2021年6月1日火曜日

だれかの靴を履かない事



 向いていないこと、やってもできないことをみとめる事ほど、自分の子供や愛犬に対してすることが困難を極めるものもないと思います。いちおう、教育関係の末席にひっついている者として、また地域の子供達を集めて勉強会兼プレイグループなどもしている中で、面談などの場になると必ずこの「うちのコができないこと(潜在的にその子に不向きな事もある)を、どう出来るようにするか」というテーマが、往々にして立ち現れることに感心を持っています。育児の命題のひとつなのではないでしょうか。

 この問いに関しては、人の子と比較すると犬などは動物であり、はじめからできる事が明らかに限られているのでまだ「まし」です。呼び鈴が鳴って、毎回、爆吠えしてうるさかったとしても、「そうか、コディは我慢する努力をしたけど、できないんだね」で、なんとなく許されます。

 ところがこれが子供のことになると一変して、みんな我が子の可能性は無限大のように感じてきてしまうわけです。そして、「まわりの皆は出来ているのに、うちの子供は出来ない」と、急にみんな気をもみだしてしまいます。私も人の親として、この感情には身に覚えがあります。だからこそ時折こうして、「人には生まれながらの向き・不向きがある」ということについて考えたくなります。


野ばらの季節になりました。ブログに香りを記せないことが残念


 未就学~小学校くらいの子供達の暮らしを観察していて、やるせなく思う事があります。人と比べて発達がゆっくりな子らのことです。彼らは毎日、ねんどしたり、つみきしたり、草はらの端から端までチョウを追いかけたり、野花をつんで遊んでいたのに、5歳のある日、学校生活が始まって、突如他の子との比較の対象になります。「なんであなたは出来ないの」と、大好きな親に怒られる子が出ます。私が「義務教育」というシステムの根源的な欠陥だと感じるところです。

 義務教育とは、皆がお金をかけずに、だれでもある一定の質の教育を受ける事が出来るという点で非常に優れたシステムですが、年齢をベースにした制度のため、必ず不適合を起こす子供を生み出します。いきものは、同じ年齢でも、心身の発達や性質には開きがあるのは、動物の子供を育てたことのある人ならだれもが自然に知っているにもかかわらず。

 一つの集団を導く存在としていろんな子供に触れていると、人間の子供の個体差の振れ幅に圧倒されます。かつて自分自身がそうだったように、今やっている題材に、頭の成長がぜんぜん追い付いていない子なども、わりとすぐに分かります。人よりゆっくり何かを探求したい子供もいます。教科書の中で、さわりだけの単元をやって、はい、次!ではとても物足りないと思う、知りたがりな子もいます。義務教育の忙しいカリキュラムから抜け出て、時間を与えてあげるだけで、別人のように輝くのではないかと思うことがあります。机に座ってなにかをするより、クレヨンやらタイルを虹色にならべるのが大好きで、一日やっても飽きない奴もいます。所謂、「異能」というやつですが、そんな子らにとっては学校は、彼らの居場所のフリをしているだけの場所に留まるでしょう。

 惜しい、かわいそうだと思う一方で、そういう子を守ってあげすぎることもまた「ちがうのではないか」という気がしているから、悩ましいところです。近代以降のアメリカの学校教育では、平均的な発達段階の集団からはずれた子供達を「発達障害」「学習障害」「〇〇エクセプショナル」etc……、、、として、子細に区別したり、制度上有利な処遇をする傾向がありますが、こうした教育プログラムを経た子供達の大勢が、人一倍成功し、幸せな大人になったという実績はあまり耳にしません(たまたまうまく適合して、すばらしい効果が見られる人もいると思いますが、ここでは全体としての話をしています)。

 子供のうちから「定型発達ではない、特別な人」「あなたはユニークな人」としてとりわけ大切に扱われたとしたって、いずれは人生という競争の場に出て行かねばならないことは決まっています。子供達はどの道自分に与えられた現実に満足したり、もっと重要なのは、そんな現実の中に自らの幸福を見出して行かねばならなくなります。

 勉強や、知の世界を探求することとは、人生における「幸福への感受性」を高める主要な手段の一つだと思うのですが、どの子にとっても、そうあり続けて欲しいと強く思います。そのためには、その個体における「向き・不向き」を恐れずに認める事、親もそんな子供を認めて、子供にとっては親に受け入れてもらえる事が、まずはその第一歩と言っても過言ではないのではないでしょうか。






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