2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳


 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。


 それから、人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向があるなあと思いました。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。コディは生粋の肉男で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いない!と思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。

思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます

 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。


 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。


 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだ雲の中ですが。


2021年11月19日金曜日

褒めることの有効性


 どの飼育書、しつけ本にも必ず書かれていることがあります。犬がいいことをしたら「犬を褒める」ということです。でも常々疑問に思っていることがあって、「褒める事はいつも必ずしも有効なのか」ということです。これはいままでいろいろな犬にふれあったり、また以前飼っていたドーベルマンや、今飼っているシェパードに毎日かかわる中で出てきた問いです。

 この世には「褒められる事が有効な犬」というのと、そうでない犬がいるように思います。私の思う「褒められることが有効な犬」というのは、①生まれつき褒められる事への感受性が豊かな犬、そして②後天的に褒められる事への感受性が豊かになっている犬の2種類です(厳密に言えば、同じ犬でも状況によって感受性が増減しますが、、、たとえば家のキッチンと公園とでは褒めへのリアクションが違ったり、、、今回は「本質的に褒められることが有効かどうか」について考えたいと思います)。


 ①は、遺伝的背景などによって、ほとんど生まれつき褒められることが大好きなように見える犬です。子犬なのに声掛けすると短いしっぽをピロピロ振って、いくらでも人間の活動に付き合おうとするような犬です。特別人に対して親和性を育みやすい性質などの副産物なのかもしれません。私からするとそんな犬と暮らす事が出来ている人は大変ラッキーだと思うのですが、世の中の多くの犬はむしろ、飼い主との沢山の良い思い出を通して「褒められること=いいこと」と、頭の中でしっかりとヒモ付けられて、はじめて褒められることの意味を真に理解できるようになっていくように思います。これは②のパターンです。

 ②の犬は、しかし、「自分が褒められてる」「褒められることはうれしいことだ」とピンとくるまでに、かなり時間がかかることもあります。飼い主の側がそう思える状況を十分に作れていないなど、理由は多々考えられますが、生まれ持った性質としか思えない事もあります。私が以前飼っていたドーベルマンもそうで、「この犬は自分が褒められて心の底からよろこんでいる」と私が確信するまでに、じつに7年位かかりました。しつけ本に出てくるみたいな「素直に喜んでくれる犬」「褒められようとがんばる犬」になるまでに、寿命の半分以上が経過してしまったのです。後から思えば、犬にとって私と言う存在がまだまだそこまで重要視されていなったからだと思います。ドーベルマンは強い犬なので、そんな人間にほめられようが怒られようがシッタコッチャネ~、だったというわけです。

 犬のしつけを考えるとき、トレーナーさんの言う通りにやっているけどなかなかうまくいかないな、というペアの中には、こうしてほめるとかしかるとかいう以前に、犬と人の関係がまだきちんと構築できていないケースもけっこうあるのではないかと思いました。そういう時「褒める事」は報酬として全く意味を成さなくなります。




 考えてみればあたりまえなのですが、実際のところ自分に対してどんな価値があるのかはっきり分からないひとが、自分がやったことに対して突然キャーキャー言って喜んだって、なんか嬉しそうだと気分が盛り上がることはあっても、それで天にも昇るような気分になったり、震えるほど感激するということはないわけです。周囲のドッグトレーニングの様子を見ていても、そんな状況になっている場面を時折見ます。飼い主はワオ!グッド!とすごく嬉しそうだけど犬自身は全く気にしてなかったり、むしろ気弱な犬とかだと、どうも自分が原因らしい飼い主の豹変(?)に挙動不審になっている場合すらあります。こうなると「褒め」は通過して、犬にとってはドッキリの域といえます。個体によって適切なレベルの褒め方があるとも考えられます。

 また超個人的な見たてになりますが、これは、叱る時も同じだと思います。もともと飼い主と強い絆で結ばれている犬は、少々叱られたり、小突かれたりした位では揺らぎませんが、仮にそれら抜きにいきなり叱ったりしたら、「頭ごなしな学校の先生」とか「暴力的なオヤジ」みたいな感じになってしまい、自らの飼い主としての魅力を著しく下げることになるでしょう。また犬は驚き、「こわいから言う事を聞く」ようになるかもしれません。これは良い人&犬の関係を築く上で、多くの人が目指したい所ではなさそうです。先進国社会では犬を叱ることについては非常に賛否両論ありますが、私は、自分の犬を厳しく叱ることがあります。ただし叱る時はふだんからその10倍、いや50倍は褒めるくらいの気構えでいるのと、叱る事も褒める事も犬にわかる・伝わる形で行う事を最優先に考えている、ということは明記します。


 「褒め」のもう一つの側面として、「犬をやたらと興奮させてしまう」という効果もあるように思います。これは逆に褒められることの意味をとてもよく分かっている犬に起こりやすいように思います。たとえば今飼っている犬のコディは、特定の状況で遊びをしている時に「グッドボーイ」と言うと、真顔になり、耳が直立し、身体がこわばり、私を凝視する瞳がギラギラしてくることがあります(以前通っていたドッグランに、この状態のコディがどうしても怖くて冷汗がでて体が硬直してしまうという人がいました)。犬自身は歓喜と期待で興奮状態です。こうなると、コディの場合はその後何かをさせても乱雑で適当な動きになってしまいます。「グッドボーイ」が刺激的すぎて、コディの心と体のコントロールを弱めてしまうのです(考えようによっては、犬が爆発的に力を出すようなタスクをやるには向いてるのかも知れません)。このことから、場所や状況によっても、適切なレベルの「褒め」があるのではないかと思いました。

 いつもの如く長くなってきたので振り返りますが、犬を褒めることも(叱る事も)、まずは関係ができてから、犬に「この人にほめられたい」と思う人になることが、多分先決だということ。そして、個体・場所・状況によっても適切な褒め方があるんではないか~?、、、というところまでまとめて、おわりにします。

 今日の写真は2ヶ月前に発根していたエケベリアです。ゆっくりですが窓際でも成長を見せてくれています。これらは皆同じ親株から出たクローン体のはずですが、成長速度や体色にけっこうばらつきがあるのがおもしろいです。来春頃には人にゆずれる位の大きさになってるかも知れません。



2021年11月16日火曜日

「ミッション・レディネス」


 犬の運動機能の向上についてちょこちょことオンラインの講座を受講したりして、勉強を続けています。日々の生活のすきま時間を利用してなので、自分でも考えたりためしたりしながらだと遅々として進みませんが、徐々に犬の体を見る目が養われてきているような気になって?楽しいです。学んでいるのは主にワーキングドッグ(警察犬、探知犬、救助犬や牧場で働く犬等)、プロテクションスポーツをする犬のハンドラーを対象としたものなので、自分の犬には転用できない事もありますが、参考として全て頭に叩き込むつもりで見ています。

 題材の中に、「Mission Readiness/ミッション・レディネス」という言葉が出てきます。「使命を果たす準備がととのっているか」というような意味でしょう。作業犬にはさまざまな使命がありますが、ペットに毛が生えたようなコディにも、セラピーの訪問という使命があります(日夜命がけの作業に従事する犬がいる中、本当にお気楽な『使命』ですが)。

 犬達は要請があった時、即座に社会の役に立つために、最上級のパフォーマンスが出来る状態を極めておく必要があります。これだけ言うと、使役する人の側の都合を押し付けているみたいですが、心技体がバランスよく整っていることは犬の自信を向上させ、ストレスを軽減し、怪我を防止し、間接的にその犬が長く健康に仕事に従事することが出来るという意味でもあります。犬自身の福祉にとっても非常に大切なことなのです。


 ワシントンDCは新型コロナウイルスの流行下、政府の施設の多くが閉鎖されたため、政府付属の機関に定期的に通っていたコディの活動も休止していました。ワクチンの普及と共に街のようすは元にもどってきたものの、セラピードッグ達が気軽に訪れられる状況はまだまだといった感じで、コディも加齢とともに以前と違った行動を見せているし、もしかするとこのまま引退かなあなどとのんきにしていました。

 ところが先月になって緊急の招集がかかりました。行き先は、最近政権が崩壊した中近東の国のタスクフォースで、土日祝24時間稼働しているとのことでした。ライフワークバランスを重視すると思われがちなアメリカ人が、昼も夜もスーツで缶詰になっている部署というのはふつうではありません。こういう、緊張感の高い場所へ行くほど、犬も人もむしろ平常運転でいることの方が大切です。窓のない政府の建物の中で日夜、冷たい活字と早口の要請の渦の中にいる人々にとって、犬は温かい生命や、日常の象徴ともいえるものです。ふつうの、どうでもいい会話の糸口であったり、落ち葉やよだれや、生き物の温もりを運ぶことがコディの「ミッション」です。夜間の訪問でしたが、準備は万端で臨むことができました。

 この訪問をアレンジしてくれているコーディネーターの方は、この機関にセラピードッグが定期的に訪問するようプログラムを確立したのは「2年前、初めて訪れてくれたコディアック(『The pup who started it all』)が大きなインスピレーション源になった」と、あとでメールに書いてくれました。また、訪問後自宅にブリンケン現合衆国国務長官のサインの入った感謝状が届けられました。セラピードッグの訪問活動を通して、こんなに大きな賞賛を立て続けにもらうことは今後もないと思われますが、「Mission Readiness」を意識しながら日々犬も人も心身の状態を整えていたことが、わかりやすく報われた出来事でした。