2022年11月6日日曜日

アロエの成長

窓辺のスリー・アミーゴ


 去年の8月のノートに書いたアロエの今です。唐突ですが私はアロエの世話が本当にヘタなのです。ここまで何度も調子を崩させたり、気を使って植え替えしたらまた弱ったりで、(自分の腕は棚に上げて)「いつも何かしら問題がある人」というレッテルを貼ってしまっていました。でも、写真を見比べるとこれでもけっこう大きくなっていることが分かりました。これはなかなか嬉しかった。

 アロエ類は陽光が好きなイメージが強くて(ハワイのカンカン照りの道端で雑草と一緒に生えていたし)、基本的には外で育てるものだと思うのですが、こうしてなんとか室内でも生きて少しでも成長していてくれるのはありがたいです。過酷な我が家の環境、ケアに負けずこれからもがんばってほしいです。笑




 前回出てきた茶ばんだエメリアエは、きれいな緑色にもどりましたよ〜
 ホムセン出身のこの草は成長障害で妙ちくりんな姿ですが、元気です。

 じつは、最初の植え替えの時にとれてしまった子株を1つだけ小さい鉢に入れていたところ、調子を持ち直して順調に成長してきてですね、、、嬉しくて調子にのって水を与え過ぎ、若干徒長気味にしてしまいました。綺麗に太って青々とした状態を保つのと「やりすぎ」の境界線が少し難しいなあという気がしてます。


マクラータ

 私は変態なのでこういう植物の葉っぱがとれてしまうと、カッターでスライスして断面をなめるという奇行に走ってしまう。苦くも無く甘くもなく、ただただ、「植物が一生懸命貯めたもの」の健気な味がします。うう~む。。姿見て良し、なめて良しとはこりゃ参った。。。※良い子はまねをしないでネ




 半年ほど前にやってきたユーフォルビア・ファイヤースティックが優雅に手を振って「私のお味見もぜひどうぞ」と誘ってきます。ダメ、絶対。この鉢に2週間に一度ほど大型のじょうろで目一杯水をやるのですが、一回一回、なんか気味が悪い程でかくなっていくので最近コヤシをやるのをやめました。私は恥ずかしながら肌が少し弱いのでこいつの手入れはちょっと命がけです。一番どうしたらいいか分からない草。


こんなに高く伸ばす必要ある?と見る度思ってしまうH.ヴェノーサ.テッセラータの花


ハオルチオプシス属の特徴を備えたお花

 まあこのようにして、近所のホムセンに月イチていど行くたびに草のコーナーを覗いては、新しい葉っぱが増えたり、増えなかったりしているわけなのですが。。。この店にある草は皆けっこう見るのも悲しい状態になっていることが多いのです。江戸の火消しのさすまたかよ?と思うくらい見事なワイの字に成長したリトープスなどは平常運転です。

 さすがの私も最近は深読みし出して「この状況、わざとでは?」と思い始めました。こういった草花を適当にキープして「ほどほどに可哀想なすがた」にしておき、助けてあげる、という私のような愚かなカモをおびき寄せているのでは?そうしていつまでも私のような蒙昧なお人よしが購入していくから、可愛そうな草花の売買は永遠と続くのでは?と。


2022年11月1日火曜日

はらはらと~紅葉降るなり 犬の背に


 彼奴の換毛期が到来しました。ブラッシング用のレーキをかけると、いつかお祭りで見たワタアメの機械のように無限に毛がとれます。とても楽しいです。フサホワ系大型犬の例に漏れず、シャイロシェパードのアンダーコートもとても細くて柔らかく、わた埃みたいにふわふわと舞います。毛量は、たぶん多くの人が思うよりかは少ない方だと思うのですが、それでも体が大きいのでなかなかです。我が家ではこの時期、全てのものにこのホワ毛が混入してくるので、私自身も気付かないだけでこれまでに相当量の犬の毛を口に入れてるはず。でもま、私は犬毛は食物繊維の一種と捉えているので、今日も心の平穏は保たれているのでありました。

 編み物が得意で家に糸車を持っている友人曰く、シャイロの毛は「紡げる毛質・長さ」なのだそうです。バージニアには頼んで愛犬の毛を送れば紡いで毛糸にしてくれる人もいるので、少し気になっています。今年は手はじめに、子供と一緒に比較的カンタンなフェルト作りにチャレンジしてみようか?コディの毛のフェルト石鹸を作ろうか?などと、夢を膨らましています。家の者より、「洗えば洗うほど手が汚くなる石鹸」などという、なんとも不敬なコメントも来ているのですが・・・(私は私で「石鹸なんかにしたらせっかくのコディの獣臭が分からなくなるからいやだ」と思っている)





 くだらない計画ですが、こういうことを思案する際、そろそろ脳裏に「思い出作り」という単語がよぎることが侘しい、愛犬の7歳の終わりです。私達はいつもニコイチで色んなところへ行き、色んな事をしてきたからか、もう本当に長い長い日々を共にしている様に感じています。「犬の飼い方」という本を開けば、こういう風に犬とベタベタと癒着した暮らしをしたり定期的に留守番させないのは犬自身のためによくないとか、分離不安にさせてしまうとか、色々書いてありますね。それはまったく論理的に正しいものです。

 でもときどき思うのです。

 やっぱりそれってそんなにダメなことなのかい?と。

 まだまだ人が大家族で、どっかの村や、町はずれで、ウシやらウマやらヒツジやらと共にアナログな生活をしていた頃。といってもそんなのは100年にも満たない、人類史においては「ついこないだ」程度の昔ですが、家の外で日がな一日ヒモもつけずにゴロゴロしていたりして、行き交うニワトリの向こうに寝そべって、これだ、この人に着いていこう、と自分で決めたその人をずっと横目で追いながら生きる、犬とはそんな連中だったはず。そういう性格のヤツが、選び抜かれた「動物のトモダチ」として、犬と言う生物の命を繋いできたはず。

 信頼しているその人が「おいで」と言ったらすぐに来て残り物をもらい、隣村まで仕事に行くとなったらついていく。その人が寝たらふとんの近くに陣取り、「変な物音がした。行こう」と言ったら、夜の3時でも目を光らせながら闇夜の中に飛び出して行く。そういう暮らし方は、ごく普通のものだったはずだと思うからです。