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2021年11月21日日曜日

感謝祭の日/娘6歳


 秋が過ぎていきます。2015年に生まれた娘も、はや6つの誕生日を迎えました。日本的な見方をすれば、子どもは7つまでは神様のもちものなので、娘も今まさに「自然発生的なバブバブとした者」から、徐々に意思を持ったひとりの個体として、人間世界への移行を果たしている所なのでしょう。ここ最近などは前歯がグラグラすると言うので見せてもらうと、たしかに下の前歯の後ろから、もう永久歯が頭を出していました。神秘的でした。最近では顔立ちや行動からも幼児っぽさが抜けてきて、(おつむの方はともかく)見た目はだんだんと少女然とした感じになってきました。

 感謝祭の週はボストンに移り住んだ旧友の一家が会いに来てくれ、当日は準備したごはんを囲んでささやかな夕食を摂りました。キッズらにクックパッドにのってた「フルーツターキー」を作る様言ったらちゃんと上手に作ってくれ(写真)、みんなで床を這いまわってた頃から比べると、何たる成長ぶりかと思いました。こういった機会にあの人も会いたい、この人とも話したいと思う人がいろいろいるのは本当にありがたいなと、感謝の気持ちを噛み締めました(感謝祭だけに)。コディも久々に子犬時代からの友達「ショーン」に再会してお互いの顔をなめたり、互いの水皿の水をぺろぺろ飲んだりしていました(笑)。


 それから、人間の子供もそうですが、犬も、他者が持ってるものが「すごくいいものだ」と思う傾向があるなあと思いました。ション君はもともと「人がくれるものはなんでも大好き」というタイプです。そのション君にブロッコリーをあげていたところ、コディも一緒になって必死でブロッコリーください!していたのには驚きました。コディは生粋の肉男で雑草と根菜とキイチゴ以外の野菜は頼まれても食べないですが、ともだちが一生懸命もらおうとするのを見て、この小さい木はいいものに違いない!と思ったようです。「???」と目を白黒させながらブロッコリーを食べている様子を見て腹を抱えて笑ってしまいました。いつも本当に笑わせてくれるヤツです。

思ってたのと違った犬 テンション下がると耳と耳の間が離れます

 これまでの6年間、犬と子供を同時に育児してみて、まあ犬はもう人間年齢で言えば私すら追い越した立派なオジサンになったわけではありますが、育てる上で同じ考え方ができる点が多々あると思いました。前回長々と独り言を言っていた褒めることの有効性などもその一つかなと思います。ドッグトレーニングをしていく中で、犬に「自分にとって価値ある人だ」と認められていることは、そもそもの前提条件としてだいじだと思うという話でしたが、人間の子供にもこの考え方が通用するのではないかと思います。

 子供に「この人は私が生存していくのに有用な知恵や、物資を持っている」「この人の関心を得ることは私がよりうまく生きていくオッズを高める」とどこかで思われていること(それらを「信頼」「親子の絆」と表現する人もいるでしょう)、そういう存在だと認められていることには、大きな価値があると思いました。子育ての世界では比較的「大人の指示をよく聞く子供」「勉強が好きな子供」をどう育てるか、などのテクニック面に焦点をあてて論じる傾向がありますが、所謂おりこうな子供というのは、様々な手引きによって作られるのではなくて、上記の様な関係性がもともとあったために、平均より多くの系統だった学習をコンスタントにこなせた結果、「生じる」ものではないかと思いました。


 娘が6歳になり、義務教育1年目にあがり、一般的に言うヒトの子育て期間の1/3が終わりました。そろそろこの「犬といっしょ子育て」から、本格的にステップアップして、人間特有の要求や問題とも付き合ってゆかねばならない予感があります。「親だ」というだけで一生懸命着いてきて、無私の愛情を注ぎ続けるという、ちょうど小さな子犬にも見られるあの特別な時がもうすぐ終わろうとしており、これからは少しずつ「この人についていこう」「この人の話を聞こう」と自由な意思決定でアクセスしてくる、というところまで来た感があります。


 それと同時に、過去6年間の犬と子供のダブル育児を通してコディから教わってきた「ものの見方」「考え方」は、私と娘の関係性の土台を維持するのに今後も役立っていくのではないかと思いました。振り返ってみれば、仕事などもぼちぼちしながら、外国でワンオペで乳幼児と元気な超大型犬を同時に世話するのは、困難な局面も多々ありましたが、有意義な挑戦だったと言えます。見返った後方の景色が感慨を誘うというのは登山に似ていますね。引き続き「子育て山」のぼりをがんばっていこうと思いました。次の尾根は、まだ雲の中ですが。


2021年11月19日金曜日

褒めることの有効性


 どの飼育書、しつけ本にも必ず書かれていることがあります。犬がいいことをしたら「犬を褒める」ということです。でも常々疑問に思っていることがあって、「褒める事はいつも必ずしも有効なのか」ということです。これはいままでいろいろな犬にふれあったり、また以前飼っていたドーベルマンや、今飼っているシェパードに毎日かかわる中で出てきた問いです。

 この世には「褒められる事が有効な犬」というのと、そうでない犬がいるように思います。私の思う「褒められることが有効な犬」というのは、①生まれつき褒められる事への感受性が豊かな犬、そして②後天的に褒められる事への感受性が豊かになっている犬の2種類です(厳密に言えば、同じ犬でも状況によって感受性が増減しますが、、、たとえば家のキッチンと公園とでは褒めへのリアクションが違ったり、、、今回は「本質的に褒められることが有効かどうか」について考えたいと思います)。


 ①は、遺伝的背景などによって、ほとんど生まれつき褒められることが大好きなように見える犬です。子犬なのに声掛けすると短いしっぽをピロピロ振って、いくらでも人間の活動に付き合おうとするような犬です。特別人に対して親和性を育みやすい性質などの副産物なのかもしれません。私からするとそんな犬と暮らす事が出来ている人は大変ラッキーだと思うのですが、世の中の多くの犬はむしろ、飼い主との沢山の良い思い出を通して「褒められること=いいこと」と、頭の中でしっかりとヒモ付けられて、はじめて褒められることの意味を真に理解できるようになっていくように思います。これは②のパターンです。

 ②の犬は、しかし、「自分が褒められてる」「褒められることはうれしいことだ」とピンとくるまでに、かなり時間がかかることもあります。飼い主の側がそう思える状況を十分に作れていないなど、理由は多々考えられますが、生まれ持った性質としか思えない事もあります。私が以前飼っていたドーベルマンもそうで、「この犬は自分が褒められて心の底からよろこんでいる」と私が確信するまでに、じつに7年位かかりました。しつけ本に出てくるみたいな「素直に喜んでくれる犬」「褒められようとがんばる犬」になるまでに、じつに寿命の半分以上が経過してしまったのです。後から思えば、犬にとって私と言う存在がまだまだそこまで重要視されていなったからだと思います。ドーベルマンは強い犬なので、そんなどうでもいい存在の人間にほめられようが怒られようがシッタコッチャネ~、だったというわけです。

 犬のしつけを考えるとき、トレーナーさんの言う通りにやっているけどなかなかうまくいかないな、というペアの中には、こうしてほめるとかしかるとかいう以前に、犬と人の関係がまだきちんと構築できていないケースもけっこうあるのではないかと思いました。そういう時「褒める事」は報酬として全く意味を成さなくなります。




 考えてみればあたりまえなのですが、実際のところ自分に対してどんな価値があるのかはっきり分からないひとが、自分がやったことに対して突然キャーキャー言って喜んだって、なんか嬉しそうだと気分が盛り上がることはあっても、それで天にも昇るような気分になったり、震えるほど感激するということはないわけです。周囲のドッグトレーニングの様子を見ていても、そんな状況になっている場面を時折見ます。飼い主はワオ!グッド!とすごく嬉しそうだけど犬自身は全く気にしてなかったり、気弱な犬とかだと、どうも自分が原因らしい飼い主の豹変(?)に挙動不審になっている場合すらあります。こうなると「褒め」は通過して犬にとってはドッキリの域に入っていきます。個体によって適切なレベルの褒め方があるとも考えられます。

 また超個人的な見たてになりますが、これは、叱る時も同じだと思います。もともと飼い主と強い絆で結ばれている犬は、少々叱られたり、小突かれたりした位では揺らぎませんが、仮にそれら抜きでいきなり叱ったりしたら、「頭ごなしな学校の先生」とか「暴力的なオヤジ」みたいな感じになってしまい、自らの飼い主としての魅力を著しく下げることになるでしょう。また犬は驚き、「こわいから言う事を聞く」ようになるかもしれません。これは良い人&犬の関係を築く上で、多くの人が目指したい所ではなさそうです。先進国社会では犬を叱ることについては非常に賛否両論ありますが、私は、自分の犬を厳しく叱ることがあります。ただし叱る時はふだんからその10倍、いや50倍は褒めるようにして、関係性を良くしておくことが前提です。また、叱る事も褒める事も犬にわかる・伝わる形で行う事を最優先に考えている、ということは明記します。


 「褒め」のもう一つの側面として、「犬をやたら興奮させてしまう」という効果もあるように思います。これは逆に褒められることの意味を既にとてもよく分かっている犬に起こりやすいように思います。たとえば今飼っている犬のコディは、特定の状況で遊びをしている時に「グッドボーイ」と言うと、真顔になり、耳が直立し、身体がこわばり、私を凝視する瞳がギラギラしてくることがあります。これはコディが褒められた喜びの絶頂にいる時の表情なんです(以前通っていたドッグランに、この状態のコディがどうしても怖くて冷汗がでて体が硬直してしまうという人がいました)。

 こうなると、コディの場合はその後何かをさせてもバーンと元気が爆発してしまい、乱雑で適当な動きになってしまいます。「グッドボーイ」があまりに刺激的すぎて、コディの心と体のコントロールを弱めてしまいます(考えようによっては、犬に爆発的な力を出させるようなタスクには向いてるのかも知れません)。このことから、場所や状況によっても、適切なレベルの「褒め」があるのではないかと思いました。

 いつもの如く長くなってきたので振り返りますが、犬を褒めることも(叱る事も)、まずは関係ができてから、犬に「この人にほめられたい」と思う人になることが、多分先決だということ。そして、個体・場所・状況によっても適切な褒め方があるんではないか~?、、、というところまでまとめて、おわりにします。

 今日の写真は2ヶ月前に発根していたエケベリアです。ゆっくりですが窓際でも成長を見せてくれています。これらは皆同じ親株から出たクローン体のはずですが、成長速度や体色にけっこうばらつきがあるのがおもしろいです。来春頃には人にゆずれる位の大きさになってるかも知れません。



2021年9月5日日曜日

犬の聴覚過敏とつきあう

Echeveria lola – "Mexican Hens and Chicks"

 

 近所の園芸店で買ってきたエケベリア。思うところあって掘り返してみたら、根っこがグズグズで茎の中央部まで根腐れが進んでいた。アメリカの「その辺の植木屋」で多肉を買うと結構よくある展開です。葉っぱをばらばらにしてひと月くらい、最近発根がはじまりましたよ(白いマルのところ)。上手く発芽までいってほしいです。こうして根っこが出ても、芽が出ないというヤツもいます。

 昨晩は犬のコディのクンクンという声と、階下をウロウロ歩き回る音で目が覚めました。時折大音響で雷が鳴っています。山の近くに引っ越してから「短時間で急発達するビックリするほど激しい雷雨」というのが、このあたりでよくありがちな天候イベントだと気付きました。

 コディが雷を不安がる様子をはっきりと見せたのは、実は昨日が初めてです。5歳を過ぎたころから音にやや敏感になってきている印象があって気にかけていましたが、不安感が強くなってきているようです。犬の聴覚過敏の類は、遺伝による先天的なものと、恐怖体験によってあとから身に着くものとに大別されるとされ、また近年では落雷前後に発生する静電気が不安感を増幅させるのではないかという説がいわれています。

 加えて、牧羊犬は聴覚過敏に陥る傾向が強いことが分かってきており、特にボーダーコリーとジャーマンシェパードで多く報告されています。コディの場合はおそらく犬種的なものと、中年を過ぎての2度の引っ越しや、すごい嵐が来る地方に来てしまった事で、音に対する嫌悪感が累積してきていると考えられます。田舎の家は、今まで5年間過ごした郊外の家とくらべて雑音が一切ありません。本当にめちゃくちゃに静かなのです。騒音が全くない環境なので、逆に雷の爆音とか、「へんな音」がより際立って感じられるのかもしれません。呼び鈴への反応も強くなったように思います。生活環境から生じたかもしれないこれらの不安感だとか警戒心は、不可抗力とはいえ、可愛そうに思います。

 犬に聴覚過敏の傾向がある場合、①特定の音に対して過敏性を減じる(ディセンシタイズ=脱感作)トレーニングを行う、②犬の精神の安定を助けるとされる道具や医薬品の助けを借りるという2つの対処法が一般的です。これに私はあと、➂日中に運動をたくさんするも付け加えたいと思います。人間でもそうですが、衣食住にも困らず、仕事も肉体労働もせず、日がな一日ブラブラしていたら、誰だって余計な事が気になりだすと思います。犬もきっと同じなのではないでしょうか。



 ということで、早速雷の音源を使ってトレーニングを開始しました。並行して、時間をきっちり測って運動する時間を増やしました。最近暑かったこともあって、散歩に出かける時間や長さはやや適当になってきていましたが、時間を計って有酸素運動の時間をたっぷりとり、その後に筋肉を使う運動をする時間もメニューを組んで入れるようにしました(この時間帯に、今練っている筋トレメニューをテストしています。いい感じになってきたら、そのうちノートに残したいです)。

 また、これはまだ試していませんが、クレートを防音仕様にするのはどうかとも思いつきました。家庭で使える防音ブランケット(参考)などが市販されていますが、これをクレートを囲むように、若しくは直接貼り付ける形で設置して、小さな防音室のようにする考えです。それで、ものすごい嵐が来る夜だけ、クレートで寝て貰えば多少はマシになるのではないかと思いました。ただ、コディは非常に暑がりなため、クレートの中の風通しが悪くなるとそれはそれでストレスを感じると思われます。なのでもう少し考えてみる必要がありそうです。

 あとは、以前、専門店でバイトをしていた店によく売れていた「サンダーシャツ」「サンダースプレー」も、購入しました。私はどちらかというとこういう民間療法ぽいものよりもすぐに薬に頼るほうなので効果には懐疑的でしたが、当時のお客さん達は効果があると言っていたので…、、、

 ところでこのシャツの購入には手こずりました。案の定、チャートの上では大丈夫そうだった「XL」が、胴回りがぜんぜん足りず、返品したり新しいのを取り寄せたり、ひと仕事でした。コディのように大きくかつ体格のいい犬の場合、使えるグッズがそもそも限られます。ほかの大型犬種、ボルゾイとかデンなどとも体形が全く異なるので、「超大型」と書いてあるグッズを買ったとしても、サイズがあわないという失敗が多いです。XLのシャツは、胸の所がパツパツで襟元から厚い胸毛が噴き出し、パリのゲイバーで見たおじさんみたいになっていました。コディの名誉のために写真は載せないことにします。


2021年9月1日水曜日

オオカミと犬、遊び、絆 雑考



 とても面白い話を耳にしました。オオカミと「取ってこい」:子オオカミのボール遊びが何を意味するか(Science)。スウェーデン・ストックホルム大学で研究用に集められた幼いオオカミの子供にボールを投げたところ、ごく少数ではあったものの、ボールを投げた人の所へ持ち帰る行動を見せた個体が初めて観察されました。この行動は全体の数からみると珍しい行動でありながら、他にも同様な行動を見せた個体が少数おり、オオカミの中に特性として受け継がれているのではないかという研究者の考えが述べられていました。これは太古の昔、犬がオオカミから分化した過程がどのようにはじまったかという話題について極めて一般的な「食べ物が介在して順化が起こった」とする論に一石を投じる発見だといいます。

 言い換えると、大昔オオカミが人の集落のまわりをウロウロするようになったのは、食べ物だけが目的なのではなかったかもしれない、遊びが介在して順化がはじまったということも考えられるかもしれない、ということになります。近年コンパニオンドッグ界隈でも「犬と人との遊び」の重要性が説かれるようになって久しいですが、そもそもイヌという種族自体が、ヒトとの遊び能力を基にして選抜が起こった可能性すら出てきたというわけです。

 最近コディにまだ熟れていないナシの実を投げていて思いついたのですが、、、人が何の気なしに投げた枝を同じ場所に戻しに来たり、崖下に転がり落ちて行った果物を拾ってきてくれたりするオオカミが、稀に存在したのかもしれません。オオカミもヒトもこれをおもしろいと思い、ヒトは感心して、これは何かの役に立つかもしれないと思ったかもしれません。おもしろい行動をするオオカミに積極的に餌やおやつをなげてやったりして、いつしかそういう「ヒトにとっておもしろいオオカミ」は集落のまわりで暮らしはじめ、おもしろいヤツ同士で結婚しさらにおもしろい子供が生まれ、そしていつしか村の中で、家の中で暮らすようになった。コディを見ながらそんなことを思うと、何かとても自然な気がしました。

 写真は小さい頃のコディ君です。コディは、食べ物をくれる人も好きでしたが、一番は棒や転がるもので遊んでくれる人になつきました。ゲーム全般と、かじるのがとにかく好きで、家をかじられないために一日の大部分を外で過ごしました。大型犬、超大型犬は子犬のうちは運動制限を進められることが多いですが、自由運動に関しては何も制限せず毎日たっぷりとさせました。外の草原で私と共に遊びまくっている時が一番楽しそうに見えたのです。しかし、撫でられることはあまり好きではなかったので、褒め方にはコツがいりました。


2021年8月3日火曜日

「できないこと」の重要性



 しばらくブログを留守にしていた間、北バージニアの僻地はキイチゴの旬を迎えていました。いろいろな種類があるのです。夕方、暗くなってきた農道のわきに西日に照らされて光るキイチゴは宝石のような輝きを放ちます。その姿を記録したく何度も写真を撮りましたが、私の腕ではあまりうまく写せませんでした。表面につぶつぶがたくさんあるせいか、なかなかピントが合いません。

 面白かったのが、犬のコディがキイチゴが大好きだと分かった事です。コディは雑草は比較的ついばむものの、野菜やフルーツといったファンシーな食べ物は一切受け付けない男です。ところがこのキイチゴを投げたところ、パクっと空中でキャッチして、いくらでも食べることが分かりました。これらの果物には抗酸化成分があるというし、なによりキャッチする時の顔があまりに面白いので夕食後の散歩でキイチゴキャッチをするのが毎日のルーティンとなっていました。季節がすぎ、枯れた果穂を見た時は寂しかったですが、また来年のキイチゴに期待が膨らみました。

 本日は(これまで若干6年ほどのぺ~ぺ~ではありますが)ヒト幼児と大型イヌを一緒に育てる中で気が付いた犬や子供が「できなかったこと」「しなかったこと」の重要性についてごちゃごちゃとムダ話をしたためたいと思います。勉強やらしつけやらで、犬や子供に何かをやらせようと働きかけたが、できなかった、しなかった、ということはわりとよくあります。親や飼い主はついついイライラしてしまうのですが、これらはとても大事なことで、そこで立ち止まって時間をとって、考える価値のある事だと感じています。

 ホームスクーリングもどきを1年以上続けている娘(5歳10ヶ月)は数字に殆ど興味がありません。日系人の子女向けにオンラインのプレイグループをしていると、周囲には4歳くらいで九九まで出来る子とか、小学校に入る前に低学年の漢字をマスターしている子などがちらほらいるのでちょっと焦ってしまい、「娘、記号に弱いのではないか」とか「算数が苦手になるかも知れないので学校へ上がった時のために先取りして教えるべきか」などという気になることもあります。でも、算数は一旦置いておいてほかの科目をしていると、地図記号や、漢字の意味を考える事は、わりと好きだということがわかりました。

 地図記号はもちろん、漢字などは象形文字で、ある意味記号です。つまり、頭の中で実像と結ぶことができる記号や、物語性のある記号は好きなのです。この事から、娘は(他の大勢の子供達と同様に)より多くの学習内容を実像と結べるように、より多くの身体的経験を必要とするタイプだという事が分かります。これは今後10年以上娘という子供の性質と向き合う上で意味のある発見です。

 ここでフト気付いたのが、「自分の娘が数字に興味が無い」ということに気付いた時点で、そのことで頭がいっぱいになり、その苦手を「消す」ためにがむしゃらに反復練習などを日々繰り返していたとしたら、おそらくこの発見はなかったと思われることです。または、ずっと後になってから、もしかすると練習のしすぎで漢字や算数などが嫌いになってから、その事実にたどり着いていた可能性もあります。


ボールを返せという指示があるまで、返すことを「しない」犬。犬自身の考えがあるようだ。


 もうひとつの例はコディです。ドッグトレーニングをしている人なら皆「犬になにかをするようリクエストしたが、犬がそうしなかった」という経験を持っていると思います。私の犬コディも、家の裏庭で遊んでいる時に、たまに「オイデ」を無視することがあります(!)。

 コディにとっての「オイデ」はもともと非常に効力のある言葉で、ドッグパークの雑踏やパーティーの人混みの中や雑木林などでも、わりとすぐに戻ってきます。たとえどこかに向けて走って居ても、呼ばれたらUターンを描いて戻ってきます(シェパオーナーの方はどういう様子かすぐ想像出来ると思います)。

 ところがこの裏庭に居る時、時折「オイデ」を2回言われないと戻ってこない事があります。そういうときは、1回目の「オイデ」では、遠くで立って私の事を見ているのです。それで、興味を持っていろんなところやいろんな時間帯に呼んだりして調べたところ、特に日暮れ前の時刻に、東側の庭(公道と雑木林に挟まれて伸びるスペースです)の中にいる時、「オイデ」が2回要る傾向があると分かりました。

 しばらく今の場所に住んでみて気付いたのですが、この東側のスペースの外側は野生動物の通り道になっていて、シカや小さな生き物が頻繁に通過していることがわかりました。この動物の往来?が最も盛んになるのが、日暮れ前の1時間ほどでした。またあとで知ったのですが、公道をはさんだ向かい側(といっても200m以上離れていますが)に大きなマスチフがいる家があって、その犬の事も警戒しているようでした。

 コディは基本的に言われたことは守る性格ですが、シェパード的な敷地を守る気持ちや、イザとなったら自分で考えて決めようとする気質が強く残っています。その性質をどうしようもなくかき立てるのがこうした害獣の存在であり、この「夕暮れ時の東側の庭」だったということです。私の犬は脅威を身近に感じた時、自分のビジネス(危険管理)を優先する奴だということがわかります。こうして「オイデができないことがある」事の原因を探る過程で、愛犬の性格について、また少し理解を深めることができました。

 犬にもヒトの子供にも言えると思いますが、何かをやらせてみて、「とくいだった」「好きだった」ということから分かることと同等か、時にそれ以上のことが、この「できなかった」「しなかった」ことの分析から分かると思います。だから、やらなかったことの原因を真剣に考えることなく、子供を強制的な練習メニューに放り込んだり、犬にはEカラーをつけるなどして、好ましくない行動をさっと消去しようとすることは、心情的にはとてもよく理解できますが、相手を知るための非常に重要なチャンスをも消去していると言えます。

 別の話でもすこし触れましたが何かを飼い育てる、教えるということは、結局は相手を知ることがほぼ全てなのではないかと考えます。ナンデこれが出来ないのかとか、ナンデしないのかとか、そういうことを探ったりする中で、少しずつ状況が改善したりすることもあるし、ふいに相手から感謝されたりすることもあります。藻掻きながら、親と子だったり飼い犬と飼い主という「オリジナルの関係性」の構築を目指していくことが、結果的に良いことなのではないかと思いました。



2021年4月12日月曜日

相容れぬものたちー犬と子供

トウモロコシ畑の前で

 このブログにもごくたまに登場してきた「ちいさいにんげん」こと娘は、現在5歳6ヵ月です。この頃は心身ともにずいぶん成長してきました。そのせいかは分かりませんが、ひと月ほど前でしょうか、初めて犬が自分から娘を遊びに誘う素振りをみせました。『シャイロ・シェパ―ドは子守り好きな犬種』と言われる中、コディは徹頭徹尾、「何かを一緒にしてくれる人」にしか興味のない奴で、娘が寄ってきてもいかにも迷惑そうに避けたり、または完全に無視&抱きしめられるのなんて本当にもっての外(グーッと言って逃げる)、という態度だったので、突然の変化におどろきました。

 変化のきっかけは、ある日庭で子供が「犬的にすごくいいかんじの棒切れを拾って」初めて「犬に向かって上手いぐあいに投げた」瞬間でした。犬がこの人間は実は、何かを一緒にしてくれる人なのでは???と、あからさまにピーン💡と閃いた表情をしていたので笑いました。それからは庭で用もなく2匹でチョロチョロする姿が見られるようになったりして、互いに利害の一致をベースとした、何らかの関係が芽生えた様子が見て取れました。とはいえ犬の方は娘の事を完ぺきに信頼しているわけではなくて、まだまだ気安く触られたりするのは本意ではないようです。必要以上に近寄ったりじゃれたりといったことは、ありません。


狭いアパート時代も折り重なりながら成長してきた


 彼らの様子を見ていると、「犬と子供」の関係性は、世の中においてわりと誤った印象を持たれているもののひとつではないかと思います。一見すごくかわいく、ほほえましいですが、実際は犬側の多大な譲歩やガマンによって成り立っている場合も多いように思います。

 時々、小さな子供達を対象に「犬とどう関わるか」というミニワークショップを、実地やオンラインでやっています。特に実地だと、コディくらいの大きさのシェパード犬に触れる機会は殆どないので、子供達は皆大ハシャギです。その一方で、小さな子供と犬との正しい関わり合いは(自制心が未熟であったりして)困難な場合も多い事、子供のみならず両親・おじいちゃんおばあちゃんなどの家族も、犬との安全な関わり方をあまりきちんとは考えたことがない場合も、多いことに気付かされます。

 アメリカの数字ではありますが、犬の咬傷事故の犠牲者の68.0%は、5歳以下の子供です。その中では3歳児が被害に遭う率が最も高く、全体の15%を占めています。また犬にかまれるというと狂暴な野良犬などを想像しやすいですが、実はほとんどの子供は面識のある犬(自分の家の犬だったり、親戚や友達の家の犬など)に噛まれています(NIH調べ。米国で飼われている犬の全体数を考慮すれば、実際に噛まれ病院へ行くほどのケガをする率はそう高くはないとはいえ、世間では、「犬と子供」というかわいいコンビを推進するのと同時に、犬は本来、小さな子供にとってはけっこう危険な動物だということ、また子供は犬との安全なかかわり方を学び、実行できるようになるまでに、思ったよりも長い期間を要するという事実も、広く知られて欲しいと感じます。


2021年3月24日水曜日

犬はシェルターから迎える事が最善である。という風潮について。

  

 今日は、「シェルターと犬」という、比較的センシティブな話題にふれるので、読んだら意見の違いを感じる人も多くいらっしゃると思います。あらかじめ申し訳ないなあと思います。そのうえで、個人のブログなので、最近犬をとりまく世間についての私個人の違和感を書いてみたいと思います。

 今日のテーマは、ここアメリカにおいてですが、「犬はシェルターでもらうことが『是』であり『最善』である」という社会の風潮が、近ごろ強まりすぎているような気がしているという点についてです。このことは自分の中で以前、ブリーダーから犬を迎えるということを面と向かって否定された出来事から尾を引いていて、今日はそのことについて身近な出来事も取り上げながら考えてみたいと思い、PCの前に座りました。

 本題に入る前に、間違えのないように強調しますが、シェルターから来て素晴らしいコンパニオン・ドッグになっている犬は星の数ほど存在し、そういうすばらしい可能性を秘めた大勢の犬達が毎年、大勢、処分されているということは改善されるべき問題です。これは、私個人の考えの中でも前提とする大事な部分ですので、とりちがえのないよう、おねがいいたします。




 本題です。慈善の精神が重んじられる国・アメリカに住んでいると、愛犬家なら当然、犬はシェルターから迎えますね!というプレッシャーを感じることがあります。SNSでは、犬好きの友達の多くが「犬をアダプトしよう!」というポストやビデオクリップなどを毎日のように気軽にシェアしてくるし、TVニュースのチャンネルによっては、ヒューマンソサエティ系のコマーシャルが繰り返しよく出てきます(寂しい檻の中で可愛そうな目をした子犬と共に、悲しい音楽の流れるコマーシャルです)。

 フェイスブックの地域のグループでは、「○○という犬種の子犬を飼いたい。誰かいいブリーダーを知りませんか。」といった質問に、「質問の答えにはなってないのはわかっているけど、あなたの犬はシェルターで引き取るべきです。」「A D O P T!」と書き込む人らが大勢表れて、その剣幕に驚かされたこともあります。上に書いた通り、道で出会った見知らぬ人との犬トークでも「ブリーダーなんか要らないのよ!」と、熱心に持論を展開されたこともあります。

 ペット量販店では、レジで「恵まれない犬や猫に募金をしますか?」と聞かれる・又はそういった質問が支払いのパネルに表示されることはわりと普通で、「しません。」を選択する事は当然の権利ながら、なんとなく自分が弱い者を助けないやつになったような気になる事もあります。


大好きなベーグルチェーン「ティム・ホートンズ」(やすい)
 

 時には、「イヌネコはシェルターから」を熱心に推し進めるあまり変なことになっている構図も見られます。ちょっと前の例になりますがたとえば、ロードアイランド州でペットショップで陳列(販売)される犬や猫はシェルターやレスキューから来た生体に限る、という法案が議会を通過して、一部犬好き界隈で話題になっていました。そもそも環境が劣悪な場合があり問題視されている生体販売店に、家や家族をなくして、心身の不安定な状態の犬猫を連れてくるのでは愛護の観点からも本末転倒に思えますが、そもそもこのような法案が出来る気運があり、大真面目に検討されたということ…、これを「いいアイデアだ」と思う人がまとまった数いたのだという事実に、はっきり言ってかなり驚いたのを覚えています。




 犬の世界にとって、犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれない「パピーミル」や、無計画な「バックヤード・ブリーディング」の存在は潜在的に危険なものです。また無責任に捨てられた動物を一時保護観察する場所として、機能的なシェルターがあることは言うまでもなく重要です。そのようなシェルターからいきものを引き取り大切に飼い育てることも、倫理的良い行いと言えます。

 けれども、この「倫理的よい行い」を追求する過程で、『純血種の犬や、それをふやすブリーダーという職業自体もすべて悪である』『みんな、ブリーダーの犬を飼わずにシェルターの犬を飼うべきである』『ブリーダーから犬を買う者は、みんな、無知で愚かである』と、極論に走る人が大勢いるという点には、注意が必要ではないでしょうか。

 犬について真面目に考えたことのある人なら、それは問題を単純化しすぎているとすぐに気付くと思います。しかし残念ながらここアメリカでは若い人などを中心に(ほとんど義憤といっていいレベルの感情とともに)上記のような主張を持った人に何度も出会ったことがあります。冒頭に書いたフェイスブックのご近所グループで「純血種の犬が欲しい」と言った人を攻撃的になじっていた大勢の人々も、この類に入るでしょう。




 そもそも、「シェルターで犬をもらう」という行いの善性について語る前に、「シェルターで犬を貰うことは万人にとって適した行いか」という別の疑問についても、もっと世間で議論されるべきではないのかな。はっきり言って、シェルターの犬をもらっているけど、上手に育てられると思えない家庭環境の人を大勢見たことがある。


 個人的な話になってしまいますが、ペット業界に居た頃、まわりにはシェルターでテクニシャンとして長く働いたり、ボランティア10年選手など、さまざまな人がいました。そんな中で経験を重ねた人ほど、シェルターの犬をもらうことに対して慎重だったことが印象に残っています。

 長年シェルターにいる様々な犬を観察し、時には自宅に引き取って寿命を全うさせる経験を誰もが持っている彼らは、誰にでも気軽にシェルターの犬を勧めるようなことはありませんでした。シェルターに居る犬について本当に色々な事例に触れ、時にはずっと後になってから予期せぬ健康上・行動上の問題が浮上するケースを経験していれば、そのようなことは出来ないのです。

 10年に満たないような私の北米生活歴の中にも、思い返せば「シェルターから犬を貰ってきたら、家の敷地内では可愛かったのに、ある日散歩中に豹変して、近所の老犬に襲い掛かって酷く噛んでしまった」というような話を複数耳にしました(←これは実際私と仲が良かった同僚に起こったことで、残念ながら老犬は死んでしまったのです。コミュニティにショックが走りました)。恥ずかしながら、私自身が仕事中にシェルター出身の噛まれかけた経験も何度かあります。

 前の家に住んでいたときも、隣の団地の犬で、非常に良く吠えるので「s h a t  u p---!」と毎日プロングで引きずられ、大声で叱咤されながら散歩しているハウンド系の犬がいました。子犬のうちに迎えたものの、育ったら猛烈に車を追い道行く犬に凶暴性を見せるようになり、早速、電気カラーで四六時中ビシビシ電流を流されながら散歩しているボーダーコリーミックスの若イヌがいました。どちらもシェルターや里親イベントでもらわれてきた犬たちです。

 上の2頭についてオーナーと立ち話したことがあります。2頭ともとても利口で可愛い犬達だし、オーナーの人達もごくごく普通のアメリカ人で、本当に普通にいい犬、いい人々なのです。ただ、住環境があきらかに犬に合っておらず、また飼い主達も犬の犬種的なニーズであるとか、どのくらいのトレーニングが必要であるとか、そういう事にとりたてて強い関心をよせるタイプではなかったところで悲しいほどのミスマッチが起き、それらが犬と飼い主両方のQOLを著しく下げていたのです。

 メディアやSNSでは里親の家で幸せに暮らしている犬が繰り返し脚光を浴びるなか、現実の世界では、だれにも取り沙汰にされない、「うまく適合しなかった例」も沢山あります。例えばの話、このような飼い主たちは、将来的な体格や、性格や行動がある程度予想しやすい「きちんと殖やされた純血種の犬」を飼っていたら、犬にとっても人にとっても、あるいはまったく違った結果があったのではないか?と思うときがあります。




 以前シェパードをアダプトすることでもグダグダとうんちくを述べていましたが、「シェルターの犬をもらう」という行為の問題点は、きちんと犬の健康や行動を把握できる、犬の心の動きをこまかく観察して、リスク回避やマネンジメントが出来る「アドバンスド飼い主」向けの犬がいたとしても、量販店などの里親イベントであったりシェルターであったり、カジュアルな感じで、「あなたは良い事をしている」という高揚感つきで、安価なペットとして犬を飼えてしまうところにあります。これは本当に良い事でしょうか。

 だから、「犬はシェルターから迎える事が是であり、最善である。」という風潮がいつしか勝手に現代の倫理規範のなかに書き加えられ、この「新倫理」が、

・好きな犬を飼う、その為にブリーダーへ行く
・自分と家族の生活に適した犬を真剣に選ぶ

という個人の自由までもさまたげ、ときに圧迫する様子すら見られることは、危険な傾向ではないかと思います。「個々の人は犬に割けるリソースが全く異なる」「個々の人は、犬を迎え入れる家庭環境に大幅な差異がある」などという、犬を生涯にわたって大切に飼う上で本来、最も重要視しなければいけない観点が、そこからは完全に抜け落ちています。




 大切なのは、どんな時も、出自がどんな犬であっても、毎日自分の犬を大切に世話をして最後まで飼いきることであり、また誰がどんな出自の犬を飼っていても、そこに至った他者の考えや行動、「選択の自由」を尊重する事ではないのかな。

 今日書いたことはもしかしたら世の中の多くの愛犬家とは逆行する考え方なのかもしれません。しかし、より多くの人が「シェルターにいる、かわいそうな犬達をたすける」という、感情に根差した視点を大切にしながらも、そこから一歩を踏み出して考える必要があると強く感じたため、書いてみました。


 今日の写真は5年前に散策したなつかしい夏のトロントから。ほんの数日だけの滞在でしたが、いっぺんで好きになってしまう魅力にあふれた街でした。犬もたくさんいてシティライフを謳歌してるように見えました。いいなあ~。現実逃避はこのへんにして、今日の無駄話をおしまいにしたいと思います。


2019年7月10日水曜日

ボストンへ行ってきました(再び)。

クインシー・ベイに浮かぶ小島から臨む、ボストン市街のながめ。


 北米の夏の休日、ジュライ・フォース(独立記念日)の週は、マサチューセッツ州ボストンの友人宅に寄せてもらっていました。トランク大小3つ、友達一家へのお土産の大きなダッフルバッグ、成人2名、3歳児1、犬1+犬のお皿やブラシなどなどを詰め込んだパンパンのマイカーに乗って、I-95 NからNJ Tpke、コネチカットの歴史街道へ…と、約10時間かけて北上しました(どこかで読んだ書き出し)。




 独立記念日は、家族や友達と食事などをして、夜になったら花火を見に行く、というのが典型的なアメリカ国民の過ごし方です。私達も例に漏れず庭でグリルなどをして過ごしました。滞在先は古民家が集まっているエリアで、昔ながらの近所づきあいが根付いていました。食べ物を並べているとどこからともなく近所の人があつまってきて、勝手に話に花を咲かせていました。


なんか興奮しておもしろい事になっていた


 ヒトある所にイヌあり、近所の御宅の犬達とコディも一緒に遊ばせてもらうことが出来ました。この庭を出てすぐのところにドライブウェイがありときおり車も通るのですが、地域の犬達はみんな勝手知ったるといった感じで、飼い主達も気にも留めない様子でした。ふだんの生活の中で他の家の犬が勝手に庭に入ってきたりすることは結構よくあるみたいです。アメリカの昔の犬の暮らしぶりに近いと感じました。

 それから今回初めて夏のボストンに滞在して、一般家庭に冷房がないことを初めて知ったんですね。自他共に認めるすごい暑がりである自分は死んでしまうのではないかと、道中心配していましたが、築112年の(アメリカ的には)古い家の中は日中は意外なほど涼しく、湿度の低い風が一日中吹いていてさわやかでした………、というのは今年がラッキーだっただけで、去年はマサチューセッツも猛暑で大変だったそうです。
 



 数軒先に、昔偉い軍人だったお爺さんが住んでいました。第二次世界大戦を戦った人です。かなり年をとっていて、自宅でターミナルケアを受けられている様子でした。ある日の夕方、彼の為だけにパレードが執り行われました。非常に名誉な事だそうです。自分も結構長くアメリカに住んでいますが、こういう事は見たことがありませんでした。窓辺から重そうに腕を持ちあげて敬礼に応えるお爺さんの姿が見えました。

 戦争では、間接的に、いやもしかしたら直接的に、多くの日本人の命を奪った人なのかもしれません。今目の前で死にゆくその人を見て、複雑な思いでした。個人のレベルでは、怒りや憎しみなど、何も感じる事がないからです。今までの人生の中に散りばめられた「戦争への間接的記憶の断片」を急に意識して、戦争への思いがふくらみました。自分の娘と、その友達は、バグパイプの音に合わせて楽しそうに踊っていました。その仲良しの娘達にだってそれぞれ、ユダヤ人とドイツ人の血が流れています。




 パレードの時もまた勝手にどこかの家の犬が、ヒモもつけずにフラフラ挨拶しに来ていました。花火といいバグパイプといい、結構な爆音で鳴らしていたけれど、全く物怖じせずみんな自由に歩き回っていた(笑)。豊かな社会性を持った犬達でした。私がかねてから礼賛している「村のいぬ」の像に、また少しピントがあったようで、非常にインスパイアされました。


やや疲れ気味

 今回は庭や近所をうろつく事がメインだったコディ。暑さと、朝から晩まで子供だらけで、あまりよく眠れなかったみたいです。この犬は旅行はいつもこんな感じですね。夜は冷房のある友人夫妻のメインのベッドルームに入れて貰ったりして、すごい特別待遇を受けていたのに(うちのが来ると毛まみれになるラグに文句を言うどころか、こんな事してくれる友人夫妻に感謝)。バージニアの家はずっと狭くて暗い家ですが、静かだし涼しいのでやはり落ち着くようで、帰ってからは3日位ずっとゴロゴロ&寝ぼけまなこで過ごしていました。

2019年3月7日木曜日

ドッグラン名人になる


 犬オタクの間ではわりと否定されがちなドッグランですが、「自分の犬が気軽にランに行けるタイプだ」ということは、特に都市型の生活をしているドッグオーナーにとっては大きな安心材料です。私も、最初の愛犬との東京生活を思い出すと、ちょっと家を出ても自然のトレイルなどはあるわけもなく、散歩もリードをくるくるまとめた状態で延々とコンクリートの歩道を歩くというスタイルになりがちでした。自転車での引き運動以外で走れる場所などもなかったので、そこそこ活発なドーベルマンの運動意欲を満たすためには、当時住んでいたマンションの屋上や夜更けの工事現場で遊ばせたりして(←良い子はマネしないでね)だましだましやっていました。

 そのような生活スタイルの中にあると特に、ドッグランは犬にとっては自由に走り回れる貴重な場と言えます。ほかにも例えば、長いドライブの道すがらランに寄って軽く体を動かさせて…、とか、空いてる時刻をねらって子犬の社会化に役立てたり…など、場面に応じて様々な使い方が出来ます。飼い主にとってもほかの飼い主と情報交換が出来たり、友達が出来たりと、地域の社交場としての機能もかなり高いですよね。ランは、その是非はともかく、愛犬家生活上のオプションとしてすごく便利だということは確かだと思います。

 私は現在の犬を迎えてからはじめの3年半、散歩の一環として雨の日も風の日も雪の日も毎日1~2回ランに通いました。また自分の犬が来る前も、ひとりでランに通って柵の外から犬の動きを見るという変態的な時期を過ごしていたこともあります。こうしてここ数年でこの「ドッグラン」という場所にまつわる悲喜こもごもをある程度知り尽くした気がするので、ここで改めて「どうやったら上手に楽しくドッグランとつきあっていけるのか」というところについて考えてみたいと思いました。


1-犬の遊びについて詳しくなっておくこと

 まず重要な前提として、犬の遊びをよくわかっておく必要があります。私個人の感想ですが、ランでのいざこざのほとんどが、飼い主が「犬の遊び」をよく理解していないことに端を発しています。これについては言葉で説明するよりも下の2本の動画を見るほうが分かりやすいかもしれません。この動画のポイントは、犬同士の「MARS」が確認できれば、たとえば激しく噛みあうマネ、戦うマネ、追いかけっこ、押さえつけ、マウンティング、唸ることや吠えることが介在したとしてもそれは良い遊びである、というところです。「MARS」の簡単な説明は動画の下に続けます。




 MARSとは、メタシグナルアクティビティ・シフトロール・リバーサルセルフハンディキャッピングの頭文字を合わせた標語です。メタシグナルとは犬が「これは遊びだよ」と相手に伝えるためのサインで、無駄にぴょんぴょんした動きや派手な表情、プレイバウなどがそれにあたります。アクティビティ・シフトは、遊びの途中でゲームが変わる事です。たとえば追いかけっこからレスリングにシフトしたり、ひとつの遊びに固定しないということですね。ロール・リバーサルはそのまま、役割の交代です。でも自分で見た限りではいつも同じ役回りをすることを好む犬も多いので、これは犬にもよる気がします。セルフハンディキャッピングは、強い方の犬がわざと力を出さないで、相手のレベルに合わせることです。次に、二本目の動画を見てみましょう。




 この動画では、犬同士の遊びが白熱してきてちゃんとうまく遊べているのか不安になってきた時に、一度犬を離し→再び同じ遊び相手の所に戻るか見る、という簡単なテストについて取り上げています。このあたりはみんな自然とやっていることなので、わざわざ教わる事でもないよと思われるかもしれないのですが、これが大型のオスの成犬同士でガンガン遊んでいる所などに出くわすと、たとえ知識があったとしても、本能的に不安を覚えるんですよね。うちの犬ものんびりした性格の割にかなり激しく唸り声をあげながら遊ぶので、あとでそれをFBに投稿した知り合いのところに「なぜ自分の犬がアタック(原文ママ)されているのに止めないのか?」「危険なシェパードをランから追い出せ」というメッセージが来たことがあります。

 「私の犬は怖がりで、まずこうやって遊ぶまでに至らないんだけど」という人もいるかと思います。子犬や若い犬でランへの心の準備が出来ていなかったり、生来繊細な性格の犬なのかもしれません。まずは自分の友達で、とても優しい犬を飼っている人に頼むなどし、落ち着いた小グループでの遊びを続けて自信をつけさせてあげることが大事かと思います。それから改めてランにチャレンジするか、もしくは「ランは荒っぽすぎてうちの犬には向かない」と、はっきり判断を下すことも大事なことだと思いました。


2-「飼い主の倫理観を尊重して愛犬の行動をシェイプする

 過度のマウンティング、トリーツを持っている人を付け回す、遊んでいるほかの犬の集まりについてまわり大きな声で吠え続ける、弱い犬のボールなどのおもちゃを奪う、嫌がる弱い犬を執拗に追いかけて地面に押さえつける、などの行動は犬の世界ではわりとふつうだと思うのですが、人間の目から見ると「いじめ」や、下品に見えたりと、倫理的に誤った行動ととられます(「犬の世界ではふつう」と言う理由は、これらの行動をしていて、その後ケンカになったというところを殆ど見たことがないためです)。

 また犬の世界には俗にいう「みそっかす」みたいのも存在している気がして、いじめられやすい犬はみんなに小突かれ続け、泣きながらキャンキャン逃げ回り、またそれを面白がった他の犬にタックルされて転ばされるというのも、わりとよくある光景です。でも、自分の犬がそういう目にあって平気でいられる飼い主はいないと思います。人間の倫理感が、瞬時に「弱いものいじめはだめ」と考えるからです。

 これらを踏まえて、上述したような行動、特にいじめっ子になりがちな犬の飼い主は、犬の自然な行動がどうのとか細かいことを言わずに、「社会生活を営む上でしてはだめな行動」と割り切ってトレーニングを行うことが大切だと思いました。もちろんこうして、犬の自然なふるまいを阻害してまで遊ばせる必要はないと思う人もいると思います。そう思った場合は、行かない選択をすればよいだけです。ドッグランとは、究極的には飼い主のための場所であり、そこに来る人間同士の関係を円満に保つことが大事だと言えます。そのためにはマナーが重要です。

 かくいう私の犬も、若犬の頃から時々この「弱い犬をダッシュで追いかけて地面に押さえつけたい」という強い欲求を見せる事があり、基本、ランでは絶対に目を離さないでいました。「追いかけたい」という意思が宿ると眼付きが変わるので、いつもそのアイデアが浮かぶ0.5秒前、というところで呼び戻すことで工夫していました。マウンティングについても、「やめなさい」と言えば、どんな遠くにいても即座に中止するように教えました。これはたまたまうちの犬がリコールや遠くからのコマンドでも反応する犬だったので出来たことですが、それでも潜在的に他の犬や飼い主の脅威になりえると思っていました。出来るだけそういう行動をしないようにトレーニングを頑張ること、もしそれでもだめだと判断したらいさぎいよくランから退く、ランじゃない別の遊びを開拓するというその見切りも、大変重要なポイントではないかと思います。


3-他の飼い主に寛容になる。積極的にコミュニケーションをとる。

 これはヒトの子育てをやってみてあらためて分かった点でもあるのですが、ヒトの育て方も、イヌの育て方も、100人いたら本当に100通りのやりかたがあります。中には、「貴殿のやり方だけはムシズが走って居ても立ってもいられぬ」と思うような飼い主に遭遇することもあるでしょう。私だって、ふだんはわりと温厚なほうですが、件のピットブルの飼い主に関してはいまだに根に持っているし。

 そういえばコディが若犬の頃、ベンチに座っているお姉さんの膝に泥のついた足を置いて伸び上がろうとして、その人の読んでた本で頭をバシッと叩かれたこともあります。このように、ランという場所は「しつけ」に関して自分とは違うメソッドを持った人、違うメソッドで育てられた犬と出会うことが日常茶飯事なので、そういうのも含めて「広義の社会化である」と容認できる人に適していると思います。ドッグトレーニングを真剣にやっている人がドッグランに否定的なのは、このような見ず知らずの犬や人からの影響が看過できないレベルというのも、大きいのではないかと思います。

 またここは私が多くの人と意見が違うと感じる点でもあるのですが、ランは公共の場所なので、トレーニングトリーツやオモチャを持ってくることも本来自由であるべきだと思います。よく「みんなで遊ぶ場所におやつを持ってくるなんて」とか、「オモチャはケンカのもと」と言って、上述したような物品を持ち込む人を敵視するドッグオーナーがいますが、まずは自分の犬に「おやつを持ってる人を付け回さない」「おもちゃをドロップ、leave itする」というマナーを徹底的に教えるべきところではないでしょうか。

 当然のことですが、そもそも持ってこないということが一番賢いに決まっています。しかし、そういうオーナーにはそれでも持ち込むための、なにか理由があるのだと思うし、公共の場なのだから、それは自由であるべきです。するとランにホカホカのマクドナルドを持ち込んだうえ、よってきた犬達に怒る人(信じがたいですが実際に遭遇した)なども登場するわけなのですが、こういった事を人のせいにして熱くなるか、冷静になって「愛犬のトレーニングのチャンスだ」と考えるかで、長い目で見ると成果が変わってきます。

 また変な飼い主を見つけたら、木の陰でヒソヒソしているだけではなく、出来る範囲で本人にうまく説明して分かってもらう努力をするのも大事だと思います。ランの環境がトータルで良くなることが、結局は自分の犬のためになるのです。私はまずその努力をしてみて、それでも改善しない場合は、たとえ友達がいても、まだ何もトラブルが起こっていなかったとしても、その日のランは終了、としていました。与えられた状況下でありえる危険の可能性についてすぐ察知出来て、回避策を打てる、というのは愛犬との暮らしの中でいつも最重要な「リーダースキル」といっても過言ではないと思います。




 ところで、幸運にもドッグラン漬けといっていい幼少期を過ごしたコディですが、3歳半を過ぎたころからランへ行っても殆どほかの犬と遊ばなくなりました。コディも人間なら30代、パーティーだ飲み会だと友達と騒ぐモードを卒業して、自分がほんとにしたいこと(=私と何らかの共同作業すること)にフォーカスする時期に入ったのかも知れません。面白いのが、この「犬と遊ばなくなった時期」と「外ですれ違う犬に警戒するようになった時期」が殆どシンクロしていたという点です。3歳半から4歳の間のどこかの時点で、コディは大人の犬になった、と解釈しました。

 ②の2段落目で書いたことも、自分たちがランへ行く機会を減らしてきた大きな理由のひとつです。記述の行動は実はシェパードという犬種の中ではけっこうよく見られるもので、狩猟本能から来る動きですが、他の犬や飼い主にとってはハッキリ言ってはなはだ迷惑でしょう。このあたりのバランスも考慮しながら、「自分の愛犬かわいさ」の世界から一歩踏み出し、「自分たちはランの秩序にとってマイナス因子になっていないか」という疑問をいつも持つことの重要性を、自分の犬からも教えてもらった気がします。



2019年2月8日金曜日

ドライブとエナジー



 セラピーのリクエストが来ていました。行き先はホスピスでした。よく考えた上、今回は見送ることにしました。今のコディはエネルギーがありすぎるように思うので、訪問中いつ・なんどきでも200%信頼がおける、というレベルに犬が達するまで、終末医療関連の施設は訪問しないでしょう。患者さんたちが本当に貴重な時間を生きている場所です。どのような形であれ、犬がその時間の質を落とすような事は万にひとつ、いや億にひとつでもあってはいけないからです。

 ホスピスへ行くにあたって、犬たちはおよそ三週間にわたる追加トレーニングを受けます。このほかにも、目的に応じて訓練を受けねばならないシチュエーションはいくつかあります。機会は多くない(無いほうが良い)ですが、銃の乱射や自然災害の後に活動に行くユニットなども、ハンドラーの勉強と訓練ならびに、犬のストレス耐性の選考テストを更に受けます。以前ドッグランで出会った介助犬のハンドラーの方が言った、「犬は、テストに受かってからが本番よ。」という言葉を思い出します。ひとつの課題をクリアしても、またより複雑な課題が現れて、常に勉強が続きます。


 話は変わりますが、エネルギーと言えば、作業犬界隈の人々の書いているものを読むとしばしば「ドライブ」と「エナジー(エネルギー)」という単語が出てきます。「ドライブのある犬」とか「ハイエナジーな子犬」とかいう風に使われますが、人によってことばの遣い方が微妙に異なるような気がしていました。混同しがちなこの言葉について、自分なりにいろいろ見聞きした情報をもとに意訳してみると

 ①ドライブ=犬の本能に根差した動機 作業欲求につながる
 ②エナジー=犬の魂に根差した欲求 感情のパワー(動機を実行する力)

みたいなところでしょうか。こうしてみると良い作業犬というのは、ドライブとエナジーが高いレベルでバランス良く備わっていてることが大事だと分かります。ドライブには種類(フード・ドライブとか、レトリーブ・ドライブとか)があるとされますが、その中でも作業犬に必須なのはプレイ・ドライブ;狩猟への欲求だと言われています。簡単に言うと食べ物よりもおもちゃに執着するタイプの犬がこのカテゴリに含まれます。

 先祖代々作業目的で増やされてきた系統の犬というのは、このエナジーレベルとドライブの度合いに相関があって、程度の差はあれ、生まれてきた時点でこれらを併せ持っていることが多いですね。でも、ほかの系統の犬や、ミックス犬の場合でもハイエナジーかつハイドライブの犬は居ます。反面、こういう犬の中でエナジーレベルは高いのに、ドライブはそんなにない・なく見える、という犬も、わりとよく見かける気がします。


フレンチブルドッグによるIPO3の実演

 ポイントは、「エナジー」は生まれ持ったもので生涯変わることがないその犬の性質ですが、「ドライブ」に関しては、犬のもともと持つ興味の方向性に合わせて人がディレクションを与え、共同作業の経験を通して高めてあげることができるという点です。ドライブが高まると、「もっと作業をして、成功したい」というルーティーンが生まれ、ある作業を成功させるというその過程において、エナジーの捌け口も生まれます。レスキューやシェルターから犬が貰われてくるとき、しばしば「オビディエンスのクラスを受けてください」と言われるのは、こうして犬のドライブが高まっていく過程において、犬の中で飼い主自体に対する期待と執着(=ヒトから見た「絆」)が強まるからだと思います。

 一般的に作業犬とされる品種じゃなくても、ハイエナジーな犬は、ドライブの方向性を見極め、能力を育ててあげることで本当に色んなことが出来るようになる可能性を秘めていると思います(上のビデオをご覧下さい)。ただ、これらのダイヤの原石達は日常生活のなかでは扱いにくい傾向にあると思うので、純正なコンパニオン・ドッグを目指したいという場合には、五段階評価で言えばドライブ3/エナジー2、みたいな犬が良いのではと思います。[note:]上のフレブルは体格やハンドラーの様子等を見るに、もともと優れた犬が優れた訓練技術のある人に育てられたものと推測します。やればどんなフレブルでも出来る!という意味ではありません。

 なんてなことを考えながら、日曜日の犬トレ通学していました。犬の「ドライブ」と車の「ドライブ」をかけたつもりだったんですが(え~)、、、行って帰って2時間以上、山を越えて美しいバージニアの田舎道を走るので、本当にさまざまなことを考える時間があります。子供漬けの1週間の貴重な癒しと言えます。




2018年6月20日水曜日

もしかしたら、明日かも知れない



 ふた月ほど前の誕生日に、「1日娘なしデー」を自分で申請・自分で手配(笑)していました。子供が生まれてから3年近く、1人だけで朝から晩まで過ごせたことはなかったので、すごく楽しみにしていました。前から行きたかった、地域の生物関係の協会がまとめている両生類の生息状況を調べる会へと行くことができ、ドライブ往復5時間(車の中で大声でチャゲアスを歌いやばい解放感を味わう)、歩きまくり両生類や昆虫の写真を撮りまくり、沼地でジャブジャブして、とても楽しい日曜日を過ごすことができました。結果、気に入っていたボロ靴が、さらにボロく沼の匂いまでも発するようになってしまったので、腹をくくってスポーツ用品店に行きました。その時のことです。

 「練習中」のベストをつけたコディと一緒に靴のコーナーでうろうろしていたら一人のおばあさんがやってきました。犬を撫でてもいいか聞いてくれたので、どうぞどうぞと言ったところ、「大きな犬が大好きなの」と、かがんですごくうれしそうに撫でていかれました。小柄な方だったから、コディのくさい野性的なアロマ溢れる被毛に、顔をうずめんばかりです。普通、こういう所だと、1~2分くらい撫でるとみんな立ち去るものですが、10分以上撫でていて、本当に本当に犬が大好きなのだなあと思いました。

 家に帰ってから急に思ったのですが、あのおばあさん、もしかして何らかの事情で、家で犬を飼えない方だったのかもしれません。何も考えずに犬と暮らしている自分の環境を、考えさせられました。ひとはどんな時に犬を飼うのか……。日々の生活が、あるていど安定していて、今日と同じ一日が、おおむね明日も見込めて、自分と家族の面倒をみたうえで、「さらにだれかの世話をする」余剰分のエネルギーがあるから、はじめて踏み切れることですね。そうやって考えると、ヒトの短い一生の中で、自分の犬をもてるということは本当に得難い、恵まれた出来事です。

 自分だって、いつか犬が飼えなくなる日が来るはずです。もしかしたら、明日かも知れない。そうやって考えると、自分の犬と今、出来ることをすることは大事だと思わされました。ほんとに月並みな言い方なのですが、犬がいるこの一日、一日を大事にすること。もし明日自分になにかあって、コディが知らない誰かにもらわれていったとしても、迷惑をかけずに一生かわいがられて幸せに暮らせる犬にしておくこと。娘にも、犬への指示の出し方を教えていなかったですが、今日から始める事にしました。私の事をリーダーだと信じ、一生懸命ついてくる犬の「頼れるオヤブン」であり続けるためには、自分の健康にも気をつけなきゃなと思いました。

 犬の期待に応えようという、鉄より硬い責任感の芽生えです(遅い?)。そうやって考えると、私の犬は私をより強く人間らしくしているといえるかもしれません。犬がヒトを人間にするって、おかしな話です。そんなことを考えていた日でした。

2018年5月4日金曜日

犬も血で飛ぶ



 ジブリの映画「魔女の宅急便」の中でキキが絵描きのウルスラに、「魔女は血で飛ぶんだって」というシーンが出てきます。子供の頃は何の事を言っているのか、全く意味が分からなかったこの台詞ですが、「血筋」の中に受け継がれる特別な性質だとか、性格傾向というものが確かにあると分かるようになった今では、短いながら言い得て妙だなと思うフレーズのひとつです。


🐩


 娘のための児童書を借りに、バージニア州アナンデールにあるジャパニーズアメリカン・ケアファンドの図書館にお邪魔していた折、たまたまこんな本が目についたので、手にとりました。「盲導犬になれなかったスキッパー」、著者の藤崎順子さんは地元DCの方のようで、本の中にこんな風にきれいな字でサインが入っていました。スキッパーは盲導犬候補の子犬の時にパピーウォーカーの藤崎さん宅に来ましたが、盲導犬の選別に落ちます。しかし、譲渡先の警察犬訓練施設でサーチワークの才を見出され、数奇な運命を経てイタリアの空港で爆発物探知犬として従事、引退後、また藤崎さんのもとへ戻ってくるという、ドラマティックな一生を送った犬でした。

 この本を読んでみて私がただただすごいなあと思ったのは、犬の「血の力」です。特別な目的があり、そのために選別・繁殖を重ねた犬というのは、均一で安定した素質をもっています。盲導犬の例でいえばスキッパーの様に、たとえ犬の事に全く経験のないパピーウォーカーに預けられたとしても、きちんとベーシックなケアとしつけさえ受けることが出来れば、1年後ちゃんと盲導犬の卵として選別テストの場に立つことが出来る。誰が育てても同じような成果物が得られると分かっているから、パピーウォーカーというシステムが成立するんですよね。これはとてもすごいことです。

 セラピードッグ・インターナショナル(TDI)のウェブを見ていても、似たような事でハッとすることが書かれていました。 “A Therapy Dog is born, not made ; セラピードッグは作られるのではない、そう生まれてくる”という一文です。犬のマナーやスキル面は、トレーニングで幾らでも補う事が出来るが、持って生まれた気質を曲げることは難しいし、そうすることは犬の為にも有意義とは言い難いでしょう。




 とまあ、そんなことをだべっているうち、コディのTDIテストの日がやってきてしまいました。話が長くなりそうなので、一旦ここで切ろうと思います。次は(果たして興味がある人がいるか分かりませんが)アメリカのセラピードッグのテストでやったことを、少し書いてみようと思います。コディの、テスト前最後の練習をしてもいいか問い合わせたら、快く迎え入れてくれたメリーランド州ウィートンのWestfield Wheatonモールのマネジメントの皆さん、喋って私のテンションを鎮めてくれた友人E氏、および写真を撮ってくださった兎に角みんなでアメリカ生活のちえぽん氏に、深く感謝いたします。


2018年4月29日日曜日

犬種セレクター色々

狭い台所に犬、子供、玩具も人もぎゅう詰め。 箸?もちろんテーブルに直置きさ!!(爆)
広い庭付き一戸建てに住めたらなあ。しかしコディは常に人とくっついてられるので嬉しそう。


 「ちいさいニンゲン」がいたずらばかりしています。少しでも目を離すとぴゅーっと道に出たり池におちてオムツが池の水でタプタプになったりするので、ダッシュで追いかけます。ありとあらゆる事に世話が必要な割に、子本人は人の助けを借りないで自力で行う事に価値を見出していて日々凄い数のエラーを繰り返すので、一日が終わるころには(主に後始末などで)笑えるほどくたくたになっていることが多い。人類史のなかで過去数万年間、10代や20代の若者が集団で行ってきた「子を育てる」という作業を、30代も半ばの、群にも所属してない「中年ハグレ♀」が行おうとする事の意味を日々噛み締めています(苦い)。

 そんななので、子を寝かせた後、PC上で何も考えなくてもできるアクティビティが癒しになっています。いつもは、描画ソフトで絵を描いたりして遊ぶことがおおいですが、今日はそれをする元気もなく、死んだ魚の目をしながら犬種セレクターに条件を入れて、出てきた犬種をただただ眺めるという境地に到達していました。そんな折、犬種セレクターにもいろんな種類があることに気が付きました。感心したりえ~と思うような面白い結果もいろいろ出たので、やったものをメモしておきます。※「正確度」は個人の独断によりです。



犬情報サイト「犬と歩けば」あなたにピッタリな犬種は?

正確度★★★☆☆

ファンシーな情報サイトの一部についてるサービスなので、正確さはあまり期待してなかったけど、目安としてはけっこう参考になる結果がでた。答えに出てくる犬種自体はあまり多くない。幼児がいるという条件をいれると、グレート・ピレニーズやバーニーズ・マウンテン・ドッグ、レトリーバーしかチョイスになくなる。

アイリス あなたにぴったりの犬種は?

正確度★☆☆☆☆

設問が4つしかなかったので、正確度は低いですが、聞いてくる質問がおもしろかった。合ってる犬種に「朝髪型がキマるかどうか」も関わってくるらしい!「車好き」かどうかとか。結果、自分に合う犬種はミニピン一択だそうです(笑)ミニピンは可愛いと思います。

CAIRKweb あなたにピッタリの犬種をみつけよう

正確度★★★☆☆

設問の数は16とまずまずですが、犬の散歩時間の選択肢上限が「毎日1時間ていど」とあった。このセレクターに限らず、他のセレクターでも「散歩の上限が1時間」は散見されるけど、ちょっと少ないなあと思ってしまう。私はおそらく、「子供」が条件に入るためかワイマラナ―、フラットコーテッドレトリバー、ゴールデンレトリバーが出る結果が多かったですが、特にワイマラナ―は散歩1時間では無理なのでは。


④IAMS犬種セレクター・ツール 日本語版 英語版 

正確度★★★★☆

「結果」で選抜された犬種をチェックして、dog breed compare toolという機能で比べられるのは画期的だと思った。英語版は読まずに絵でポチポチ押していけるので、テストがさっさと気楽に受けられる。自分の場合、ハンガリアンクーヴァース、アナトリアンシェパードが入りました(クーヴァースがわりと訓練が入りやすい犬だとは知りませんでした)。また、これの英語版で初めてジャーマンシェパードがチョイスに入ってきましたが、日米における「ファミリードッグ」の概念の違いを感じたような気がして、おもしろかった。(2019/7/20追記):日本語版は久々にアクセスしたら閉鎖してしまったようです…残念。

PURINA Dog Breed Selector

正確度★★★★☆

すこしでも向いてるとおぼしき犬の犬種をこれでもかと沢山列挙してくれるので、アイデアが欲しいときには便利かもしれないです。あと、犬の外見とかでなく、運動量の質問が最初に来る所に好感がもてた。私は、ノルウェイジャンエルクハウンドが選択肢に入りました。そういえば、いつも行くドッグパークにエルクハウンドが数頭いて、最近少し人気が出ている印象があります。でもオーナーの人曰く、敷地内でよく吠えるのと、社会性が育ちにくい、訓練が入りにくいので、「ペット」という感じではないそうです。でも、シバやコリアンジンドーからの比較で言えば、スピッツ系の中ではマイルドで飼いやすい方だと思うのですが。

AKC find a MATCH

正確度★★★☆☆

週にできるトレーニングの量で、最大値が10時間+になってました。一日約2時間くらいかな?楽勝楽勝!幼児がいなければ!!!(笑)でも、何回かやってみましたが、ベルジアンマリノワ、ノバスコシアダックトーリングレトリーバー、スウェディッシュバルフント、フィニッシュスピッツなど、アメリカではともかく、日本では入手しにくい犬ばかりが選択肢にあがりました。

ほかの犬種でも言える事ですが、理想を言えば、自分の家から車で行ける範囲に2、3件ブリーダーがあるような状態がいいと思います。コディの時に色々見て回ってても感じた事ですが、ケンネルが実際に会って話せる距離にあることは非常に助かるし、それに、同エリア内にブリーダーが複数あるほうが競争が生まれるので、犬の質が良くなると思う。一番リスクが高いのは、一度も訪ねることもせずに、遠くに一軒だけあるレア犬種のケンネルとかから犬を送ってもらおうとすることです。このあたりはもうどうしてもそうならざるを得ない理由もあると思いますが、やはりネックだと思うのは人間、実際に会ったこともない人に、生まれた胎の中から一番いい子犬を譲ることは絶対にありえないと思うので、理想を言えば、会って一緒に食事をするくらいのことは出来る距離が良いと思う。

Dogtime.com Dog Breed Selector

正確度★★☆☆☆

犬種という意味ではこのセレクターが一番列挙してきました。ただ、挙げてきた犬の傾向がわりとバラバラで、頼りになるか?と言われたら微妙かな…、、、シュヌードルとかゴルダドールとか、正確には「犬種」ではない候補も入っていたので、とにかく自分の用意できる環境に少しでも掠りそうな犬をたくさんチェックしたい、という人向けでしょうか。というか、ここまでセレクターを沢山やってみて、それぞれが出してくる候補にかなり幅があることが分かりました。こういうのの中から繰り返し出てくる犬種というのが本当に合っている犬、という意味では色々試す事にも意味があると思いました。

Animal Planet Dog Beed Selector

正確度★★★★★!

このあたりで吹っ切れて「子供」を考慮しない解答をしました。ベルジアングローネンダール(99%)、ベルジアンマリノワ、ジャイアントシュナウザー、ベルジアンタービュレンと、私の趣味がこれ以上ない程丸出しの結果に(一点だけ、私はジャイアントシュナウザーよりブラックロシアンテリア派です)。趣味と自分に合った犬種が合致するのはとても幸せな事ですが、それが現実、実現不可能と分かった時の悲しみも半端ではないので悲喜こもごもですね。


 では現実逃避はこのへんにして、就寝しようと思います(死んだ魚の目)。これから犬を飼おうと考える、どなたかの参考になれば幸いです。


2018年4月24日火曜日

犬の友情

友達犬同士の挨拶。手早くスムーズかつリズミカルな犬グルーヴ


 東京でドーベルマンを飼っていた頃は、学生だったのもあり、犬と外出するといえば深夜と早朝のランニングやサイクリングが主なもので、他の犬や飼い主と交流することは殆どありませんでした。それが3年前に今の犬が家族に加わってからというもの、ドッグランに頻繁に通うようになり、「犬にも友情がある」という自分史上、世紀の大発見がありました。

 多頭飼いや、もともと社交的でイヌとどんどん出かけていた人からしたら「なんだ、今さら」というような事かもしれません。でも、子犬の時から自分の犬の目を通して、その犬と犬がどうやって出会い、どうして仲良くなったか。それからどんな事があったのか、その全てのストーリーを網羅する立場になってみたら、個体と個体の間に確かに存在する絆と、原始的な友愛の姿に感動しました。


牧羊犬大行列 コーギーオーナーの女性のコーディネート(フレキシ二丁ぶらさげ)にも見惚れる。



 今日は、一年前に自分達の住むエリアから引っ越してしまった、ボーダーコリーのニックと、コディが再会した日でした。ニックのお母さんが、ずっと車を飛ばして会いに来てくれたのです。コディもニックもそれはそれは喜び、これみよがしに相手の首筋にアゴをのせたり、相手の上に乗っかったり、ドヤ顔で肩に手をかけたり、若いオス同士特有のわざと「ウザい」事を連発して、遊びを始めようとあの手この手でがんばっていました。


ずっと離れていても、ニックの頭蓋骨の味わいは変わらないようです。歯ざわりがいいのか?
ニックのお母さんは、コディの口の中に自分の愛犬の頭がスッポリ入ってる状態が好きで、黄色い声援を飛ばしていた。


飛行機と、走っている車の車輪と、浜辺のさざ波が大好きなニック。
放っておくと足が擦り切れるまで追うので、「さざ波追いかけ用」のクツを持っている。

ニックのお母さんと。
犬は、自分の仲のいい犬の飼い主とも仲良くなる傾向があるように思う

耳どこいった

 楽しい再会はあっという間に過ぎ、すぐまた分かれ分かれになる時が来てしまいました。別れを惜しみながら帰る準備をしていた時、ニックがコディの方に近づいてクンクンクンとにおいをかいだかと思うと、カジュアルな感じにヒョイッと足をあげて、おしっこをかけました。

 過去三年間ほぼ1日1回はドッグパークをひやかしている自分ですが、こんな風に犬が犬にマーキングするのを目の当たりにしたことはなく、とてもびっくりしました。なぜかコディにおしっこをひっかける事を思いついたニックがいじらしく、飼い主どうしまた絶対2匹を遊ばせてやろうねと約束を交わし、パークを後にしました。
 


2017年10月19日木曜日

シェパードをアダプトすること


 散歩中、犬好きの人とすれ違って話しかけられ、その人が以前ボランティアをしていたというミネソタのレスキューグループの話になりました。会話の中でその人は、「私は『純血犬のブリーダー』という職業、趣味をサポートしない!不用品として捨てられる犬がこんなにも多くいるのに。」と話していたので、ブリーダーの所から来た犬を飼っている私は若干居心地の悪い思いをしたのですが、実はこういった経験は、今までにも何回かあります。

 アメリカでは「犬をシェルターからもらう」という事がかなり社会に浸透してきていて、本当に様々な取り組みがされています。私がよく読んでいる犬のウェブマガジンでも、こんなふうに「Second Chance Movement」等と銘打って、たとえばこのプロジェクトのページをスクロールしていくと、下の方には愛犬がシェルターから来たことを表明する様々なグッズが販売されていて、売上が保護団体等に寄付されるという仕組みになってたりします。






 なかなかファッショナブルだし、メッセージも、犬好きだったら、思わず「いいな!」となりそうな感じ(自分だったら、グレーのシャツに翼の生えたロゴのやつがいいですね)。けれどもこれは、愛犬をシェルターやレスキューから迎えた人、慈善活動に寄与した人だけが着られる言わば「選ばれた者の服」であり、身寄りのない犬を助けるという行為のブランディングが、非常に上手に出来ていると思います。


 私が犬を飼う時「シェルターから迎える」という選択肢がなかったのは、長い長い(ほとんど2年に及ぶ)選考の結果、自分の用意できる環境に合ったシェパードを飼おうと考えていた私にとって、また、これから乳幼児が家族に加わるという状況を踏まえて、「シェルターはシェパード(系の犬)をもらってくる場所として最適ではない」と、熟考に熟考を重ね、判断したためです。


たまたま通りかかった、地域の里親会にて。
写真のこの方はとても上手に子犬をハンドリングしていた。


 まず、牧羊犬系の犬全般に言えることですが、彼らは記憶力にとても優れ、作業欲求が強いという点が挙げられます。これは犬種の美点ですが、こういうタイプの犬が見知らぬ一般家庭→シェルター→レスキューを経てくると考えると、この美点が裏目に出る可能性があります。

 不幸にして飼っているシェパードを手放さねばならなくなった家庭で、それまでどんな風に犬が飼われていたかが謎なのは、貰い手にとっては大きく不利な点です。もちろん大多数の犬は、必要最低限のケアはしてもらえていると思うけれども、たとえば基本的なしつけが分からないとか、他の人や犬と遊ぶ時の手加減がわからない、トリミングを全く受け付けない、などは保護された犬の間で比較的よく見るパターンです。ネグレクトや、日常的に叩かれたり蹴られたりのしつけ等、虐待を受けている可能性もあります。

 また一般の人からすると盲点なのですが、レスキュー等の保護団体に引き出された後も、犬達がきちんとした扱いを受けられているとは限らないです。自分のバイト先(メインにハイエンド犬用品と冷凍餌・プレミアムフードを扱っている)でも、レスキューグループと協力して里親会などを行っていると、「レスキューグループの人も本当にさまざまである」という感想を持ちます。

 人格的に素晴らしい人もたくさんいますが、一方で感情的な目でしか犬を見られない人、人対人のコミュニケーションが下手な人がいます。どう見ても経験が浅い人、トレーニングへの意識が低い人、古いトレーニング法に固執している人も、結構多く見かけます。いつも金銭的にギリギリになっているグループもあります。そういうところは犬が過密になっていたりして、世話が行き届かず、人手も足りず、汚れた子犬を店で洗ってあげたこともあります。里親イベント等の日になると、ごった返した人々の中でもみくちゃになり、吠え続ける子犬を手荒に扱うボランティアを見かけたこともあります。これなどは、あるべき姿とはかけ離れた環境だと思いました。

 シェパードは特に学習能力が高いので、しつけにすぐに反応するかわりに、悪い癖を身に付けるのも早いものです。飼い主に対する高い忠誠心もアダとなり、新しいオーナーを心から信じてついていくまでに長い時間を要する個体もいます。どのような出自か分からない彼らが、どういう人の手を介してくるのか(=どういう学習をしてくるのか)不明、選べないという事は、非常に大きなリスクと言えます。


クレートの中で、おりこうにしている兄弟犬。コリーのミックスかな。
とてもかわいい。

 そして、健康の問題があります。

 現代のジャーマンシェパードのジーンプールには、諸説あるけれどおよそ150の遺伝性疾患を引き起こす問題遺伝子があるとされ、計画的な繁殖と、生まれた子犬の健康状態の経年推移を観察する事が、近年特に重要視されています。

 ジャーマンシェパードはアメリカでは非常にポピュラーな犬種で(Rレトリーバーについで全米第二位。AKC-2017)、毎年沢山の子犬が産まれています。ということはそれに比例して、いわゆる「バックヤード・ブリーディング」の率も高いと、容易に想像することができます。Gシェパのバックヤード・ブリーディングは、シェパファンの間ではすごく賛否両論のある話題で、ひとつの大きな理由が、この生まれてくる子犬の健康への大きな不安、犬質のばらつきにあると言えます。

 コディのシェパピ仲間にも、バックヤード出身の子が何頭かいましたが、気質的にも健康的にも全く問題なく育っていく犬もいました(※)。一方、若くして神経系の病気を発症し、それがもとで階段から落ちたり脱臼を繰り返す個体、ある日歩き方がおかしいと診察に行ったら、若いのに股関節形成不全と診断がおりてしまったりとか、日常生活に支障をきたすレベルのシャイさであるとか、また体は健康そのものだけれど、成犬のオスなのに20キロいかない犬になったとか、そういった出来事が実際に身近なケースとしてありました。(※…厳密には、その犬の一生を通した健康状態を見なければいけないわけですから、最初の数年間だけを見て「この犬は健康だ」という事も、ムリがあるわけですが。)

 犬の世界は広大なので、犬種スタンダードを重視しなくとも、目的を持ってクオリティの高い犬を生み出している個人繁殖家も存在します。しかしそのような人々は、バックヤードブリーダーの総数と照らし合わせれば極めて少数であり、総合的に見れば、犬と飼い主の人生に苦痛と深刻な影響を及ぼすかもしれないバックヤード・ブリーディングと、そこから来る犬には非常に高い潜在的リスクがあると言えます。


 だからと言って、ブリーダーを十把一からげにいけないものとするのも、誤っていると感じます。ブリーダーの正しい像とは、「犬種をよりよくしたい」「責任感ある人々に、犬種と言うアートをつないでいきたい」と、日々時間とお金を惜しみなく注ぎ、勉強やスポーツ、ショーイングに取り組む姿勢を持った人々で、そんな彼らは積極的に支持されていくべきだと感じます。私が思うに、犬のレゾンデートルとは「作業能力」であり、作業能力の追及の結果生まれる「犬種」とは、犬と人との文化史のなかで重要な概念であり続ける、と考えるためです。だから、一概に「ブリーダーだからといって、サポートしない」という、冒頭の人の様な立ち位置もまた、マクロな視点では犬の世界のためにならないのではないかと、私は思います。

 「犬の作業」とは、なにも警察犬や麻薬探知犬みたいな、高度なものばかりとは限りません。「よき家庭のコンパニオンである」という事も、立派な技能であり、そうであることは犬にとっての「作業」になり得ます。

 自分の犬がものを壊したり、他の犬に吠えたりする心配なく、安心してどこへでも連れて行くことが出来るか。リードを引っ張らず、楽しく散歩をさせてくれるか。子供やお年寄りと適切に関わるか。何らかの理由でリードが切れたり、手から離れても、呼べば必ず戻って来るか。知らない犬や人にも、落ち着いて挨拶できるか。道に落ちているベーコンを「leave it」出来るか。細かい、なんてことないことのように聞こえるかもしれないけれど、「一緒に暮らしやすい犬」「よき家庭犬」が極めねばならない事ばかりです。優れた家庭犬に求められる技能とは、犬の本能とは逆行するタスクも多く、本能を駆使して行う作業よりもある意味困難なものも多いです。これらをどんな状況下でも安定して出来る「優良家庭犬」とは、良い素質を持った犬が、絶え間なく練習を繰り返した結果、至るところと言えます。

 少し脱線してしまいましたが、ここまで読み返してみて、もしそれでもシェルターからシェパード(系の犬)のアダプトをするとなったら、自分ならば ①自分の求めるラインの犬を増やしているブリーダーに里子にもらえる犬がいないか聞いてみる → ②シェパード専門のレスキューに問い合わせ、できれば若い犬を探す、のがいいんじゃないかなと考えました。犬種専門のレスキューは、犬がちゃんと扱ってもらえている可能性が高いし、知識が豊富な先輩とつながりが出来て、知恵を授けてもらえる可能性が高い事が最大のメリットです。

 とりとめもなくいろいろ書いてきましたが、将来的に娘がある程度大きくなったら、ファンドレイズの手伝い等の形で、レスキューのシェパードと何らかの形で関われたらなあ、という気持ちもあります。とにかく犬って本当にいい生き物だなあ、と思う事が年々増えてきたから、その犬をとりまく私達人間のほうが頑固になったり、排他的になるのではなく、協力してより良いヒトーイヌ間の共存法を目指していけたらいい、と思います。



2016年3月4日金曜日

ピットブルのこと


 新年早々ランで犬にはねられ華麗に宙を舞ったばかりの私でしたが…

 ドッグランでコディの事を気に入らなかったらしい、大型のオスのピットブルが、歯を剥き出しで突進してきました。コディはそれ以前にも地面にころがってお腹を出して、好きなだけオシリの匂いも嗅いでもらって、どこまでも低姿勢だったので、「大丈夫そう」と思った矢先でした。

 向かってきたきた犬とコディの間に入った時、スキー用のグローブをはめた手に衝撃を感じ、その時は相手の歯がちょっと当たった程度と思っていましたが、場が収まってからしばらくすると、左手が痺れてズキズキしていることに気付きました。手を出してみるとなんと!小さな穴が開いて、傷口の大きさのわりにびっくりするくらい血がたくさん出ていました。帰りに薬局でベタダイン(日本のイソジンみたいな薬)を購入し帰路につきました。

 奇しくもこの日は夕方からの獣医さんのアポイントメントで、コディの去勢手術の日程を決める事になっていました。不運だったとはいえ、ランでこのように成犬オスから厳しくマークされたのは初めてのことだったので、そろそろ潮時かも知れないと感じました。本当は月齢16カ月から24カ月の間でと考えていたところを、日程を早めて14カ月目(=今月)に行う事に決めました。※ここから先はピットブルに関して超ながながと自論・暴論?展開しているので、よかったらそれでもOKな方だけお読みになってください。


ランに嫌な思い出を残さないため、同じ場所に午後もう一度訪れた。
ほとんどハスキーちょっぴりウルフmixの女の子とは以前からの仲良し。


 それにしても、ピットブルほど「人を憎んで犬を憎まず」だと思う犬はいません。

 この現象、アメリカだけかもしれないけれど、カジュアルな感じでピットブルを飼う人が、とにかく多すぎるように思います。またこの犬種は基本的にラン向きではないと思いますが、(子犬・若犬のころなら楽しめる個体も多いですが)無理にランで遊ばせようとする人も目立ちます。

 犬の事について真面目に勉強していないオーナーがとても多いのも気になっています。今回の犬の飼い主さんも、自分の犬の様子は一応ちゃんと見ているものの、犬の出すサインをあまり理解しておらず、自分の犬が他の犬にものすごくマッチョにしているのが全く分かっていないようでした(それどころか「ジュノー、ナイスよ~」と褒めていた)。たまたまその場に居合わせた別の飼い主さん曰く、コディが来る前にも何度もほかの犬と小競り合いがあったそうなので、パックドライブの強い犬で、恫喝癖がついていたのだと思います。

 私は以前、とてもお世話になった知人がこの犬を沢山飼っていて、生れたての子犬と触れ合ったり成犬ともよく一緒に遊んだ、ほんとうに楽しい思い出がたくさんあるので、ピットブルには特別な親しみを感じています。いろんな個体と触れ合って私が知った事は、ピットブルはとても性格が良く、楽天的で人間に対して非常に従順なので、教えてあげれば本当に様々な事が出来る犬達だということです。わざわざランへ連れてこなくても、トレーニングやアクティビティを通して十分幸せにしてあげることが可能です。

 またもう一つ気になっている事があります。最近、この界隈でピットブルにポジティブ・レインフォースメント(+R)のトレーニングのみで頑張ってる人もよく見かけます。このあたりは意見が分かれるところと思いますが、個人的には、ピットにはバランス型の訓練が適すると考えます。バランスというのは、良い事をした時はどんどんクッキーを貰えて褒められるけれど、望ましくない行いをした時は、その行為に帰結(コンシークエンス)があるのだと犬が分かっているべきだという事です。

 このあたりは個体の差が激しい部分になりますが、非常に強い闘争心を持つように改良された過去のある一部のピットブルのドライブは、普通の飼い主には理解できない・普段のその犬の姿からは想像もつかないくらい激しい事があり、その分強いブレーキが必要だと思うからです。闘犬の本能とは、おなかに穴が開いたり、究極的には命を失うまで闘争を続ける可能性があるということであり、激烈な欲求です。クッキーや褒めでリダイレクトできる類のものではありません(繰り返しますが『一部のピットブル』についての話で、一般的には、蚊も殺さない優しい犬が大半ということは、強調しておきます)。

 気を付けねばいけないのは、自分の犬が一生のうち一度でもそういう、強烈な闘争本能に火がつく境地に陥ったとして、たとえその1回だけであったとしても、他者やほかの犬に致命的な危害を加えるのには十分なのだということを、飼い主がしっかり認識していなくてはいけないという点です。それを踏まえたうえで、ピットと暮らすのに最もたいせつなことは、飼養管理(マネンジメント)をきっちりとやることにつきます。周囲の人や動物も、犬自身も、安心して暮らしていけるライフスタイルを維持するためには、無用な興奮や争いの可能性のある場所を避け、観察と勉強を重ねながら、落ち着いた環境下で丁寧に犬を飼うことが不可欠です。


私がよく遊んでいたピットブル。ツギハギだらけの顔を擦り付けてくるかわいい奴だった。
元闘犬で、負けたのでポイっとボロ雑巾のように捨てられたのを、貰われてきた犬。
人間が大大大好きで、とても良いコンパニオン・ドッグの素質があった。

 いわゆる「強い犬」、ピットもそうだし、ロットワイラーやドゴ、マスチフ、アキタ、闘犬、護畜犬、etc.を飼ってる人は、「自分の犬との暮らしを楽しみたい」という欲求を満たす前に、まずは社会生活上の責任を果たすべきです。責任とは、犬を100%いつ・何時でも自分のコントロール下に置くことでありまた、このコントロールを得るために手段を選ばないという覚悟です。これは、オビディエンスどころか基本的なしつけにも手こずった先代のドーベルマンが教えてくれた事でもあります。書くとかんたんそうだけれど、犬の一生を通してやりきることはお金も、時間も、精神力も膨大に消費するので、「誰にでもできる」とは到底言い難いことです。

 今日はとりわけ長くごちゃごちゃとウンチクを書いてしまいましたが、とにかく日ごろ街や公共の場でピットがのけ者扱いになっているのが悲しいと思っていたので、考えていたことを書き連ねてしまいました。現状を見てると、自分なんか極端なのでシェルターでピット(含ピットミックス)のアダプトを禁止しろと思う事もあります。非常に残酷に聞こえますがこの犬種に関しては、シェルターが機能すればするほど、レスキューの人達が頑張れば頑張るほど、無責任な飼い主達の間で「飼えなくなったらシェルターに連れてけばいいいや(だれかがなんとかしてくれる)」という考えが蔓延するし、里子にもらったらもらったで、「うちのピットはシェルターから来たから」と、問題行動を正当化する魔法の言い訳を飼い主達に与えてしまいます。これは、問題の核心の一つだと思います。


2016年2月9日火曜日

村いぬ考



    まわりのアメリカ人達がよく使うフレーズに"It takes a village to raise a child"というものがある。子育ての大変さを表す日常表現でもともとはアフリカの諺だったらしい。

    先進諸国でも半世紀ほど前までは、 ヒトの子育てはコミュニティ全体のアクティビティだった。子供は村全体で色んな人が入れ代わり立ち代わり世話をして、さらに時間をかけてようやく一人前の「ムラビト」になっていく。

 いつか日本の新聞で読んだけれど、ひとりの子供を不自由なく育てるのには、最低成人4人分の手が必要だという。自分で小さい子を持ってみても、確かにそう思う。まわりの大人達がかわるがわる世話を負担しあえる環境にあれば、両親達は子供を持ちながらも一人の人としての生産性を失わずにすむし、小さいうちから様々な社会体験を積み重ねていくことは、子供達の心身の発達にも重要な意味を持つ。

コディと散歩中こんな事をとりとめなく考えていて、これって犬にも言えることかも?と思っていた。




 村全体で入れ代わり立ち代わり世話をして、時間をかけてようやく一人前になっていく。自分の記憶をたどれば、日本の田舎でも3、40年位前までは、ヒモに繋がれていない犬がけっこう当たり前にフラフラしていて、人の家の庭でせんべいやミルクにひたしたビスケットなどをもらい日向ぼっこしていたり、表で遊ぶよその子供達のお守を勝手にしていたりする、そんな光景があった。

 両親が好き勝手に恋をした結果生まれてきた子犬たちは、「犬は社会的な生きもの!子犬の社会化!!」と力まなくても、生身の人と動物が行き交う社会の中で、沢山の経験を積みながら育っていくことが出来た。今、自分達のいるモダンな「社会」は、そういった昔ながらの社会からはだいぶ進化?というか、異質なものになってきている気がする。

 もちろんそういう生身と生身の「リアルな社会」には暴力的な側面もあって、闘争なんかは日常茶飯事であり、「リアルな社会化」の過程でケガをしたり病気になったり、最悪死んだりする子供や犬も多くいたわけだから、手放しで昔・礼賛をしたいとは思わない。ただ、子育ても犬育ても、わたしたちの歴史過去何万年もの間、そういうものだったという点はよく覚えておかなくてはいけないと思う。


🐕


 先進国の社会では、小さな子供が悪さをすれば、それはほとんど100%親のせいになる。しつけの悪い犬がいれば、それは100%飼い主のせいである。けれどそれは本当にフェアなんだろうか?

 今の親たちは、飼い主達は、愛情に満ち溢れたよい母親、よい父親であるだけでなく、本来村一つ分かけて用意するほどの環境を一人でとってかわれるほどの、優秀な教育者であることを求められる。どんどん長命になる年長の家族の為に、「良き娘」「良き息子」でもい続けなくてはいけない、そうするためには心身共に非常にタフでなければいけない。さらに仕事をすれば一個人としての生産性をも厳しく追及される。それらは本当に可能なことなのだろうか?

 週末のドッグランのベンチで、ノーメイク、または無精ヒゲを生やして、疲れた顔で携帯電話に顔を落としている人々がいる。以前なら「犬の監督をしないで、無責任だな」と思ってみていたが、最近だんだんそう思わなくなった。もちろん迷惑なことに変わりはないし、ほんとに無責任な人も中には含まれるかも知れないけれど、ハードワークの文化があるここ北バージニアにおいて、家庭でも職場でもタスク・タスクで、週末太陽の下で45分間だけの「マイタイム」をぼーっと過ごしたい人々もいるのだと、今は分かる。そんな貴重な時間をわざわざ愛犬のためにドッグパークで過ごそうと考えた時点でむしろ、とてもえらい人達なのではないかとも思うようになった。






 なんてな事を考えながらバージニア州フレッド・クラブツリーパークをコディと歩いていました。せっかくうちに来たからには、コディにも立派な「村いぬ」になってほしいけれど・・・、そのためにはどうしたら良いのか?自分に何が出来るのか?生後1歳1か月を迎えて、考えています。