2024年11月24日日曜日

牧羊犬の「空間的感度」



 最近、夜中にこっそり娘のスナネズミ飼育コーナーに入って行って、こそこそハムスターフードを食べてるところを現行犯逮捕された犬の後ろ姿です↑。どうりでエサの減りが異様に早いと思っていました。大きな体をまるめて、静かにケージのまわりを歩き回り、小さなバケツに入っていたフードをぽりぽりと食べてました。

 おなかの不調になやまされたここ数週間だったのですが、その検査の結果も何も異常がなく、獣医さんにも「おそらく庭で『食べるべきでないなにか』を拾い食いしたと思われます」と言われたコディです。乳酸菌等サプリを処方してもらい(ハムスターフードも取り上げられ)、失われた体重も回復し、すっかり元通りにしています。

 「家が田舎で裏庭が野原になっている」と言うと犬を飼ってる友達などにはいいね!と言われることが多いですが、落ちてる異物を見つけるのはほぼ不可能だったり、野生動物の出入り(=招かれざるバクテリアやウイルス・寄生虫の出入り)や、時には何かの死骸があったり、時期によっては化成肥料が撒かれていたりと、ペットにとってはわりとリスクもある環境です。犬の安全と健康をとるか、自由と冒険をとるかというジレンマがありバランスがむずかしいです。


じー(凝視)

 ところで、最近たまたま目に留まった文章で牧羊犬についてのおもしろい言葉が出てきました。Spacial Sensitivity、私の翻訳機は「空間的感度」と訳してくれたのですが、日本語ではほとんど聞いた事がない言葉です。これはspatial awareness、空間認識(能力)とやや近似したコンセプトだと思いますが、牧草地などの平面上に散在する家畜をまとめるために非常に優れた空間認識能力を生まれ持つ牧羊犬が、その一面として持つ空間に対する感受性とか過敏さ、と言えると思います。これについての記述が面白いのです。

”…これは牧羊犬のもう一つの奇妙な特徴です。牧羊犬は周囲の空間を敏感に察知し、他の犬、家具や壁などの物体、人など、何に対しても近づきたがりません。犬の首輪に手を伸ばそうとしたのに犬が後ずさりした経験があるなら、それは空間過敏症です。牧羊犬の中には、空間過敏症が顕著で、飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬もいます。そうなると、当然、犬をつかんでリードをつけるなどするのが非常に難しくなります。…”

と書かれていました。これはすごく面白いですね。犬のまわりにスペースみたいなものがあるということですかね。いったい、この世界がどんなふうに見えているのか聞いてみたくなります。今まで実際に働いているプロの牧羊犬は何度か見たことがありますが(例)、非常に賢い一方で、なんか野生の動物みたいなところがあったりペットとしては困った行動をする犬が多く「この子らは獣医でおりこうに出来るのか」という純粋な興味があります。こんど獣医さんに行ったら聞いてみようかな(飼い犬の年齢がら獣医のことが気になる人)。


うちの犬はあまりおりこうではないです

 そういう目で見てみると、一応牧羊犬の端くれであるコディもちゃんと(?)この「飼い主から数フィートの距離を保とうとする犬」の片鱗があるので感動してしまいました。今でも何もない草地などに自由にさせるとそのような行動を見せます。コディはまた、若い頃は確かに首輪を掴まれることを嫌がったので、それでしばらく練習をしたことも思い出しました。このブログの中でも何回か書いたと思いますが、撫でられたり体に触れられることも本質的にそんなに好きではなかったです(なでられるのは後から「良い事」と分かったみたいです)。これらは「犬が自分のまわりにある空間をはっきり認識してる」ためだったのかも知れません。

 また、コディが大きな体にも関わらず私自身や家具にぶつかったり、足元に置いてある小さな植木鉢を倒したりといったことがないことについても、言いつけを守ってエライと思ってきたのですが、それも上に書いたような牧羊犬らしさと連続した特徴なのではないか?と思いあたりました。彼の場合「境界」をかなり明確に認識していて、柵などで区切られたスペースから出ない、いったん袋に入れられたものはどんなチャチな袋であっても出さないなど、自分なりに決まりをあてはめながら日常生活上のいろいろな要素について繊細に感じ取っていることが感じられました(ハムスターフードの『バケツ』は境界として認識されなかったようですが!)。


私の長年のペットであるヘビ(14才)の餌を買いに、ペット用品店へ。
娘が消えたので探したらネコちゃんの里親コーナーに吸い込まれていた

この子猫が可愛くて、差し出した指にそっと白いお手々を乗せてきました
「マーベリック」という名前のオスの子猫でした。幸せを掴んで欲しい



 今月は学校行事やコディの獣医などで町に行く機会が多かったなあ。幼児の帰りに町に昔からあるちょっとしょぼめのグロッサリー(食料品店)に立ち寄ると、すごい色のカップケーキや、砂糖でネチャネチャした生地にM&Mがこれでもかとちりばめられた大人の顔くらいあるクッキーが棚にぎっしりと並べられ、こうなってくると忙しかった2024年ももう終盤、という雰囲気です。

 最近時々思うのですが、いつか自分がばあさんになった時、私は、こういった日々の普通のアメリカの光景のことを非常に懐かしく恋しく思う時がくるのだろうと思います。砂糖とショートニングの味がする極彩色のカップケーキであったり、地元の無料の新聞についている、どうでもいいクロスワードを娘と一緒に解く日曜日の午後の日差しだったり、乾いた北風にゆれる無人のガソリンスタンドの、錆びた看板の空の雀の巣や、犬を車にのせて通り過ぎるアパラチアの山すその鄙びた家々であったり、私はキリスト教徒ではないけれど、祈るとしたら今なのだということを肌で感じて分かります。今日自分を構成する、ひとつひとつのものについて手繰り寄せ、丹念に確認し、感謝を捧げることが祈りの本質であるのだと。