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2026年1月25日日曜日

いろいろ思うこと


 先週までの陽気と一変し寒波が通過中の北バージニアです。

 今回の寒波はいつもと違ってなんとなく空気にぬくもり?がある感じがします。山あいのこちら地域では、気温もずっとマイナス10℃台で、風も吹いているのでぬくもっているわけなどないのに不思議です。日曜日は一日中外で雪かきしていましたがとても捗りました。不思議といえば、今回のこの雪、すべて霰(あられ)で出来ているんです!よく見るとビーズみたいに、透明な氷の球体の集合で、「名和晃平さんの彫刻作品」みたいで可愛い雪です。

 コディはこの雪の中にいつも通り勇んで飛び出していき、それからふっと考える顔になったのち、手足を引っ込めたり持ち上げたりしながら小走りで帰ってきました。深い雪が足腰・関節にこたえるのでしょう。11年の犬生をかけてようやく「冬は寒い、雪は冷たい」と分かったのかも知れません。10年前、ドカ雪の中で遊んだ時の日記が残っていますが、こうして遊べたのも犬が若くて元気で、何にも心配のない私達だったからです。過ぎ去りし輝ける時間よ!思い切り雪で遊ぶ全ての犬と人間に幸あれ。


霰(あられ)の図 これ、木の枝や車に積もらないんです
停電になりにくそうで助かります

 コディと今まで本当に色々な冒険をしてきましたが、その無理がつもり積もって、今こうして歯は欠け・すり減り、紫外線で目は濁り、肩や膝も関節炎やら、耳もよくなりすぎて?しまったし、この飼い主のせいでより可哀想なシニアライフになっちゃっただろうか……と、雪遊びをしなくなったコディを見て今日はすまなく思っていました。

 口の中まで土だらけにして野山を走り回っている時、コディの瞳は輝いて本当に生き生きとして見えました。私はその表情を見るのが嬉しくてつい、次から次へと、いろんな冒険に連れ出し、さまざまなことを常に話しかけ、こまごまとしたスキルをことあるごとに教え、能力を伸ばしてセラピードッグをさせと、もしかしたらこの犬の生活をむやみに複雑にしてきたのかも知れないな。よかれと思って田舎に引っ越したことも、それによって出来なくなったこともいろいろありました。


雪の中の移動に手こずり、バツが悪そう


 コディの飼い主歴11年目にして思うのは、「この犬の飼い方について飼い主として胸を張って言えることは何もないなあ~」ということです。自分が「これが良い」と思った判断が果たして正しかったか、それはだれにもわかりません。犬はそのとき・そのときを見つめて生きているので、わたしの方でもその場・その場で最良と思われる判断をし続けて今に至りますが、それが長期的には、特に犬の健康などを考えると、プラスに働かない部分もきっといろいろあったはずです。


眠くて ぶたちゃんのようなコディ

 そういえば、引退した麻薬探知犬が、もう永遠に仕事する日は来ないのに、実働時代の名残で外出中常にボールを咥えたきりになっているのを見たことがあります。犬本人はもちろんその状態が落ち着くし、楽しいからやっています。それを見てふと思いました。命が燃え尽きるまで活動に従事するよう、それで幸福まで感じるよう「そう生まれてきた」犬の宿命とは、なんとすごいんだ、ということです。

 「そう生まれてきた」原因は、もちろん私達にあります。たとえば、鼻ペチャの犬は健康的でない、鼻ペチャの犬を繁殖することは人間のエゴだ!という人がいますよね。でも私が思うに鼻ペチャだけが人間のエゴじゃないんですよ。私からするとコディだって、疑いようなく私のエゴを具現化し、昇華している存在です。ある見方をすれば、私がやりたがることを全て叶えるために、文字通り彼はいつも大喜びで身をすり減らしてきました。飼い主に「私はいいことをしている」といつも思いこませてくれました。この事そのものがこれまで連綿と続く、人間による「犬作り」の結果です。これは鼻が低いとか足が短いとかいうのとはちょっと比べ物にならないレベルの「生物の改造」です。

 純血種の犬だけに限らず、雑種などであっても、必ずその血筋のどこかで人の手は入っています。現代よりずっとずっと資源の限られた時代にも犬は飼われてきました。「役に立つ犬がほしい」「かわいい犬がほしい」これらはわたしたちの中にずっと強烈な動機としてあったはずです。そうやって犬の精神の構造(を司る脳の構造)までも人間が選別・制御を繰り返した結果が「犬」です。よって現存する犬とは、程度の差はあれ、すべからく人間のエゴ、都合と需要の産物です。

 鼻がぺちゃんこなのは命にかかわるからいけない、というのは明確で分かりやすいですが、では、犬がこのような精神構造を持って生まれてきているということは、全く犬の命に関わらないと、私達ははたして言い切れるのでしょうか?むしろ、目に見えないだけで本当ははかり知れないほど多くの犬の苦しみ、孤独や死の源泉になっているのでは?たとえどんなに乱暴で怖い主人でも愛着を感じ好かれようと努力し、しっぽを振って付いていく無垢な精神構造が、犬自身にとって破壊的で、有害なものになりうることを私達はすでに知っています。

 そうやって考えると、全ての犬を飼う人間が、自分の犬も含め、本質的には犬っていうのはみな私達人間の都合のためにあるべき姿、形、本能を曲げ、時に超・強化された形で生み出されてきたことを認識することに意味があると思う。そしてどんな犬の生もまた、程度の差はあれ、不可避的に私達の都合のために日々費やされているのだという事実について思いを馳せることも必要だと思う。

 自分の犬を含めてまわりのいろんな犬を思い出してみます。

 思いつくほぼ全ての犬は「可愛い」か「ひとの役に立つ」か、その両方かに仲間分けすることが出来、ほとんど例外がないのです。このどちらにも分類されない犬の命は、人間社会では極めて粗末に扱われていたり、または「始めから存在しない(生み出されない)」ようになっています。この異常に不自然な存在、それが犬なのだ……なんてなことを、つらつらと考えていた今日でした。

 なんか、ここまで書いてみて、自分に反論したい意欲が湧いてきたな(笑)
 「犬という存在はそれだけじゃないんだよ、と信じたい自分」がいるのですよね。

 人間世界の倫理を凌駕するものとして「自由と自然」を信奉するわたしとしては、人の需要があるかぎり、鼻ペチャ犬は永遠に鼻ペチャ、ダックスフントはますます短足であっても仕方がなく、キャバリアキングチャールススパニエルを可愛がりたい人は、僧帽弁閉鎖不全症の治療費をたっぷり準備したうえで自由に可愛がるべきであり、それをいけないと思う人はそう信じて一生懸命戦えばいい。犬を捨てることは仕方がないと思う人がいれば、捨てられた犬を拾う行為をもって自らの善性の根拠としたい、そういう人があっていいと思います。

 結局のところ、人間社会というのは、そういうひとの勝手と都合が激しく自由にぶつかっている騎馬戦みたいな状態にいつもなってるのが「いい塩梅」なんだと思います。倫理的には不衛生だし、個々の人にとってはストレスフルな状況も多いが、歴史を振り返るといつもこのストレス、『不快』をバネにして、文化の発展が生じているように見える。人類社会には暴力や強欲や不道徳も蔓延していますが、つまり、それが私達のサバイバルを強烈に後押しする原動力だからなのではないか。「私らが良いと思う解」と「自然が示す解」はいつもちょっと違う、だから面白いなあと思います。そして犬達には、この宿命の檻の中で、自ら更なる幸福を求める強靭な生物として生きてってくれ、と思います。


2025年6月1日日曜日

「あなたの犬、咬みますよ」

 


 所用で知り合いの家に行った時、そこの家の、もう成人した子供さんがウエストバージニアのパウンド(保健所)から引き取ったという若い犬と出逢いました。ヒーラー系の小柄な雑種で可愛い犬です。子供さんの大学院がお休みの間、友人夫婦に預けられたというその犬の目つき、挙動を一目見てあれ?と思いました。この犬は以前だれかを咬んだことがあるのでは、と感じたからです。




 その知り合いは私よりかなり年上で、よい関係ですがなんでも言い合えるようなすごく親しい間柄というわけでもないのです。そこへきて、しかもまだ何も起こっていないうちから「この犬咬みそう」なんて、あまり空気を気にしない私でもさすがに言えないぞ。でもちょっと考えてしまいました。


 今思えば問題行動の段階で相談してくれていた時に、当たり障りのない助言しかできていなかったな。私が地域の訓練士さんのおすすめのリストを持って行ったりしていたころ、彼等はまさに事故が起こるせとぎわにいたのに。そんな人に悠長に『アドバイス』とは我ながら聞いてあきれる。その咬まれて死んだ近所の老犬、保健所送りになった同僚の愛犬への責任は私にもあるのだ。

「グッドボーイはどこかな?」と探すフリをする私
自分を見つけてもらえるかも知れないヨロコビで頭を抱えてるコディ

 ここで私がやいやいすると「少しのことでおおげさな人」みたいに見られることが多いのもまた悩む所です。

 〇行動を起こさない➱ 犬が事故を起こす、友達が怪我をする、犬の命がなくなる
 〇行動を起こす  ➱ 何事も起こらない、自分はうるさい友達と思われる

というような構図になったりします。これはウィン&ウィンの逆で、マケ&マケみたいな、不毛な二択です。ただ私が「うるさい友達」と思われるポジションで満足していればいいだけなのですが、悲しいかな、「よき友人と思われたい」という願望が私にも存在するんですよね・・・

 間をとってやさしく指摘したり、訓練をすすめたりすればいいじゃんと思うかもしれないですが、経験上、やさしく指摘するのだと危機感がちゃんと伝わらないことが多いです。犬に関して、大抵の人は実際に問題が起こってはじめてあれ・・・ちょっとやばいかな?となるものだからです(そういう必要性にピンと気付いて未然になにかしようという性格の飼い主だと、そもそもあやしい状況までいかないことが多いです)。

チラッ

 何よりも、私がこういう些末な大人の都合みたいなことをことをごちゃごちゃと思案している間にも、今すぐにでも軌道修正しなければならない目の前の怪しい犬が、何のおとがめもなく、「また自分の思い通りにやれた」と自信をつけている様子が手に取るようにわかります。私の中に住んでいる『犬しつけ職人』が居ても立っても居られなくなる瞬間です。

 こういう時「もし私が犬の訓練士の資格でも持っていたなら、もっとはっきりと進言できたのかな。」と思います。いや、無理かもしれないな。世の中でもまれる中年をやって久しく、すぐ相手の立場や気持ちを考えすぎるクセがついてしまって、それは良いことだと思うのですが、目の前の問題に即座にとりかかって目標を達成したり、現状を打破する際のスピード感みたいなものが大幅ダウンしたと思う。



 こういう時、嫌われ者になったり、うるさい人と思われてもいいから、ブレイクスルーする力が欲しい。
 上手に伝える術はあるはず。それをさがし続けないといけないと思う。

 場面や状況、相手によっても変えていかないといけないし、そういうのを「本物のソーシャルスキル」と言うのだと思う。ただあたりさわりのない、安心させるような耳ざわりのいい事を言って、相手の問題を真剣に解決しようとしない、それだと相手は結局は失敗したり、困ってしまう。そういうのは真の意味での社交上手ではないし、なにより不誠実である。


 人間の教育現場でもよくある葛藤なのですが。

 なんだかんだ10年くらい教育関係の領域の末席をうろついていると「この子は、幼いころにあまりしつけをしてもらえなかったんだな」という子供に出会う事があります。しつけって、勉強以前の問題で学校とかへ行くずっと前から「父さん母さんはこう考えるんだ」「ウチではこうやるんだ」ということからくる、その人の行動原理を形作るものということですが、この部分が抜けてる子がちょっと増えてる気がします。

 今の学校って、子供が小さい時は「まだ小さいから愛情を求めている」とか、低学年くらいになると「苦手も個性だから尊重し、良い所を見つけて褒めて伸ばす」というアプローチで、『子供の人権』とか、最新のナントカ式教育技術をうたう『識者』みたいなのが急にどっかから出てきて、耳ざわりの良い事を説き、今実際に目の前の子供に起こっている問題の解決が実質、先延ばしにされてることが多いと思う。親も「プロの先生が言うのだからこの通りでいいのだ」と安心させられてしまったりして、その子供の勉強だったり素行上の問題について本当に責任を持って取り組んでる人が実はだれもいない、という図になっていたりしています。

 そうこうするうちに、こういう子達の多くが小学校ではぼんやりとした不適合を起こし、4、5年生くらいから学力も伸び悩むようになり、中学校位になると思春期もあってだんだんまわりから手を差し伸べてくれる人も引いていき、親も仕事で忙しかったり、なおかつ衰えてきて積極的に介入したり子供の軌道修正ももはや出来なくなり、だれからも真剣に向き合ってもらったことがないから自分自身の価値に気付かず、大人を尊敬することも知らず、よって手本となる人もいない、夢もない、得意な事もない、誰からもなんとなく放置された若者が残される・・・そんなに珍しい話ではないと思う。

犬の口元のこの「ふぐふぐ」した所が大好きです
コディの「ふぐふぐ」は触り心地も匂いもとてもかわいい

 この経路を逆算して子供に接するので、私は必然的に小さい子供、子犬のうちにこそ、きっちりと厳しく接することに価値を見出します。すると「○○ちゃんのきびしいお母さん」「こわい先生」「子犬に厳しくしてひどい人」と思われることもあります。でもだんだん、自分ちの子供のしつけを肩代わりを頼まれることが多くなります。それを考えると、やっぱりみんな世間体上、いろいろやさしいこと言っていても、厳しいしつけが必要な時は、事実必要なんだと思います。

 犬の子だって小さなよちよち歩きの頃からその10ヶ月後の姿を想像しながら育てないとならないです。抱きしめたいほど愛らしい子犬の中にこそ「今、正した方がいい考えや行動」を見つける厳格さが必要です。人の子供も同じなのではないかな。小さい頃から傍について、「おまえたちは大人からどう見られているか」「社会からどんなふるまいを求められているのか」「その中でどう幸せを目指していくか」子供にやさしくでもはっきりと事実を知らせ、時に手本を見せてあげることが親やまわりの大人のすべき仕事なのではないかな。

 とかなんとかああでもない、こうでもないと思いめぐらせながら歯科治療を受けていた今日です。実は今日の日記は全部歯医者さんのイスの上で書いてます。「ウエストバージニアのパウンドから引き取ったウチのダルメシアン、同居の犬を咬むんだよね。今日マズルを買うわ。」という歯科衛生士さん。すわ、チャンス到来!!!「今日からすぐやるといいこと」を紙に書いて渡しました。それにしても『ウエストバージニアのパウンド』はいったい、どうしたことか?興味がわいてきました。一度覗いてみたいです。

~オマケ~


 チビのスナネズミがやたらと人に慣れてきました。見ているとずっと手の上にだっこされています。私はストレスで死を覚悟して固まってると思ってたのですがこの状態のままトイレットペーパーの芯などを差し出すとカリカリかじっていたり、そのうちねむたそうな感じになってきます・・・どうやら娘の言う通りほんとにリラックス?しているのかも??

 スナネズミがこんなによく人に慣れるとは知らなかったので、どうやったの?と聞いたら「お母さんが言った『おどろかさない、5秒くらいの短い間やさしくだっこする、暴れてもケージに下ろさない、掴まれたり撫でられても落ち着いていたらすぐケージに下ろしてミルワームをあげる、落ち着いていられる時間を少しずつ延ばす』ことをやった。」と言います。

 聞くとこのやり方をなんとかの一つ覚えみたいに毎日10回、20回と愚直に繰り返していたようなのです。時間のある小学生すごい!ということと、やはりストレスでは?という一抹の不安、それからスナネズミもトレーニングが入るんだ!と二重の意味で感心しました。そして、トレーニングの基本はやっぱり頻度だなと確信しました。チビは、もう一匹の方も全く同じことしたけどあまり覚えがよくない、お勉強が苦手なのかな、とかブツブツ言っていました。こんなに小さな齧歯類だけど個性がちゃんとある!と感心しました。


2024年11月24日日曜日

牧羊犬の「空間的感度」



 最近、夜中にこっそり娘のスナネズミ飼育コーナーに入って行って、こそこそハムスターフードを食べてるところを現行犯逮捕された犬の後ろ姿です↑。どうりでエサの減りが異様に早いと思っていました。大きな体をまるめて、静かにケージのまわりを歩き回り、小さなバケツに入っていたフードをぽりぽりと食べてました。

 おなかの不調になやまされたここ数週間だったのですが、その検査の結果も何も異常がなく、獣医さんにも「おそらく庭で『食べるべきでないなにか』を拾い食いしたと思われます」と言われたコディです。乳酸菌等サプリを処方してもらい(ハムスターフードも取り上げられ)、失われた体重も回復し、すっかり元通りにしています。

 「家が田舎で裏庭が野原になっている」と言うと犬を飼ってる友達などにはいいね!と言われることが多いですが、落ちてる異物を見つけるのはほぼ不可能だったり、野生動物の出入り(=招かれざるバクテリアやウイルス・寄生虫の出入り)や、時には何かの死骸があったり、時期によっては化成肥料が撒かれていたりと、ペットにとってはわりとリスクもある環境です。犬の安全と健康をとるか、自由と冒険をとるかというジレンマがありバランスがむずかしいです。


じー(凝視)

 ところで、最近たまたま目に留まった文章で牧羊犬についてのおもしろい言葉が出てきました。Spacial Sensitivity、私の翻訳機は「空間的感度」と訳してくれたのですが、日本語ではほとんど聞いた事がない言葉です。これはspatial awareness、空間認識(能力)とやや近似したコンセプトだと思いますが、牧草地などの平面上に散在する家畜をまとめるために非常に優れた空間認識能力を生まれ持つ牧羊犬が、その一面として持つ空間に対する感受性とか過敏さ、と言えると思います。これについての記述が面白いのです。

”…これは牧羊犬のもう一つの奇妙な特徴です。牧羊犬は周囲の空間を敏感に察知し、他の犬、家具や壁などの物体、人など、何に対しても近づきたがりません。犬の首輪に手を伸ばそうとしたのに犬が後ずさりした経験があるなら、それは空間過敏症です。牧羊犬の中には、空間過敏症が顕著で、飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬もいます。そうなると、当然、犬をつかんでリードをつけるなどするのが非常に難しくなります。…”

と書かれていました。これはすごく面白いですね。犬のまわりにスペースみたいなものがあるということですかね。いったい、この世界がどんなふうに見えているのか聞いてみたくなります。今まで実際に働いているプロの牧羊犬は何度か見たことがありますが(例)、非常に賢い一方で、なんか野生の動物みたいなところがあったりペットとしては困った行動をする犬が多く「この子らは獣医でおりこうに出来るのか」という純粋な興味があります。こんど獣医さんに行ったら聞いてみようかな(飼い犬の年齢がら獣医のことが気になる人)。


うちの犬はあまりおりこうではないです

 そういう目で見てみると、一応牧羊犬の端くれであるコディもちゃんと(?)この「飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬」の片鱗があるので感動してしまいました。今でも何もない草地などに自由にさせるとそのような行動を見せます。コディはまた、若い頃は確かに首輪を掴まれることを嫌がったので、それでしばらく練習をしたことも思い出しました。このブログの中でも何回か書いたと思いますが、撫でられたり体に触れられることも本質的にそんなに好きではなかったです(なでられるのは後から「良い事」と分かったみたいです)。これらは「犬が自分のまわりにある空間をはっきり認識してる」ためだったのかも知れません。

 また、コディが大きな体にも関わらず私自身や家具にぶつかったり、足元に置いてある小さな植木鉢を倒したりといったことがないことについても、言いつけを守ってエライと思ってきたのですが、それも上に書いたような牧羊犬らしさと連続した特徴なのではないか?と思いあたりました。彼の場合「境界」をかなり明確に認識していて、柵などで区切られたスペースから出ない、いったん袋に入れられたものはどんなチャチな袋であっても出さないなど、自分なりに決まりをあてはめながら日常生活上のいろいろな要素について繊細に感じ取っていることが感じられました(ハムスターフードの『バケツ』は境界として認識されなかったようですが!)。


私の長年のペットであるヘビ(14才)の餌を買いに、ペット用品店へ。
娘が消えたので探したらネコちゃんの里親コーナーに吸い込まれていた

この子猫が可愛くて、差し出した指にそっと白いお手々を乗せてきました
「マーベリック」という名前のオスの子猫でした。幸せを掴んで欲しい



 今月は学校行事やコディの獣医などで町に行く機会が多かったなあ。幼児の帰りに町に昔からあるちょっとしょぼめのグロッサリー(食料品店)に立ち寄ると、すごい色のカップケーキや、砂糖でネチャネチャした生地にM&Mがこれでもかとちりばめられた大人の顔くらいあるクッキーが棚にぎっしりと並べられ、こうなってくると忙しかった2024年ももう終盤、という雰囲気です。

 最近時々思うのですが、いつか自分がばあさんになった時、私は、こういった日々の普通のアメリカの光景のことを非常に懐かしく恋しく思う時がくるのだろうと思います。砂糖とショートニングの味がする極彩色のカップケーキであったり、地元の無料の新聞についている、どうでもいいクロスワードを娘と一緒に解く日曜日の午後の日差しだったり、乾いた北風にゆれる無人のガソリンスタンドの、錆びた看板の空の雀の巣や、犬を車にのせて通り過ぎるアパラチアの山すその鄙びた家々であったり、私はキリスト教徒ではないけれど、祈るとしたら今なのだということを肌で感じて分かります。今日自分を構成する、ひとつひとつのものについて手繰り寄せ、丹念に確認し、感謝を捧げることが祈りの本質であるのだと。


2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳



 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。




 人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向がありますね。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。

 コディは生粋の肉食で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いないと思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。


思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます


 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。




 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。




 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだまだ雲の中ですが・・・。


2021年11月19日金曜日

褒めることの有効性


 どの飼育書、しつけ本にも必ず書かれていることがあります。犬がいいことをしたら「犬を褒める」ということです。でも常々疑問に思っていることがあって、「褒める事はいつも必ずしも有効なのか」ということです。そんなに単純な事ではないと感じています。これはいままでいろいろな犬にふれあったり、また以前飼っていたドーベルマンや、今飼っているシェパードに毎日かかわる中で出てきた問いです。

 この世には「褒められる事が有効な犬」というのと、そうでない犬がいるように思います。私の思う「褒められることが有効な犬」というのは、


①生まれつき褒められる事への感受性が豊かな犬

②後天的に褒められる事への感受性が豊かになっている犬


の2種類です(厳密に言えば、同じ犬でも状況によって感受性が増減しますが、、、たとえば家のキッチンと公園とでは褒めへのリアクションが違ったり、、、今回は「本質的に褒められることが有効かどうか」について考えたいと思います)。

 ①は、遺伝的背景などによって、ほとんど生まれつき褒められることが大好きなように見える犬です。子犬なのに声掛けすると短いしっぽをピロピロ振って、いくらでも人間の活動に付き合おうとするような犬です。特別人に対して親和性を育みやすい性質などの副産物なのかもしれません。私からするとそんな犬と暮らす事が出来ている人は大変ラッキーだと思うのですが、世の中の多くの犬はむしろ、飼い主との沢山の良い思い出を通して「褒められること=いいこと」と、頭の中でしっかりとヒモ付けられて、はじめて褒められることの意味を真に理解できるようになっていくように思います。これは②のパターンです。

 ②の犬は、しかし、「自分が褒められてる」「褒められることはうれしいことだ」とピンとくるまでに、かなり時間がかかることもあります。飼い主の側がそう思える状況を十分に作れていないなど、理由は多々考えられますが、生まれ持った性質としか思えない事もあります。私が以前飼っていたドーベルマンもそうで、「この犬は自分が褒められて心の底からよろこんでいる」と私が確信するまでに、じつに7年位かかりました。しつけ本に出てくるみたいな「素直に喜んでくれる犬」「褒められようとがんばる犬」になるまでに、じつに寿命の半分以上が経過してしまったのです。後から思えば、犬にとって私と言う存在がまだまだそこまで重要視されていなったからだと思います。ドーベルマンは強い犬なので、そんなどうでもいい存在の人間にほめられようが怒られようがシッタコッチャネ~、だったというわけです。

 犬のしつけを考えるとき、トレーナーさんの言う通りにやっているけどなかなかうまくいかないな、というペアの中には、こうしてほめるとかしかるとかいう以前に、犬と人の関係がまだきちんと構築できていないケースもけっこうあるのではないかと思いました。そういう時「褒める事」は報酬として全く意味を成さなくなります。




 考えてみればあたりまえなのですが、実際のところ自分に対してどんな価値があるのかはっきり分からないひとが、自分がやったことに対して突然キャーキャー言って喜んだって、それで天にも昇るような気分になったり、震えるほど感激するということはないわけです。周囲のドッグトレーニングの様子を見ていても、そんな状況になっている場面を時折見ます。飼い主はワオ!グッド!とすごく嬉しそうだけど犬自身は全く気にしてなかったり、気弱な犬とかだと、どうも自分が原因らしい飼い主の豹変(?)にビク!と挙動不審になっている場合すらあります。こうなると「褒め」は通過して犬にとってはドッキリの域です。個体によって適切なレベルの褒め方があると考えられます。

 また超個人的な見たてになりますが、これは叱る時も同じだと思います。もともと飼い主と強い絆で結ばれている犬は少々叱られたり小突かれたりした位では揺らぎません。でも、仮にそういう関係性抜きでいきなり叱ったりしたら「頭ごなしな学校の先生」とか「暴力的なオヤジ」みたいな感じになってしまい、犬は驚き、こわいから言う事を聞くようになるか、逆に猛反発して暴れん坊になるかもしれません。これは良い人&犬の関係を築く上で多くの人が目指したい所ではないと思います。

 先進社会では犬を叱ることについては非常に賛否両論あります。私はというと、自分の犬を厳しく叱ることがあります。コディも私に厳しく叱られたことが何回かあります。けれども、叱る時はふだんからその10倍、いや50倍は褒めるようにしています。ふだんからの関係性が良いことが大前提だと思います。また叱る事も褒める事も犬にわかる・伝わる形で行う事がとても大切です。


 「褒め」のもう一つの側面として、「犬をやたら興奮させてしまう」という効果もあるように思います。これは逆に褒められることの意味を既にとてもよく分かっている犬に起こりやすいように思います。たとえば今飼っている犬のコディは、特定の状況で遊びをしている時に「グッドボーイ」と言うと、真顔になり、耳が直立し、身体がこわばり、私を凝視する瞳がギラギラしてくることがあります。これはコディが褒められた喜びの絶頂にいる時の表情なんです(以前通っていたドッグランに、この状態のコディがどうしても怖くて冷汗がでて体が硬直してしまうという人がいました)。

 こうなると、コディの場合はその後何かをさせてもバーンと元気が爆発してしまい、乱雑で適当な動きになってしまいます。「グッドボーイ」があまりに刺激的すぎて、コディの心と体のコントロールを弱めてしまいます(考えようによっては、犬に爆発的な力を出させるようなタスクには向いてるのかも知れません)。このことから、場所や状況によっても、適切なレベルの「褒め」があるのではないかと思いました。

 いつもの如く長くなってきたので振り返りますが、犬を褒めることも(叱る事も)、まずは関係ができてから、犬に「この人にほめられたい」と思う人になることが、多分先決だということ。そして、個体・場所・状況によっても適切な褒め方があるんではないか~?、、、というところまでまとめて、おわりにします。

 今日の写真は2ヶ月前に発根していたエケベリアです。ゆっくりですが窓際でも成長を見せてくれています。これらは皆同じ親株から出たクローン体のはずですが、成長速度や体色にけっこうばらつきがあるのがおもしろいです。来春頃には人にゆずれる位の大きさになってるかも知れません。



2021年9月5日日曜日

犬の聴覚過敏とつきあう

Echeveria lola – "Mexican Hens and Chicks"

 

 近所の園芸店で買ってきたエケベリア。思うところあって掘り返してみたら、根っこがグズグズで茎の中央部まで根腐れが進んでいた。アメリカの「その辺の植木屋」で多肉を買うと結構よくある展開です。葉っぱをばらばらにしてひと月くらい、最近発根がはじまりましたよ(白いマルのところ)。上手く発芽までいってほしいです。こうして根っこが出ても、芽が出ないというヤツもいます。

 昨晩は犬のコディのクンクンという声と、階下をウロウロ歩き回る音で目が覚めました。時折大音響で雷が鳴っています。山の近くに引っ越してから「短時間で急発達するビックリするほど激しい雷雨」というのが、このあたりでよくありがちな天候イベントだと気付きました。

 コディが雷を不安がる様子をはっきりと見せたのは、実は昨日が初めてです。5歳を過ぎたころから音にやや敏感になってきている印象があって気にかけていましたが、不安感が強くなってきているようです。犬の聴覚過敏の類は、遺伝による先天的なものと、恐怖体験によってあとから身に着くものとに大別されるとされ、また近年では落雷前後に発生する静電気が不安感を増幅させるのではないかという説がいわれています。

 加えて、牧羊犬は聴覚過敏に陥る傾向が強いことが分かってきており、特にボーダーコリーとジャーマンシェパードで多く報告されています。コディの場合はおそらく犬種的なものと、中年を過ぎての2度の引っ越しや、すごい嵐が来る地方に来てしまった事で、音に対する嫌悪感が累積してきていると考えられます。田舎の家は、今まで5年間過ごした郊外の家とくらべて雑音が一切ありません。本当にめちゃくちゃに静かなのです。騒音が全くない環境なので、逆に雷の爆音とか、「へんな音」がより際立って感じられるのかもしれません。呼び鈴への反応も強くなったように思います。生活環境から生じたかもしれないこれらの不安感だとか警戒心は、不可抗力とはいえ、可愛そうに思います。

 犬に聴覚過敏の傾向がある場合、①特定の音に対して過敏性を減じる(ディセンシタイズ=脱感作)トレーニングを行う、②犬の精神の安定を助けるとされる道具や医薬品の助けを借りるという2つの対処法が一般的です。これに私はあと、➂日中に運動をたくさんするも付け加えたいと思います。人間でもそうですが、衣食住にも困らず、仕事も肉体労働もせず、日がな一日ブラブラしていたら、誰だって余計な事が気になりだすと思います。犬もきっと同じなのではないでしょうか。



 ということで、早速雷の音源を使ってトレーニングを開始しました。並行して、時間をきっちり測って運動する時間を増やしました。最近暑かったこともあって、散歩に出かける時間や長さはやや適当になってきていましたが、時間を計って有酸素運動の時間をたっぷりとり、その後に筋肉を使う運動をする時間もメニューを組んで入れるようにしました(この時間帯に、今練っている筋トレメニューをテストしています。いい感じになってきたら、そのうちノートに残したいです)。

 また、これはまだ試していませんが、クレートを防音仕様にするのはどうかとも思いつきました。家庭で使える防音ブランケット(参考)などが市販されていますが、これをクレートを囲むように、若しくは直接貼り付ける形で設置して、小さな防音室のようにする考えです。それで、ものすごい嵐が来る夜だけ、クレートで寝て貰えば多少はマシになるのではないかと思いました。ただ、コディは非常に暑がりなため、クレートの中の風通しが悪くなるとそれはそれでストレスを感じると思われます。なのでもう少し考えてみる必要がありそうです。

 あとは、以前、専門店でバイトをしていた店によく売れていた「サンダーシャツ」「サンダースプレー」も、購入しました。私はどちらかというとこういう民間療法ぽいものよりもすぐに薬に頼るほうなので効果には懐疑的でしたが、当時のお客さん達は効果があると言っていたので…、、、

 ところでこのシャツの購入には手こずりました。案の定、チャートの上では大丈夫そうだった「XL」が、胴回りがぜんぜん足りず、返品したり新しいのを取り寄せたり、ひと仕事でした。コディのように大きくかつ体格のいい犬の場合、使えるグッズがそもそも限られます。ほかの大型犬種、ボルゾイとかデンなどとも体形が全く異なるので、「超大型」と書いてあるグッズを買ったとしても、サイズがあわないという失敗が多いです。XLのシャツは、胸の所がパツパツで襟元から厚い胸毛が噴き出し、パリのゲイバーで見たおじさんみたいになっていました。コディの名誉のために写真は載せないことにします。


2021年9月1日水曜日

オオカミと犬、遊び、絆 雑考



 とても面白い話を耳にしました。オオカミと「取ってこい」:子オオカミのボール遊びが何を意味するか(Science)。スウェーデン・ストックホルム大学で研究用に集められた幼いオオカミの子供にボールを投げたところ、ごく少数ではあったものの、ボールを投げた人の所へ持ち帰る行動を見せた個体が初めて観察されました。この行動は全体の数からみると珍しい行動でありながら、他にも同様な行動を見せた個体が少数おり、オオカミの中に特性として受け継がれているのではないかという研究者の考えが述べられていました。これは太古の昔、犬がオオカミから分化した過程がどのようにはじまったかという話題について極めて一般的な「食べ物が介在して順化が起こった」とする論に一石を投じる発見だといいます。

 言い換えると、大昔オオカミが人の集落のまわりをウロウロするようになったのは、食べ物だけが目的なのではなかったかもしれない、遊びが介在して順化がはじまったということも考えられるかもしれない、ということになります。近年コンパニオンドッグ界隈でも「犬と人との遊び」の重要性が説かれるようになって久しいですが、そもそもイヌという種族自体が、ヒトとの遊び能力を基にして選抜が起こった可能性すら出てきたというわけです。

 最近コディにまだ熟れていないナシの実を投げていて思いついたのですが、、、人が何の気なしに投げた枝を同じ場所に戻しに来たり、崖下に転がり落ちて行った果物を拾ってきてくれたりするオオカミが、稀に存在したのかもしれません。オオカミもヒトもこれをおもしろいと思い、ヒトは感心して、これは何かの役に立つかもしれないと思ったかもしれません。おもしろい行動をするオオカミに積極的に餌やおやつをなげてやったりして、いつしかそういう「ヒトにとっておもしろいオオカミ」は集落のまわりで暮らしはじめ、おもしろいヤツ同士で結婚しさらにおもしろい子供が生まれ、そしていつしか村の中で、家の中で暮らすようになった。コディを見ながらそんなことを思うと、何かとても自然な気がしました。

 写真は小さい頃のコディ君です。コディは、食べ物をくれる人も好きでしたが、一番は棒や転がるもので遊んでくれる人になつきました。ゲーム全般と、かじるのがとにかく好きで、家をかじられないために一日の多くを外で過ごしました。大型犬、超大型犬は子犬のうちは運動制限を進められることが多いですが、自由運動に関しては何も制限せず毎日たっぷりとさせました。外の草原で私と共に遊びまくっている時が一番楽しそうに見えたのです。しかし、この犬は撫でられることはあまり好きではなかったので、褒め方にはコツがいりました。


2021年8月3日火曜日

「できないこと」の重要性



 しばらくブログを留守にしていた間、北バージニアの僻地はキイチゴの旬を迎えていました。いろいろな種類があるのです。夕方、暗くなってきた農道のわきに西日に照らされて光るキイチゴは宝石のような輝きを放ちます。その姿を記録したく何度も写真を撮りましたが、私の腕ではあまりうまく写せませんでした。表面につぶつぶがたくさんあるせいか、なかなかピントが合いません。

 面白かったのが、犬のコディがキイチゴが大好きだと分かった事です。コディは雑草は比較的ついばむものの、野菜やフルーツといったファンシーな食べ物は一切受け付けない男です。ところがこのキイチゴを投げたところ、パクっと空中でキャッチして、いくらでも食べることが分かりました。これらの果物には抗酸化成分があるというし、なによりキャッチする時の顔があまりに面白いので夕食後の散歩でキイチゴキャッチをするのが毎日のルーティンとなっていました。季節がすぎ、枯れた果穂を見た時は寂しかったですが、また来年のキイチゴに期待が膨らみました。

 本日は(これまで若干6年ほどのぺ~ぺ~ではありますが)ヒト幼児と大型イヌを一緒に育てる中で気が付いた犬や子供が「できなかったこと」「しなかったこと」の重要性について考えたいと思います。勉強やらしつけやらで、犬や子供に何かをやらせようと働きかけたが、できなかった、しなかった、ということはわりとよくあります。親や飼い主はついイライラしてしまうのですが、これらはとても大事なことで、そこで立ち止まって時間をとって考える価値のある事ではないか?と感じています。

 ホームスクーリングもどきを1年以上続けている娘(5歳10ヶ月)は数字に殆ど興味がありません。日系人の子女向けにオンラインのプレイグループをしていると、周囲には4歳くらいで九九まで出来る子とか、小学校に入る前に低学年の漢字をマスターしている子などがちらほらいるのでちょっと焦ってしまい、「娘、記号に弱いのではないか」とか「算数が苦手になるかも知れないので学校へ上がった時のために先取りして教えるべきか」などという気になることもあります。でも、算数は一旦置いておいてほかの科目をしていると、地図記号や、漢字の意味を考える事は、わりと好きだということがわかりました。

 地図記号はもちろん、漢字などは象形文字で、ある意味記号です。つまり、頭の中で実像と結ぶことができる記号や、物語性のある記号は好きなのです。この事から、娘は(他の大勢の子供達と同様に)より多くの学習内容を実像と結べるように、より多くの身体的経験を必要とするタイプだという事が分かります。これは今後10年以上娘という子供の性質と向き合う上で意味のある発見です。

 ここでフト気付いたのが、「自分の娘が数字に興味が無い」ということに気付いた時点で、そのことで頭がいっぱいになり、その苦手を「消す」ためにがむしゃらに反復練習などを日々繰り返していたとしたら、おそらくこの発見はなかったと思われることです。または、ずっと後になってから、もしかすると練習のしすぎで漢字や算数などが嫌いになってから、その事実にたどり着いていた可能性もあります。


ボールを返せという指示があるまで、返すことを「しない」犬。犬自身の考えがあるようだ。


 もうひとつの例はコディです。犬のしつけや訓練をしている人なら皆「犬になにかをするよう促したが、犬がそうしなかった」という経験を持っていると思います。私の犬コディも、家の裏庭で遊んでいる時に、たまに「オイデ」を無視することがあります(!)。

 コディにとっての「オイデ」はもともと非常に効力のある言葉で、ドッグパークの雑踏やパーティーの人混みの中や雑木林などでも、すぐに戻ってきます。たとえどこかに向けて走って居ても、呼ばれたらその場できついUターンを描いて戻ってくることも多いです(シェパードを飼ってる方ならどういう様子かすぐ想像出来ると思います)。

 ところがこの裏庭に居る時、時折「オイデ」を2回言われないと戻ってこない事があります。そういうときは、1回目の「オイデ」では、遠くで立って私の事を見ているのです。意図的にオイデを無視しているのです。それで、興味を持っていろんなところやいろんな時間帯に呼んだりして調べたところ、特に日暮れ前の時刻に、東側の庭(公道と雑木林に挟まれたスペースです)の中にいる時、「オイデ」が2回要る傾向があると分かりました。

 しばらく今の場所に住んでみて気付いたのですが、この東側のスペースの外の雑木林は、野生動物の通り道になっていて、シカや小さな生き物が頻繁に通過しています。日暮れ前の1時間、この動物の往来?が最も盛んになるのです。またあとで知ったのですが、公道をはさんだ向かい側(といっても200m以上離れていますが)に大きなマスチフがいる家があって、その犬の事も警戒しているようでした。

 コディは基本的に言われたことは守る性格ですが、シェパード的な敷地を守る気持ちや、イザとなったら自分で考えて決めようとする気質が強く残っています。その性質をどうしようもなくかき立てるのがこうした害獣の存在であり、この「夕暮れ時の東側の庭」だったということです。私の犬は脅威を身近に感じた時、自分のビジネス(危険管理)を優先する奴だということがわかります。こうして「オイデができないことがある」事の原因を探る過程で、愛犬の性格について、また少し理解を深めることができました(理解はしましたが行動として良くはないので追加トレーニングをしました。『オイデ』は絶対です)。

 犬にもヒトの子供にも言えると思いますが、何かをやらせてみて、「とくいだった」「好きだった」ということから分かることと同等か、時にそれ以上のことが、この「できなかった」「しなかった」ことの分析から分かると思います。だから、やらなかったことの原因を真剣に考えることなく、子供を強制的な練習メニューに放り込んだり、犬にはEカラーをつけるなどして、好ましくない行動をさっと消去しようとすることは、心情的にはとてもよく理解できますが、相手を知るための非常に重要なチャンスをも消去していると言えます。

 別の話でもすこし触れましたが何かを飼い育てる、教えるということは、結局は相手を知ることがほぼ全てなのではないかと考えます。ナンデこれが出来ないのかとか、ナンデしないのかとか、そういうことを探ったりする中で、少しずつ状況が改善したりすることもあるし、ふいに相手から感謝されたりすることもあります。藻掻きながら、親と子だったり飼い犬と飼い主という「オリジナルの関係性」の構築を目指していくことが、結果的に良いことなのではないかと思いました。



2021年4月12日月曜日

相容れぬものたちー犬と子供

トウモロコシ畑の前で

 このブログにもごくたまに登場してきた「ちいさいにんげん」こと娘は、現在5歳6ヵ月です。この頃は心身ともにずいぶん成長してきました。そのせいかは分かりませんが、ひと月ほど前でしょうか、初めて犬が自分から娘を遊びに誘う素振りをみせました。『シャイロ・シェパ―ドは子守り好きな犬種』と言われる中、コディは徹頭徹尾、「何かを一緒にしてくれる人」にしか興味のない奴で、娘が寄ってきてもいかにも迷惑そうに避けたり、または完全に無視&抱きしめられるのなんて本当にもっての外(グーッと言って逃げる)、という態度だったので、突然の変化におどろきました。

 変化のきっかけは、ある日庭で子供が「犬的にすごくいいかんじの棒切れを拾って」初めて「犬に向かって上手いぐあいに投げた」瞬間でした。犬がこの人間は実は、何かを一緒にしてくれる人なのでは???と、あからさまにピーン💡と閃いた表情をしていたので笑いました。それからは庭で用もなく2匹でチョロチョロする姿が見られるようになったりして、互いに利害の一致をベースとした、何らかの関係が芽生えた様子が見て取れました。とはいえ犬の方は娘の事を完ぺきに信頼しているわけではなくて、まだまだ気安く触られたりするのは本意ではないようです。必要以上に近寄ったりじゃれたりといったことは、ありません。


狭いアパート時代も折り重なりながら成長してきた


 彼らの様子を見ていると、「犬と子供」の関係性は、世の中においてわりと誤った印象を持たれているもののひとつではないかと思います。一見すごくかわいく、ほほえましいですが、実際は犬側の多大な譲歩やガマンによって成り立っている場合も多いように思います。

 時々、小さな子供達を対象に「犬とどう関わるか」というミニワークショップを、実地やオンラインでやっています。特に実地だと、コディくらいの大きさのシェパード犬に触れる機会は殆どないので、子供達は皆大ハシャギです。その一方で、小さな子供と犬との正しい関わり合いは(自制心が未熟であったりして)困難な場合も多い事、子供のみならず両親・おじいちゃんおばあちゃんなどの家族も、犬との安全な関わり方をあまりきちんとは考えたことがない場合も、多いことに気付かされます。

 アメリカの数字ではありますが、犬の咬傷事故の犠牲者の68.0%は、5歳以下の子供です。その中では3歳児が被害に遭う率が最も高く、全体の15%を占めています。また犬にかまれるというと狂暴な野良犬などを想像しやすいですが、実はほとんどの子供は面識のある犬(自分の家の犬だったり、親戚や友達の家の犬など)に噛まれています(NIH調べ。米国で飼われている犬の全体数を考慮すれば、実際に噛まれ病院へ行くほどのケガをする率はそう高くはないとはいえ、世間では、「犬と子供」というかわいいコンビを推進するのと同時に、犬は本来、小さな子供にとってはけっこう危険な動物だということ、また子供は犬との安全なかかわり方を学び、実行できるようになるまでに、思ったよりも長い期間を要するという事実も、広く知られて欲しいと感じます。


2021年3月24日水曜日

犬はシェルターから迎える事が最善である。という風潮について。

  

 今日は、「シェルターと犬」といういろんな考えのある話題について書こうと思うので、読んだら意見の違いを感じる人も多くいると思います。今日のテーマは、ここアメリカにおいてですが「犬はシェルターでもらうことが『是』であり『最善』である」という社会の風潮が、近ごろ強まりすぎているような気がしているという点についてです。このことは自分の中で以前、ブリーダーから犬を迎えるということを否定された出来事から尾を引いていて、今日はそのことについて身近な出来事も取り上げながら考えてみたいと思いました。

 本題に入る前に間違えのないように強調しますが、シェルターから来て素晴らしいコンパニオン・ドッグになっている犬は星の数ほど存在し、そういうすばらしい可能性を秘めた大勢の犬達が毎年、大勢、処分されているということは改善されるべき問題です。




 本題です。

 慈善の精神が重んじられる国・アメリカに住んでいると、愛犬家なら当然犬はシェルターから!というプレッシャーを感じることがあります。SNSでは犬好きの友達の多くが「犬をアダプトしよう!」というポストやビデオクリップなどを毎日のように気軽にシェアしてくるし、TVニュースのチャンネルによっては、ヒューマンソサエティ系のコマーシャルが繰り返しよく出てきます(寂しい檻の中で可愛そうな目をした子犬と共に、悲しい音楽の流れるコマーシャルです)。

 フェイスブックの地域のグループでは「○○という犬種の子犬を飼いたい。誰かいいブリーダーを知りませんか。」といった質問に「質問の答えにはなってないのはわかっているけどあなたの犬はシェルターで引き取るべきです。」「A D O P T!」と書き込む人らが大勢表れて、その剣幕に驚かされたこともあります。上に書いた通り、道で出会った見知らぬ人との犬トークでも「ブリーダーなんか要らないのよ!」と熱心に持論を展開されたこともあります。

 ペット量販店では、レジで「恵まれない犬や猫に募金をしますか?」と聞かれる・又はそういった質問が支払いのパネルに表示されることはわりと普通で、「しません。」を選択する事は当然の権利ながら、なんとなく自分が弱い者を助けない身勝手なやつになったような気になる事もあります。


大好きなベーグルチェーン「ティム・ホートンズ」(やすい)
 

 時には「イヌネコはシェルターから」を熱心に推し進めるあまり変なことになっている構図も見られます。ちょっと前の例になりますがたとえば、ロードアイランド州でペットショップで陳列(販売)される犬や猫はシェルターやレスキューから来た生体に限る、という法案が議会を通過して、一部犬好き界隈で話題になっていました。

 そもそも環境が劣悪な場合があり問題視されている生体販売店に、家や家族をなくして、心身の不安定な状態の犬猫を連れてくるのでは愛護の観点からも本末転倒に思えますが・・・そもそもこのような法案が出来る気運があり、大真面目に検討されたということや、これを「いいアイデアだ」と思う人がまとまった数いたのだという事実にかなり驚いたのを覚えています。




 犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれない「パピーミル」や、無計画な「バックヤード・ブリーディング」の存在は潜在的に危険なものです。また無責任に捨てられた動物を一時保護観察する場所として、シェルターがあることは言うまでもなく重要です。そのようなシェルターからいきものを引き取り大切に飼い育てることも、良い行いと言えるでしょう。

 けれども、この「倫理的よい行い」を追求する過程で『純血種の犬や、それをふやすブリーダーという職業自体もすべて悪である』『みんな、ブリーダーの犬を飼わずにシェルターの犬を飼うべきである』『ブリーダーから犬を買う者は、みんな、無知で愚かである』と、極論に走る人がわりと結構いるな、という点には、注意が必要だと思いました。

 犬について真面目に考えたことのある人なら、それは問題を単純化しすぎているとすぐに気付くと思います。しかし残念ながらここアメリカでは若い人などを中心に、上記のような主張を持った人に何度も出会ったことがあります。冒頭に書いたフェイスブックのご近所グループで「純血種の犬が欲しい」と言った人を感情的になじっていた大勢の人々も、この類に入るでしょう。




 そもそも、「シェルターで犬をもらう」という行いの善性について語る前に、「シェルターで犬を貰うことは万人にとって適した行いか」という別の疑問についても、もっと世間で議論されるべきではないのかな。


 ペット用の道具屋さんでバイトをしていた頃、まわりにはシェルターで獣医看護師として長く働いたり、ボランティア10年選手など、さまざまな経歴の人がいました。そんな中で経験豊かな人ほど、シェルターの犬をもらうことに対して慎重だったことが印象に残っています。

 長年シェルターにいる様々な犬を観察し、時には自宅に引き取って寿命を全うさせる経験を誰もが持っている彼らは、誰にでも気軽にシェルターの犬を勧めるようなことは絶対にありませんでした。シェルターに居る犬について本当に色々な事例に触れ、時にはずっと後になってから予期せぬ健康上・行動上の問題が浮上するケースを経験していれば、気軽に進めるなんてことはほとんど無責任といっていい、と考えていました。

 10年に満たないような私の北米生活歴の中にも、思い返せば「シェルターから犬を貰ってきたら、家の敷地内では可愛かったのに、ある日散歩中に豹変して、近所の老犬に襲い掛かって酷く噛んでしまった」というようなことがありました(←これは実際私と仲が良かった同僚に起こったことで、残念ながら老犬は死んでしまったのです)。またある日、うちのおとなりさんの大人しいメス犬が可哀想に顔を腫らしていて、わけを聞いたら「知り合いのシェルターからの預かり犬に挨拶させようと思ったら、いきなり噛まれた」といったこともありました。恥ずかしながら、私自身が仕事中にシェルター出身の犬に噛まれかけた経験も何度かあります。

 前の家に住んでいたときも、隣の団地の犬で、非常に良く吠えるので「s h a t  u p---!」と毎日プロングで引きずられ、大声で叱咤されながら散歩しているハウンド系の犬がいました。子犬のうちに迎えたものの、育ったら猛烈に車を追い道行く犬に凶暴性を見せるようになり、早速、電気カラーで四六時中ビシビシ電流を流されながら散歩しているボーダーコリーミックスの若イヌがいました。どちらもシェルターや里親イベントでもらわれてきた犬たちでした。

 上の2頭についてオーナーと立ち話したことがあります。2頭ともとても利口で可愛い犬達だし、オーナーの人達もごくごく普通のアメリカ人で、本当に普通にいい犬、いい人々なのです。ただ、住環境があきらかに犬に合っておらず、また飼い主達も犬の犬種的なニーズであるとか、どのくらいのトレーニングが必要であるとか、そういう事にとりたてて強い関心をよせるタイプではなかったところに悲しいほどのミスマッチがあり、なんというか、全員が不幸になっていました。

 メディアやSNSでは里親の家で幸せに暮らしている犬が繰り返し脚光を浴びるなか、現実の世界ではこうしてだれにも取り沙汰にされない「うまくいかなかった例」が沢山あるのだと思います。このような飼い主たちは、将来的な性格や行動がある程度予想できる「きちんと殖やされた純血種の犬」を飼っていたら、犬にとっても人にとっても、あるいはまったく違った結果があったのではないか?と思う時があります。




 以前シェパードをアダプトすることの内容と重なるのですが、「シェルターの犬をもらう」という行為の問題点は、きちんと犬の健康や行動を把握できる、犬の心の動きをこまかく観察して、リスク回避やマネンジメントが出来る「アドバンスド飼い主」向けの犬がいたとしても、量販店などの里親イベントであったりシェルターであったり、カジュアルな感じで、「あなたは良い事をしている」という高揚感つきで、安価なペットとして犬を飼えてしまうところにあります。

 だから「犬はシェルターから迎える事が是であり、最善である。」という風潮がいつしか勝手に現代の倫理規範のなかに書き加えられ、この「新倫理」が、

 ・好きな犬を飼う。その為にブリーダーへ行く
 ・自分と家族の生活に適した犬を真剣に選ぶ

という個人の自由を阻害する様子が見られることは非常にあぶないことなのではないかと思います。「個々の人は犬に割けるリソースが全く異なる」「個々の人は、犬を迎え入れる家庭や生活環境に大幅な差異がある」などという、いっときの善行よりもはるかに大切な事がらが、犬を生涯にわたって大切に飼う上で本来最も重要視しなければいけない観点がそこからは完全に抜け落ちています。




 大切なのは、出自がどんな犬であっても、毎日自分の犬を大切に世話をして最後まで飼いきることであり、また誰がどんな出自の犬を飼っていても、そこに至った他者の考えや行動、「選択の自由」を尊重する事ではないのかな。

 こういう考えはもしかしたら世の中の多くの愛犬家とは逆行する考え方なのかもしれません。しかし、より多くの人が「シェルターにいる、かわいそうな犬達をたすける」という、感情に根差した視点を大切にしながらも、そこから一歩を踏み出して考える必要があることなんじゃないかと感じます。


 今日の写真は5年前に散策したなつかしい夏のトロントから。ほんの数日だけの滞在でしたが、すぐに好きになってしまう魅力にあふれた街でした。犬もたくさんいてシティライフを謳歌してるように見えました。いいなあ!現実逃避はこのへんにして、今日の無駄話をおわりたいと思います。


2020年3月6日金曜日

魂の伴侶


 成犬になる一歩手前頃のコディの写真が出てきました。

 ドッグランの顔見知りや、セラピーの活動を通して私達が今まで関わってきた人々の中には「あなたとあなたの犬は特別なペアだ」と言ってくれた人がちらほらいました。アメリカ人はすぐなんでも褒めてくれるから、社交辞令のひとつとしてそう言ってくれてただけなのかもしれません。けれど大事に一生懸命世話をしてる犬との絆についてそのように言ってもらえるのは、飼い主冥利につきるなと思っていました。

 信頼関係で結ばれた愛犬のいるひとなら、皆自分の犬が肉体的には分かたれていても、精神的にはどこかひとつづきの存在だというのは、感じたことがあると思います。言い方を変えれば犬とは、飼い主の魂の遠い一部が四本足とヒトへの純粋な愛と共に毛皮に包まれて、うごきまわっている事に似ていると思います。

 飼い主の魂の具体的にどの部分をその犬が反映しているのか?と思うと、これは個別に異なり、おもしろいところです。ただ飼い主の「こうでありたい」姿の一部を犬が補完しているケースは、普遍的によく見かけるように思います。私の知る例で言えば、以前アルバイトしていた物販店にいたアメリカ人の知人が思い当たります。きらきらのブロンドのこの女性は小さな小さな、真っ黒なマイクロミニ・プードルを飼っていました。ほとんど週ごとかなと思うほどひっきりなしにトリマーを呼んで、自分の犬に色んな可愛らしいヘアカットを施して、シミひとつないきれいな小犬用の服を着せ、自分のスポーツブラの中に大切にしまって散歩をし(ほんとに小さな犬だったのです!)手を変え品を変え、選りすぐりの餌やおやつを与えて慈しんでいました。

 彼女はゲットーで生まれた人でした。違法薬物の売人や売春婦が歩き回る地区の、お母さんしかいない家庭で、定期的に知らない男性が急に『父親』になるという幼少期だったといいます。生活は非常に貧しく、なんとか高校を卒業して、すぐに小売店のマネージャーとして一生懸命打ち込み、それから地区を統括する存在へ、その先へと身を立てがんばってきた人です。彼女が犬を可愛がる様子を見るたび、知らず知らずのうちに彼女は犬の中に介在する自分自身をも癒そうとしているように私は思っていました。こういった場合犬に対する愛は、自己愛の投影みたいなものかなと思っていました。

 その考えでいくと、私は犬にいろいろ物を教えたりさせたりするのが好きだから、知らず知らずのうちに「有用・有意義でありたい」と思う心がどこかにあるのかも知れないな。私は自然の生命体である生き物はみな、本質的に何の意味もなく、ただ生まれ、生きて、死ぬだけと考えます。なんだけど、いやそれだけじゃないはずだ、と強く思いたい感情があり、私の生には何か意味があるはず。その意味を全うしたい。という気持ちにつながっています。その証明として、何か個人の力が外部にむかっておよぼされる様を目撃したい、という欲求があるのでしょう。

 犬を林や森に連れて行ってひもを外し、犬が興味の赴くままに走り回るのを見るのが大好きなのです。犬がそうして人間には不可能なスピードで木々の間を走り抜けて行ったり、到達できないような場所に立っていたりすると、自分の中の何かが犬に憑依して、躍動しているような純粋な喜びや、ある種の能力の証明のような感覚をもちます。自分にとってのコディとはだから、こうして時々私を人間の肉体と言う殻から出して風と森の変幻する光の中へと調和させてくれる「よすが」といえる存在です。

2019年7月10日水曜日

ボストンへ行ってきました(再び)

クインシー・ベイに浮かぶ小島から臨む、ボストン市街のながめ。


 北米の夏の休日、ジュライ・フォース(独立記念日)の週は、マサチューセッツ州ボストンの友人宅に寄せてもらっていました。トランク大小3つ、友達一家へのお土産の大きなダッフルバッグ、成人2名、3歳児1、犬1+犬のお皿やブラシなどなどを詰め込んだパンパンのマイカーに乗って、I-95 NからNJ Tpke、コネチカットの歴史街道へ…と、約10時間かけて北上しました(どこかで読んだ書き出し)。




 独立記念日は、家族や友達と食事などをして、夜になったら花火を見に行く、というのが典型的なアメリカ国民の過ごし方です。私達も例に漏れず庭でグリルなどをして過ごしました。滞在先は古民家が集まっているエリアで、昔ながらの近所づきあいが根付いていました。食べ物を並べているとどこからともなく近所の人があつまってきて、勝手に話に花を咲かせていました。


なんか興奮しておもしろい事になっていた


 ヒトある所にイヌあり、近所の御宅の犬達とコディも一緒に遊ばせてもらうことが出来ました。この庭を出てすぐのところにドライブウェイがありときおり車も通るのですが、地域の犬達はみんな勝手知ったるといった感じで、飼い主達も気にも留めない様子でした。ふだんの生活の中で他の家の犬が勝手に庭に入ってきたりすることは結構よくあるみたいです。アメリカの昔の犬の暮らしぶりに近いと感じました。

 それから今回初めて夏のボストンに滞在して、一般家庭に冷房がないことを初めて知ったんですね。自他共に認めるすごい暑がりである自分は死んでしまうのではないかと、道中心配していましたが、築112年の(アメリカ的には)古い家の中は日中は意外なほど涼しく、湿度の低い風が一日中吹いていてさわやかでした………、というのは今年がラッキーだっただけで、去年はマサチューセッツも猛暑で大変だったそうです。
 



 数軒先に、昔偉い軍人だったお爺さんが住んでいました。第二次世界大戦を戦った人です。かなり年をとっていて、自宅でターミナルケアを受けられている様子でした。ある日の夕方、彼の為だけにパレードが執り行われました。非常に名誉な事だそうです。自分も結構長くアメリカに住んでいますが、こういう事は見たことがありませんでした。窓辺から重そうに腕を持ちあげて敬礼に応えるお爺さんの姿が見えました。

 戦争では、間接的に、いやもしかしたら直接的に、多くの日本人の命を奪った人なのかもしれません。今目の前で死にゆくその人を見て、複雑な思いでした。個人のレベルでは、怒りや憎しみなど、何も感じる事がないからです。今までの人生の中に散りばめられた「戦争への間接的記憶の断片」を急に意識して、戦争への思いがふくらみました。自分の娘と、その友達は、バグパイプの音に合わせて楽しそうに踊っていました。その仲良しの娘達にだってそれぞれ、ユダヤ人とドイツ人の血が流れています。




 パレードの時もまた勝手にどこかの家の犬が、ヒモもつけずにフラフラ挨拶しに来ていました。花火といいバグパイプといい、結構な爆音で鳴らしていたけれど、全く物怖じせずみんな自由に歩き回っていた(笑)。豊かな社会性を持った犬達でした。私がかねてから礼賛している「村のいぬ」の像に、また少しピントがあったようで、非常にインスパイアされました。


やや疲れ気味

 今回は庭や近所をうろつく事がメインだったコディ。暑さと、朝から晩まで子供だらけで、あまりよく眠れなかったみたいです。この犬は旅行はいつもこんな感じですね。夜は冷房のある友人夫妻のメインのベッドルームに入れて貰ったりして、すごい特別待遇を受けていたのに(うちのが来ると毛まみれになるラグに文句を言うどころか、こんな事してくれる友人夫妻に感謝)。バージニアの家はずっと狭くて暗い家ですが、静かだし涼しいのでやはり落ち着くようで、帰ってからは3日位ずっとゴロゴロ&寝ぼけまなこで過ごしていました。

2019年3月7日木曜日

ドッグラン名人になる


 犬オタクの間ではわりと否定されがちなドッグランですが、「自分の犬が気軽にランに行けるタイプだ」ということは、特に都市型の生活をしているドッグオーナーにとっては大きな安心材料です。私も、最初の愛犬との東京生活を思い出すと、ちょっと家を出ても自然のトレイルなどはあるわけもなく、散歩もリードをくるくるまとめた状態で延々とコンクリートの歩道を歩くというスタイルになりがちでした。自転車での引き運動以外で走れる場所などもなかったので、そこそこ活発なドーベルマンの運動意欲を満たすためには、当時住んでいたマンションの屋上や夜更けの工事現場で遊ばせたりして(←良い子はマネしないでね)だましだましやっていました。

 そのような生活スタイルの中にあると特に、ドッグランは犬にとっては自由に走り回れる貴重な場と言えます。ほかにも例えば、長いドライブの道すがらランに寄って軽く体を動かさせて…、とか、空いてる時刻をねらって子犬の社会化に役立てたり…など、場面に応じて様々な使い方が出来ます。飼い主にとってもほかの飼い主と情報交換が出来たり、友達が出来たりと、地域の社交場としての機能もかなり高いですよね。ランは、その是非はともかく、愛犬家生活上のオプションとしてすごく便利だということは確かだと思います。

 私は現在の犬を迎えてからはじめの3年半、散歩の一環として雨の日も風の日も雪の日も毎日1~2回ランに通いました。また自分の犬が来る前も、ひとりでランに通って柵の外から犬の動きを見るという変態的な時期を過ごしていたこともあります。こうしてここ数年でこの「ドッグラン」という場所にまつわる悲喜こもごもをある程度知り尽くした気がするので、ここで改めて「どうやったら上手に楽しくドッグランとつきあっていけるのか」というところについて考えてみたいと思いました。


1-犬の遊びについて詳しくなっておくこと

 まず重要な前提として、犬の遊びをよくわかっておく必要があります。私個人の感想ですが、ランでのいざこざのほとんどが、飼い主が「犬の遊び」をよく理解していないことに端を発しています。これについては言葉で説明するよりも下の2本の動画を見るほうが分かりやすいかもしれません。この動画のポイントは、犬同士の「MARS」が確認できれば、たとえば激しく噛みあうマネ、戦うマネ、追いかけっこ、押さえつけ、マウンティング、唸ることや吠えることが介在したとしてもそれは良い遊びである、というところです。「MARS」の簡単な説明は動画の下に続けます。




 MARSとは、メタシグナルアクティビティ・シフトロール・リバーサルセルフハンディキャッピングの頭文字を合わせた標語です。メタシグナルとは犬が「これは遊びだよ」と相手に伝えるためのサインで、無駄にぴょんぴょんした動きや派手な表情、プレイバウなどがそれにあたります。アクティビティ・シフトは、遊びの途中でゲームが変わる事です。たとえば追いかけっこからレスリングにシフトしたり、ひとつの遊びに固定しないということですね。ロール・リバーサルはそのまま、役割の交代です。でも自分で見た限りではいつも同じ役回りをすることを好む犬も多いので、これは犬にもよる気がします。セルフハンディキャッピングは、強い方の犬がわざと力を出さないで、相手のレベルに合わせることです。次に、二本目の動画を見てみましょう。




 この動画では、犬同士の遊びが白熱してきてちゃんとうまく遊べているのか不安になってきた時に、一度犬を離し→再び同じ遊び相手の所に戻るか見る、という簡単なテストについて取り上げています。このあたりはみんな自然とやっていることなので、わざわざ教わる事でもないよと思われるかもしれないのですが、これが大型のオスの成犬同士でガンガン遊んでいる所などに出くわすと、たとえ知識があったとしても、本能的に不安を覚えるんですよね。うちの犬ものんびりした性格の割にかなり激しく唸り声をあげながら遊ぶので、あとでそれをFBに投稿した知り合いのところに「なぜ自分の犬がアタック(原文ママ)されているのに止めないのか?」「危険なシェパードをランから追い出せ」というメッセージが来たことがあります。

 「私の犬は怖がりで、まずこうやって遊ぶまでに至らないんだけど」という人もいるかと思います。子犬や若い犬でランへの心の準備が出来ていなかったり、生来繊細な性格の犬なのかもしれません。まずは自分の友達で、とても優しい犬を飼っている人に頼むなどし、落ち着いた小グループでの遊びを続けて自信をつけさせてあげることが大事かと思います。それから改めてランにチャレンジするか、もしくは「ランは荒っぽすぎてうちの犬には向かない」と、はっきり判断を下すことも大事なことだと思いました。


2-「飼い主の倫理観を尊重して愛犬の行動をシェイプする

 過度のマウンティング、トリーツを持っている人を付け回す、遊んでいるほかの犬の集まりについてまわり大きな声で吠え続ける、弱い犬のボールなどのおもちゃを奪う、嫌がる弱い犬を執拗に追いかけて地面に押さえつける、などの行動は犬の世界ではわりとふつうだと思うのですが、人間の目から見ると「いじめ」や、下品に見えたりと、倫理的に誤った行動ととられます(「犬の世界ではふつう」と言う理由は、これらの行動をしていて、その後ケンカになったというところを殆ど見たことがないためです)。

 また犬の世界には俗にいう「みそっかす」みたいのも存在している気がして、いじめられやすい犬はみんなに小突かれ続け、泣きながらキャンキャン逃げ回り、またそれを面白がった他の犬にタックルされて転ばされるというのも、わりとよくある光景です。でも、自分の犬がそういう目にあって平気でいられる飼い主はいないと思います。人間の倫理感が、瞬時に「弱いものいじめはだめ」と考えるからです。

 これらを踏まえて、上述したような行動、特にいじめっ子になりがちな犬の飼い主は、犬の自然な行動がどうのとか細かいことを言わずに、「社会生活を営む上でしてはだめな行動」と割り切ってトレーニングを行うことが大切だと思いました。もちろんこうして、犬の自然なふるまいを阻害してまで遊ばせる必要はないと思う人もいると思います。そう思った場合は、行かない選択をすればよいだけです。ドッグランとは、究極的には飼い主のための場所であり、そこに来る人間同士の関係を円満に保つことが大事だと言えます。そのためにはマナーが重要です。

 かくいう私の犬も、若犬の頃から時々この「弱い犬をダッシュで追いかけて地面に押さえつけたい」という強い欲求を見せる事があり、基本、ランでは絶対に目を離さないでいました。「追いかけたい」という意思が宿ると眼付きが変わるので、いつもそのアイデアが浮かぶ0.5秒前、というところで呼び戻すことで工夫していました。マウンティングについても、「やめなさい」と言えば、どんな遠くにいても即座に中止するように教えました。これはたまたまうちの犬がリコールや遠くからのコマンドでも反応する犬だったので出来たことですが、それでも潜在的に他の犬や飼い主の脅威になりえると思っていました。出来るだけそういう行動をしないようにトレーニングを頑張ること、もしそれでもだめだと判断したらいさぎいよくランから退く、ランじゃない別の遊びを開拓するというその見切りも、大変重要なポイントではないかと思います。


3-他の飼い主に寛容になる。積極的にコミュニケーションをとる。

 これはヒトの子育てをやってみてあらためて分かった点でもあるのですが、ヒトの育て方も、イヌの育て方も、100人いたら本当に100通りのやりかたがあります。中には、「貴殿のやり方だけはムシズが走って居ても立ってもいられぬ」と思うような飼い主に遭遇することもあるでしょう。私だって、ふだんはわりと温厚なほうですが、件のピットブルの飼い主に関してはいまだに根に持っているし。

 そういえばコディが若犬の頃、ラン内のベンチに座って本を読んでいたお姉さんの膝に泥のついた足を置いて伸び上がろうとして、その人の本で頭をバシッと叩かれたことがあります。ふと、「私は絶対犬を叩かないでしつけるぞ!」という信条を持った人なら、怒ったかもしれないなと思いました。ランという場所は「しつけ」に関して自分とは違うメソッドを持った人、違うメソッドで育てられた犬と出会うことが日常茶飯事なので、そういうのも含めて「広義の社会化である」と容認できる人に適していると思います。ドッグトレーニングを真剣にやっている人がドッグランに否定的なのは、このような見ず知らずの犬や人からの影響が看過できないレベルというのも、大きいのではないかと思います。

 またここは私が多くの人と意見が違うと感じる点でもあるのですが、ランは公共の場所なので、トレーニングトリーツやオモチャを持ってくることも本来自由であるべきだと思います。よく「みんなで遊ぶ場所におやつを持ってくるなんて」とか、「オモチャはケンカのもと」と言って、上述したような物品を持ち込む人を敵視するドッグオーナーがいますが、まずは自分の犬に「おやつを持ってる人を付け回さない」「おもちゃをドロップ、leave itする」というマナーを徹底的に教えるべきところではないでしょうか。

 当然のことですが、そもそも持ってこないということが一番賢いに決まっています。しかし、そういうオーナーにはそれでも持ち込むための、なにか理由があるのだと思うし、公共の場なのだから、それは自由であるべきです。するとランにホカホカのマクドナルドを持ち込んだうえ、よってきた犬達に怒る人(信じがたいですが実際に遭遇した)なども登場するわけなのですが、こういった事を人のせいにして熱くなるか、冷静になって「愛犬のトレーニングのチャンスだ」と考えるかで、長い目で見ると結果も変わってくると思います。

 また変な飼い主を見つけたら、木の陰でヒソヒソしているだけではなく、出来る範囲で本人にうまく説明して分かってもらう努力をするのも大事だと思います。ランの環境がトータルで良くなることが、結局は自分の犬のためになるのです。私はまずその努力をしてみて、それでも改善しない場合は、たとえ友達がいても、まだ何もトラブルが起こっていなかったとしても、その日のランは終了、としていました。与えられた状況下でありえる危険の可能性についてすぐ察知出来て、回避策を打てる、というのは愛犬との暮らしの中でいつも最重要な「リーダースキル」といっても過言ではないと思います。




 ところで、幸運にもドッグラン漬けといっていい幼少期を過ごしたコディですが、3歳半を過ぎたころからランへ行っても殆どほかの犬と遊ばなくなりました。コディも人間なら30代、パーティーだ飲み会だと友達と騒ぐモードを卒業して、自分がほんとにしたいこと(=私と何らかの共同作業すること)にフォーカスする時期に入ったのかも知れません。面白いのが、この「犬と遊ばなくなった時期」と「外ですれ違う犬に警戒するようになった時期」が殆どシンクロしていたという点です。3歳半から4歳の間のどこかの時点で、コディは大人の犬になった、と解釈しました。

 ②の2段落目で書いたことも、自分たちがランへ行く機会を減らしてきた大きな理由のひとつです。記述の行動は実はシェパードという犬種の中ではけっこうよく見られるもので、狩猟本能から来る動きですが、他の犬や飼い主にとってはハッキリ言ってはなはだ迷惑でしょう。このあたりのバランスも考慮しながら、「自分の愛犬かわいさ」の世界から一歩踏み出し、「自分たちはランの秩序にとってマイナス因子になっていないか」という疑問をいつも持つことの重要性を、自分の犬からも教えてもらった気がします。



2019年2月8日金曜日

ドライブとエナジー



 セラピーのリクエストが来ていました。行き先はホスピスでした。よく考えた上、今回は見送ることにしました。今のコディはエネルギーがありすぎるように思うので、訪問中いつ・なんどきでも200%信頼がおける、というレベルに犬が達するまで、終末医療関連の施設は訪問しないでしょう。患者さんたちが本当に貴重な時間を生きている場所です。どのような形であれ、犬がその時間の質を落とすような事は万にひとつ、いや億にひとつでもあってはいけないからです。

 ホスピスへ行くにあたって、犬たちはおよそ三週間にわたる追加トレーニングを受けます。このほかにも、目的に応じて訓練を受けねばならないシチュエーションはいくつかあります。機会は多くない(無いほうが良い)ですが、銃の乱射や自然災害の後に活動に行くユニットなども、ハンドラーの勉強と訓練ならびに、犬のストレス耐性の選考テストを更に受けます。以前ドッグランで出会った介助犬のハンドラーの方が言った、「犬は、テストに受かってからが本番よ。」という言葉を思い出します。ひとつの課題をクリアしても、またより複雑な課題が現れて、常に勉強が続きます。


 話は変わりますが、エネルギーと言えば、作業犬界隈の人々の書いているものを読むとしばしば「ドライブ」と「エナジー(エネルギー)」という単語が出てきます。「ドライブのある犬」とか「ハイエナジーな子犬」とかいう風に使われますが、人によってことばの遣い方が微妙に異なるような気がしていました。混同しがちなこの言葉について、自分なりにいろいろ見聞きした情報をもとに意訳してみると

 ①ドライブ=犬の本能に根差した動機 作業欲求につながる
 ②エナジー=犬の魂に根差した欲求 感情のパワー(動機を実行する力)

みたいなところでしょうか。こうしてみると良い作業犬というのは、ドライブとエナジーが高いレベルでバランス良く備わっていてることが大事だと分かります。ドライブには種類(フード・ドライブとか、レトリーブ・ドライブとか)があるとされますが、その中でも作業犬に必須なのはプレイ・ドライブ;狩猟への欲求だと言われています。簡単に言うと食べ物よりもおもちゃに執着するタイプの犬がこのカテゴリに含まれます。

 先祖代々作業目的で増やされてきた系統の犬というのは、このエナジーレベルとドライブの度合いに相関があって、程度の差はあれ、生まれてきた時点でこれらを併せ持っていることが多いですね。でも、ほかの系統の犬や、ミックス犬の場合でもハイエナジーかつハイドライブの犬は居ます。反面、こういう犬の中でエナジーレベルは高いのに、ドライブはそんなにない・なく見える、という犬も、わりとよく見かける気がします。


フレンチブルドッグによるIPO3の実演

 ポイントは、「エナジー」は生まれ持ったもので生涯変わることがないその犬の性質ですが、「ドライブ」に関しては、犬のもともと持つ興味の方向性に合わせて人がディレクションを与え、共同作業の経験を通して高めてあげることができるという点です。ドライブが高まると、「もっと作業をして、成功したい」というルーティーンが生まれ、ある作業を成功させるというその過程において、エナジーの捌け口も生まれます。レスキューやシェルターから犬が貰われてくるとき、しばしば「オビディエンスのクラスを受けてください」と言われるのは、こうして犬のドライブが高まっていく過程において、犬の中で飼い主自体に対する期待と執着(=ヒトから見た「絆」)が強まるからだと思います。

 一般的に作業犬とされる品種じゃなくても、ハイエナジーな犬は、ドライブの方向性を見極め、能力を育ててあげることで本当に色んなことが出来るようになる可能性を秘めていると思います(上のビデオをご覧下さい)。ただ、これらのダイヤの原石達は日常生活のなかでは扱いにくい傾向にあると思うので、純正なコンパニオン・ドッグを目指したいという場合には、五段階評価で言えばドライブ3/エナジー2、みたいな犬が良いのではと思います。[note:]上のフレブルは体格やハンドラーの様子等を見るに、もともと優れた犬が優れた訓練技術のある人に育てられたものと推測します。やればどんなフレブルでも出来る!という意味ではありません。

 なんてなことを考えながら、日曜日の犬トレ通学していました。犬の「ドライブ」と車の「ドライブ」をかけたつもりだったんですが(え~)、、、行って帰って2時間以上、山を越えて美しいバージニアの田舎道を走るので、本当にさまざまなことを考える時間があります。子供漬けの1週間の貴重な癒しと言えます。




2018年6月20日水曜日

もしかしたら、明日かも知れない



 ふた月ほど前の誕生日に、「1日娘なしデー」を自分で申請・自分で手配していました。
 子供が生まれてから3年近く、1人だけで朝から晩まで過ごせたことはなかったので、すごく楽しみにしていました。前から行きたかった、地域の生物関係の協会がまとめている両生類の生息状況を調べる会へと行くことができ、ドライブ往復5時間(車の中で大声でチャゲアスを歌いやばい解放感を味わう)歩きまくり両生類や昆虫の写真を撮りまくり沼地でジャブジャブして、とても楽しい日曜日を過ごすことができました。結果、気に入っていたボロ靴が、さらにボロく沼の匂いまでも発するようになってしまったので、腹をくくってスポーツ用品店に行きました。その時のことです。

 「練習中」のベストをつけたコディと一緒に靴のコーナーでうろうろしていたら一人のおばあさんがやってきました。犬を撫でてもいいか聞いてくれたので、どうぞどうぞと言ったところ「大きな犬が大好きなの」と、かがんですごくうれしそうに撫でていかれました。小柄な人だったから、コディのくさい野性的なアロマ溢れる被毛に顔をうずめんばかりでした。普通、こういう場合だと、1~2分くらい撫でるとみんな立ち去るものですが、だまって10分以上撫でていて、本当に本当に犬が大好きな人なんだと思いました。

 家に帰ってから急に思ったのですが、あのおばあさん、もしかして何らかの事情で家で犬を飼えない人だったのかもしれないな。あたりまえのように犬との暮らしを享受している自分の環境を、考えさせられました。ひとはどんな時に犬を飼うのか……。日々の生活が、あるていど安定していて、今日と同じ一日が、おおむね明日も見込めて、自分と家族の面倒をみたうえで「さらにだれかの世話をする」余剰分のエネルギーがあるから、はじめて踏み切れることです。そうやって考えると、ヒトの短い一生の中で自分の犬をもてるということは、本当に得難い、恵まれた出来事です。

 自分だっていつか犬が飼えなくなる日が来るはずです。
 もしかしたら、明日かも知れない。

 そうやって考えると、自分の犬と今出来ることをすることは、非常に大事だと思わされました。ほんとに月並みな言い方なのですが、犬がいるこの一日、一日を大事にすること。もし明日自分になにかあって、コディが知らない誰かにもらわれていったとしても、迷惑をかけずに一生かわいがられて幸せに暮らせる犬にしておくこと。娘にも、犬への指示の出し方を教えていなかったですが、今日から始める事にしました。私の事を信じて一生懸命ついてくる犬の「頼れるオヤブン」であり続けるためには、自分の健康にも気をつけなきゃなと思いました。

 犬の期待に応えようという、鉄より硬い責任感の芽生えです。
 そうやって考えると、私の犬は私をより強く人間らしくしているといえるかもしれません。犬がヒトを人間にするって、おかしな話です。今日はそんなことを考えていました。