、単なるのドッグスポーツの枠を超えて人・犬にとっての社交の場、また犬に対してふだん不足気味な動きを要求するアスレチックの良さをバランスよく兼ねていることが人気の秘訣なのではないかと思いました。


みつけた~ (歓喜で目が血走る)

 今日の写真は、ランチブレイクの時にやっている「ミニミニトラッキング」のようすです。アーティクルは、コングにドッグフード(コディの昼飯)をつめたもの。旗を持ってコングを置きに行こうとすると「早くやらせろ」と、ヒンヒンヒャーヒャーうるさいです。でも、若い頃は私の前に陣取って天に向かってギャンギャン吠えたりしていたので、大分おとなしくなったようにも思います。とにかく、シャイロのわりにやる気がかなり強いのが面白い反面、心配です。遠くの豆粒のような害獣なども見つけると、50キロ以上の体でかくやと思うガチ走りを見せるので、とにかくフィットネスと付け加えてケガの種類やケガ予防について、真剣に考えているここ最近です。



2021年6月1日火曜日

だれかの靴を履かない事



 向いていないこと、やってもできないことをみとめる事ほど、自分の子供や愛犬に対してすることが困難を極めるものもないと思います。いちおう、教育関係の末席にひっついている者として、また地域の子供達を集めて勉強会兼プレイグループなどもしている中で、面談などの場になると必ずこの「うちのコができないこと(潜在的にその子に不向きな事もある)を、どう出来るようにするか」というテーマが、往々にして立ち現れることに感心を持っています。育児の命題のひとつなのではないでしょうか。

 この問いに関しては、人の子と比較すると犬などは動物であり、はじめからできる事が明らかに限られているのでまだ「まし」です。呼び鈴が鳴って、毎回、爆吠えしてうるさかったとしても、「そうか、コディは我慢する努力をしたけど、できないんだね」で、なんとなく許されます。

 ところがこれが子供のことになると一変して、みんな我が子の可能性は無限大のように感じてきてしまうわけです。そして、「まわりの皆は出来ているのに、うちの子供は出来ない」と、急にみんな気をもみだしてしまいます。私も人の親として、この感情には身に覚えがあります。だからこそ時折こうして、「人には生まれながらの向き・不向きがある」ということについて考えたくなります。


野ばらの季節になりました。ブログに香りを記せないことが残念


 未就学~小学校くらいの子供達の暮らしを観察していて、やるせなく思う事があります。人と比べて発達がゆっくりな子らのことです。彼らは毎日、ねんどしたり、つみきしたり、草はらの端から端までチョウを追いかけたり、野花をつんで遊んでいたのに、5歳のある日、学校生活が始まって、突如他の子との比較の対象になります。「なんであなたは出来ないの」と、大好きな親に怒られる子が出ます。私が「義務教育」というシステムの根源的な欠陥だと感じるところです。

 義務教育とは、皆がお金をかけずに、だれでもある一定の質の教育を受ける事が出来るという点で非常に優れたシステムですが、年齢をベースにした制度のため、必ず不適合を起こす子供を生み出します。いきものは、同じ年齢でも、心身の発達や性質には開きがあるのは、動物の子供を育てたことのある人ならだれもが自然に知っているにもかかわらず。

 一つの集団を導く存在としていろんな子供に触れていると、人間の子供の個体差の振れ幅に圧倒されます。かつて自分自身がそうだったように、今やっている題材に、頭の成長がぜんぜん追い付いていない子なども、わりとすぐに分かります。人よりゆっくり何かを探求したい子供もいます。教科書の中で、さわりだけの単元をやって、はい、次!ではとても物足りないと思う、知りたがりな子もいます。義務教育の忙しいカリキュラムから抜け出て、時間を与えてあげるだけで、別人のように輝くのではないかと思うことがあります。机に座ってなにかをするより、クレヨンやらタイルを虹色にならべるのが大好きで、一日やっても飽きない奴もいます。所謂、「異能」というやつですが、そんな子らにとっては学校は、彼らの居場所のフリをしているだけの場所に留まるでしょう。

 惜しい、かわいそうだと思う一方で、そういう子を守ってあげすぎることもまた「ちがうのではないか」という気がしているから、悩ましいところです。近代以降のアメリカの学校教育では、平均的な発達段階の集団からはずれた子供達を「発達障害」「学習障害」「〇〇エクセプショナル」etc……、、、として、子細に区別したり、制度上有利な処遇をする傾向がありますが、こうした教育プログラムを経た子供達の大勢が、人一倍成功し、幸せな大人になったという実績はあまり耳にしません(たまたまうまく適合して、すばらしい効果が見られる人もいると思いますが、ここでは全体としての話をしています)。

 子供のうちから「定型発達ではない、特別な人」「あなたはユニークな人」としてとりわけ大切に扱われたとしたって、いずれは人生という競争の場に出て行かねばならないことは決まっています。子供達はどの道自分に与えられた現実に満足したり、もっと重要なのは、そんな現実の中に自らの幸福を見出して行かねばならなくなります。

 勉強や、知の世界を探求することとは、人生における「幸福への感受性」を高める主要な手段の一つだと思うのですが、どの子にとっても、そうあり続けて欲しいと強く思います。そのためには、その個体における「向き・不向き」を恐れずに認める事、親もそんな子供を認めて、子供にとっては親に受け入れてもらえる事が、まずはその第一歩と言っても過言ではないのではないでしょうか。






2021年5月27日木曜日

春の終わり


 
 ナボコフは、タンポポのことを太陽から月に変わる植物と小説の中で表していました。茂り出した青葉の隙間を通ってくる、暮れていく晩春の光の中で一瞬あめ色に光っている様子などを見ると、路傍の雑草であっても、たしかに官能的に見える瞬間があることに気付きます。この季節特有のこの光は、ものの特別な一面をクローズアップする効力があるように思う。こんな時、例の毛むくじゃらも、いっそう素敵に見えるような気がします。



2021年5月1日土曜日

なにが君のしあわせ



 休日、コーキング剤を片手に這いまわるガレージでの作業が終わりました。かわいそうなミミズが潜り込む穴をおおかた塞ぎ終え剤を乾かしている間に、ガレージの隅にヒト・イヌ兼用のエクササイズコーナーを作りました。雨の日や日没後は、ここで娘や犬を遊ばせようという魂胆です。引っ越して少しスペースが出来たので、ついついこうして余計な事を考えてしまう。

 犬用に作られたエクササイズ用具もいろいろ見たのですが、コディくらいのオオイヌだと、道具が小さすぎたり、逆にとても巨大で高価だったりして、こういうのは最初に良い道具をそろえるのがうまく行くカギだとは分かりつつも、二の足をふんでしまいました。当面は自分用のフィットネス器具をそのまま流用して、いつもはしない動きなどをさせるにとどまりそうです。少しくらいグラグラ、ガターン!となるようなオブジェクトの上でも、ボールを見せると細かい事は頭からふっとぶタイプなので色々な動きを一緒に出来るのではと、期待しています。


「できました」
なにか違うような気がするが……



 コディはグラグラボードの上に前足を置くことが出来たので、その後、ボールを空き箱の山の中に隠してもらい、一生懸命探していました。あらためて、犬となにか新しいことに挑戦するとき、自分の犬が「これをあげれば(すれば)とても喜ぶ」ということ、報酬がどんなものごとかが事前にはっきり分かっている事は非常に大事だと思いました。

 アンパンマンのマーチに「何が君の幸せ 何をしてよろこぶ」というフレーズがありますが、まさにそれが重要です。わからないまま終わらないための唯一の方法は、自らの手で何十時間、百時間幾千時間と、犬と一緒に何かに取り組み相手の心を探求する時を過ごすしかないのですが、犬とは無尽蔵の愛を持ったいきものなので、そういうヒトの努力の過程や、たとえそれがむだなあがきであっても、無限に応えてくれます。だから、そういった一見地味な日々の努力が可能であり、且つ苦にならない人々が、また犬を飼うという事の恩恵をとくべつ沢山享受できる人、という事でもあると考えられます。




2021年4月12日月曜日

相容れぬものたちー犬と子供

トウモロコシ畑の前で

 このブログにもごくたまに登場してきた「ちいさいにんげん」こと娘は、現在5歳6ヵ月です。この頃は心身ともにずいぶん成長してきました。そのせいかは分かりませんが、ひと月ほど前でしょうか、初めて犬が自分から娘を遊びに誘う素振りをみせました。『シャイロ・シェパ―ドは子守り好きな犬種』と言われる中、コディは徹頭徹尾、「何かを一緒にしてくれる人」にしか興味のない奴で、娘が寄ってきてもいかにも迷惑そうに避けたり、または完全に無視&抱きしめられるのなんて本当にもっての外(グーッと言って逃げる)、という態度だったので、突然の変化におどろきました。

 変化のきっかけは、ある日庭で子供が「犬的にすごくいいかんじの棒切れを拾って」初めて「犬に向かって上手いぐあいに投げた」瞬間でした。犬がこの人間は実は、何かを一緒にしてくれる人なのでは???と、あからさまにピーン💡と閃いた表情をしていたので笑いました。それからは庭で用もなく2匹でチョロチョロする姿が見られるようになったりして、互いに利害の一致をベースとした、何らかの関係が芽生えた様子が見て取れました。とはいえ犬の方は娘の事を完ぺきに信頼しているわけではなくて、まだまだ気安く触られたりするのは本意ではないようです。必要以上に近寄ったりじゃれたりといったことは、ありません。


狭いアパート時代も折り重なりながら成長してきた


 彼らの様子を見ていると、「犬と子供」の関係性は、世の中においてわりと誤った印象を持たれているもののひとつではないかと思います。一見すごくかわいく、ほほえましいですが、実際は犬側の多大な譲歩やガマンによって成り立っている場合も多いように思います。

 時々、小さな子供達を対象に「犬とどう関わるか」というミニワークショップを、実地やオンラインでやっています。特に実地だと、コディくらいの大きさのシェパード犬に触れる機会は殆どないので、子供達は皆大ハシャギです。その一方で、小さな子供と犬との正しい関わり合いは(自制心が未熟であったりして)困難な場合も多い事、子供のみならず両親・おじいちゃんおばあちゃんなどの家族も、犬との安全な関わり方をあまりきちんとは考えたことがない場合も、多いことに気付かされます。

 アメリカの数字ではありますが、犬の咬傷事故の犠牲者の68.0%は、5歳以下の子供です。その中では3歳児が被害に遭う率が最も高く、全体の15%を占めています。また犬にかまれるというと狂暴な野良犬などを想像しやすいですが、実はほとんどの子供は面識のある犬(自分の家の犬だったり、親戚や友達の家の犬など)に噛まれています(NIH調べ。米国で飼われている犬の全体数を考慮すれば、実際に噛まれ病院へ行くほどのケガをする率はそう高くはないとはいえ、世間では、「犬と子供」というかわいいコンビを推進するのと同時に、犬は本来、小さな子供にとってはけっこう危険な動物だということ、また子供は犬との安全なかかわり方を学び、実行できるようになるまでに、思ったよりも長い期間を要するという事実も、広く知られて欲しいと感じます。


2021年4月4日日曜日

地面の効用


 一晩中吹き荒れたものすごい風が、幹の太さがひとかかえもありそうな庭木をなぎ倒して過ぎ去っていくというすこぶるワイルドな春一番を経て、バージニア北部の我が家地域にも春がやってきました。オオイヌノフグリや、カタバミ、シロツメクサなどといった日本でもお馴染の植物がそこここに群生しているので(というか、日本に移入していった植物の言わば『元ネタ』がこちらという事も多い)、あまり「ザ・海外の春」という感じはしません。両生類がたくさん見られるシーズンも始まっているので、結構頻繁に留守にしました。

 犬的な話題と言えば、最近、犬の解剖学と生理学に興味を持って、時折時間のある夜に本や文章を読むことが出てきました。フィットネスの観点から「中年以降の犬の健康をどう守るか」という疑問について考えた時、日々適切に体を動かして代謝を健全な状態に保つことが一つの解だと思いますが、それ以外にも衰えていく筋肉を安全な方法で増強したり、犬の体の柔軟性を維持・高め、ケガを予防していくには、どのような方法があるのかを探っています。もう一つ大切なカギとなるのは栄養だと思いますが、情報量が膨大なエリアなので、こちらはなかなか手が付けられていません。検定の時に覚えた知識も、だいぶ風化してしまいました。

 上の写真は、先日の雪の日の写真です。結果的に今年最後の積雪となった日でした。このような雪や岩などで段差ある自然の造形はまさに「でこぼこ」で、アットランダムに起伏が繰り返され、時に氷が張ってツルツルの滑りやすいところなどもあります。自然の大地の表面を、気を付けて歩き続ける事は、犬にとってはそれだけで(脳も含めた)全身運動、と言っても言い過ぎではないと感じます。犬の生活の舞台が、こうした場所からアスファルトの舗装路に変わっていく過程で、「歩行」のプロセスに使われなくなった脳の分野や、微細な筋肉群がきっとあるはずです。日々の暮らしの中で、これに似た運動を置き換える方法を考えています。


2021年3月24日水曜日

犬はシェルターから迎える事が最善である。という風潮について。

  

 今日は、「シェルターと犬」という、比較的センシティブな話題にふれるので、読んだら意見の違いを感じる人も多くいらっしゃると思います。あらかじめ申し訳ないなあと思います。そのうえで、個人のブログなので、最近犬をとりまく世間についての私個人の違和感を書いてみたいと思います。

 今日のテーマは、ここアメリカにおいてですが、「犬はシェルターでもらうことが『是』であり『最善』である」という社会の風潮が、近ごろ強まりすぎているような気がしているという点についてです。このことは自分の中で以前、ブリーダーから犬を迎えるということを面と向かって否定された出来事から尾を引いていて、今日はそのことについて身近な出来事も取り上げながら考えてみたいと思い、PCの前に座りました。

 本題に入る前に、間違えのないように強調しますが、シェルターから来て素晴らしいコンパニオン・ドッグになっている犬は星の数ほど存在し、そういうすばらしい可能性を秘めた大勢の犬達が毎年、大勢、処分されているということは改善されるべき問題です。これは、私個人の考えの中でも前提とする大事な部分ですので、とりちがえのないよう、おねがいいたします。




 本題です。慈善の精神が重んじられる国・アメリカに住んでいると、愛犬家なら当然、犬はシェルターから迎えますね!というプレッシャーを感じることがあります。SNSでは、犬好きの友達の多くが「犬をアダプトしよう!」というポストやビデオクリップなどを毎日のように気軽にシェアしてくるし、TVニュースのチャンネルによっては、ヒューマンソサエティ系のコマーシャルが繰り返しよく出てきます(寂しい檻の中で可愛そうな目をした子犬と共に、悲しい音楽の流れるコマーシャルです)。

 フェイスブックの地域のグループでは、「○○という犬種の子犬を飼いたい。誰かいいブリーダーを知りませんか。」といった質問に、「質問の答えにはなってないのはわかっているけど、あなたの犬はシェルターで引き取るべきです。」「A D O P T!」と書き込む人らが大勢表れて、その剣幕に驚かされたこともあります。上に書いた通り、道で出会った見知らぬ人との犬トークでも「ブリーダーなんか要らないのよ!」と、熱心に持論を展開されたこともあります。

 ペット量販店では、レジで「恵まれない犬や猫に募金をしますか?」と聞かれる・又はそういった質問が支払いのパネルに表示されることはわりと普通で、「しません。」を選択する事は当然の権利ながら、なんとなく自分が弱い者を助けないやつになったような気になる事もあります。


大好きなベーグルチェーン「ティム・ホートンズ」(やすい)
 

 時には、「イヌネコはシェルターから」を熱心に推し進めるあまり変なことになっている構図も見られます。ちょっと前の例になりますがたとえば、ロードアイランド州でペットショップで陳列(販売)される犬や猫はシェルターやレスキューから来た生体に限る、という法案が議会を通過して、一部犬好き界隈で話題になっていました。そもそも環境が劣悪な場合があり問題視されている生体販売店に、家や家族をなくして、心身の不安定な状態の犬猫を連れてくるのでは愛護の観点からも本末転倒に思えますが、そもそもこのような法案が出来る気運があり、大真面目に検討されたということ…、これを「いいアイデアだ」と思う人がまとまった数いたのだという事実に、はっきり言ってかなり驚いたのを覚えています。




 犬の世界にとって、犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれない「パピーミル」や、無計画な「バックヤード・ブリーディング」の存在は潜在的に危険なものです。また無責任に捨てられた動物を一時保護観察する場所として、機能的なシェルターがあることは言うまでもなく重要です。そのようなシェルターからいきものを引き取り大切に飼い育てることも、倫理的良い行いと言えます。

 けれども、この「倫理的よい行い」を追求する過程で、『純血種の犬や、それをふやすブリーダーという職業自体もすべて悪である』『みんな、ブリーダーの犬を飼わずにシェルターの犬を飼うべきである』『ブリーダーから犬を買う者は、みんな、無知で愚かである』と、極論に走る人が大勢いるという点には、注意が必要ではないでしょうか。

 犬について真面目に考えたことのある人なら、それは問題を単純化しすぎているとすぐに気付くと思います。しかし残念ながらここアメリカでは若い人などを中心に(ほとんど義憤といっていいレベルの感情とともに)上記のような主張を持った人に何度も出会ったことがあります。冒頭に書いたフェイスブックのご近所グループで「純血種の犬が欲しい」と言った人を攻撃的になじっていた大勢の人々も、この類に入るでしょう。




 そもそも、「シェルターで犬をもらう」という行いの善性について語る前に、「シェルターで犬を貰うことは万人にとって適した行いか」という別の疑問についても、もっと世間で議論されるべきではないのかな。はっきり言って、シェルターの犬をもらっているけど、上手に育てられると思えない家庭環境の人を大勢見たことがある。


 個人的な話になってしまいますが、ペット業界に居た頃、まわりにはシェルターでテクニシャンとして長く働いたり、ボランティア10年選手など、さまざまな人がいました。そんな中で経験を重ねた人ほど、シェルターの犬をもらうことに対して慎重だったことが印象に残っています。

 長年シェルターにいる様々な犬を観察し、時には自宅に引き取って寿命を全うさせる経験を誰もが持っている彼らは、誰にでも気軽にシェルターの犬を勧めるようなことはありませんでした。シェルターに居る犬について本当に色々な事例に触れ、時にはずっと後になってから予期せぬ健康上・行動上の問題が浮上するケースを経験していれば、そのようなことは出来ないのです。

 10年に満たないような私の北米生活歴の中にも、思い返せば「シェルターから犬を貰ってきたら、家の敷地内では可愛かったのに、ある日散歩中に豹変して、近所の老犬に襲い掛かって酷く噛んでしまった」というような話を複数耳にしました(←これは実際私と仲が良かった同僚に起こったことで、残念ながら老犬は死んでしまったのです。コミュニティにショックが走りました)。恥ずかしながら、私自身が仕事中にシェルター出身の噛まれかけた経験も何度かあります。

 前の家に住んでいたときも、隣の団地の犬で、非常に良く吠えるので「s h a t  u p---!」と毎日プロングで引きずられ、大声で叱咤されながら散歩しているハウンド系の犬がいました。子犬のうちに迎えたものの、育ったら猛烈に車を追い道行く犬に凶暴性を見せるようになり、早速、電気カラーで四六時中ビシビシ電流を流されながら散歩しているボーダーコリーミックスの若イヌがいました。どちらもシェルターや里親イベントでもらわれてきた犬たちです。

 上の2頭についてオーナーと立ち話したことがあります。2頭ともとても利口で可愛い犬達だし、オーナーの人達もごくごく普通のアメリカ人で、本当に普通にいい犬、いい人々なのです。ただ、住環境があきらかに犬に合っておらず、また飼い主達も犬の犬種的なニーズであるとか、どのくらいのトレーニングが必要であるとか、そういう事にとりたてて強い関心をよせるタイプではなかったところで悲しいほどのミスマッチが起き、それらが犬と飼い主両方のQOLを著しく下げていたのです。

 メディアやSNSでは里親の家で幸せに暮らしている犬が繰り返し脚光を浴びるなか、現実の世界では、だれにも取り沙汰にされない、「うまく適合しなかった例」も沢山あります。例えばの話、このような飼い主たちは、将来的な体格や、性格や行動がある程度予想しやすい「きちんと殖やされた純血種の犬」を飼っていたら、犬にとっても人にとっても、あるいはまったく違った結果があったのではないか?と思うときがあります。




 以前シェパードをアダプトすることでもグダグダとうんちくを述べていましたが、「シェルターの犬をもらう」という行為の問題点は、きちんと犬の健康や行動を把握できる、犬の心の動きをこまかく観察して、リスク回避やマネンジメントが出来る「アドバンスド飼い主」向けの犬がいたとしても、量販店などの里親イベントであったりシェルターであったり、カジュアルな感じで、「あなたは良い事をしている」という高揚感つきで、安価なペットとして犬を飼えてしまうところにあります。これは本当に良い事でしょうか。

 だから、「犬はシェルターから迎える事が是であり、最善である。」という風潮がいつしか勝手に現代の倫理規範のなかに書き加えられ、この「新倫理」が、

・好きな犬を飼う、その為にブリーダーへ行く
・自分と家族の生活に適した犬を真剣に選ぶ

という個人の自由までもさまたげ、ときに圧迫する様子すら見られることは、危険な傾向ではないかと思います。「個々の人は犬に割けるリソースが全く異なる」「個々の人は、犬を迎え入れる家庭環境に大幅な差異がある」などという、犬を生涯にわたって大切に飼う上で本来、最も重要視しなければいけない観点が、そこからは完全に抜け落ちています。




 大切なのは、どんな時も、出自がどんな犬であっても、毎日自分の犬を大切に世話をして最後まで飼いきることであり、また誰がどんな出自の犬を飼っていても、そこに至った他者の考えや行動、「選択の自由」を尊重する事ではないのかな。

 今日書いたことはもしかしたら世の中の多くの愛犬家とは逆行する考え方なのかもしれません。しかし、より多くの人が「シェルターにいる、かわいそうな犬達をたすける」という、感情に根差した視点を大切にしながらも、そこから一歩を踏み出して考える必要があると強く感じたため、書いてみました。


 今日の写真は5年前に散策したなつかしい夏のトロントから。ほんの数日だけの滞在でしたが、いっぺんで好きになってしまう魅力にあふれた街でした。犬もたくさんいてシティライフを謳歌してるように見えました。いいなあ~。現実逃避はこのへんにして、今日の無駄話をおしまいにしたいと思います。