2024年11月15日金曜日

まずは足元から・・・



 北バージニアの田舎地域では急にぐっと気温が下がってきました。若干の霜も降り始めたので、外に出していた植物を順次、中に入れています。表では、今年もすっかり役目を果たした棚の枯れたぶどうが晩秋の風に揺れています。枯草の風あいを楽しみながら歩いているといつのまにか犬の全身にくっつき虫が付着していたりして、ちょっと隙を見せるとすぐジャブを打ってくる感じがいかにも植物、いかにも自然、といった感じですね。こうした所に住んでいると、人間にとって自然というのは「常に全力で叩きのめさないと制御できない存在」という方が本質であって、私達が慈しんでいる部分というのは、自然という神が、自分の着物の裾かざりらへんでちょっと遊ばせてくれているのに過ぎないんじゃないのかなと思います。

 コディは久しぶりに子供関係の寄り合いに出席する可能性が出てきて、今週は近隣の街まで出てトレーニングをしていました。犬は、「練習だ」と分かると目がきり!として一生懸命です。セラピーワークなどを始め訪問の活動は長く続けられる良いライフワークですが、訪れる場所柄、あまり写真に残せない現場が多い点はちょっと残念です。 


千切れ雲の合間に飛んでいくハクトウワシが見えました


 そんな中ですが、実はここ2週間ほどコディのおなかの調子がよくありません。本犬は食欲もあってボール持って走り回っているのが救いですが、調子いい時と悪い時とが数日間隔くらいできています。すでに病院へ行って検査を始めていますが、まだこれといった要因が分かりません。私は炎症性腸疾患を疑っています。腫瘍などの可能性もチェックしないといけないので来週以降、さらに細かい検査をする予定です。

 また、今年後半に入ってから、後ろ足の筋力に少し衰えが感じられるようになりました。そこで遊びの一環として階段に前足をかけた状態でゆっくりとタテ・スワレをする動きをやっています。コディはここでも「練習だ」と分かると目がきり!として一生懸命です。でも『やるよ』と言うとカッとパワーが沸きすぎて「ゆっくり正確に」が苦手な犬なので、私がいつまでも厳しく合格を出さないと、耳を倒し前足ですがりついて「クウォ~ン」と文句を言ってくるようになりました😂。私も日本語で「ちゃんと落ち着いて丁寧にやんなさい」とか言い返したりして、もう、お互いに付き合いが長くなって遠慮がなくなってきてるわけです。笑

 犬は、前肢に意識が集中している生き物で後肢は工夫しないと重点的には使いません。この部分を鍛えるにはあるていどの負荷が必要になりますが、これが犬の場合かなりの難題です。特に体重のある犬の場合はすぐ膝などに負担がかかるので案外ちゃんと鍛えるのが難しい箇所だと思います。とにかく、腸と足元の健康は本当に大事だな、なるべく保存をと、地道にできる事をやっています。


番でしょうか、ハクトウワシがもう一羽続きます。見えるかなー

 そういえば前回ぶつぶつ言っていたアメリカの大統領選挙も終わりましたね。
 二大政党の応援合戦も終わり、どこかホッとしたような街のようすです。

 私とコディが今住んでいる村一帯は北バージニアの中でもかなりコンサバティブ(保守的)な地域ですが、ここに来る前に住んでいた街は逆にかなりリベラルな地域でバージニア州に住んでかれこれ15年弱、政治的には180°の環境を経験してきたことになります。それで気付いたことがあるのですが、ほとんどのアメリカ人はコンサバティブであれ、リベラルであれ、共通点がひとつあって、それは皆政治的な議論には熱心だけど、自分の足元に落ちているごみを拾うひとはあまりいないということです。笑

 リベラルな街にいた8年間は、特に印象的でした。その頃私は赤ん坊を背負ってコディのひもを腰に巻いて、毎週自宅周辺のブロックの歩道をブロワーで掃除したり生垣の伸びすぎた枝を摘み、落ちたごみがあればささっと拾っていたのですが(スモールトークが苦手なのでいつも超速で)、民家の間を縫うように進む公共の道はごみがたくさん落ちていました。それについては誰も気にしてない感じでした。わりと仲の良かったナチュラリストのご近所さんがある日「季節ごとにゴミ拾い作業員の方を雇うし、その人達の仕事を奪わないため」と教えてくれました。

 私はそれは変だな・・・と思いました。毎日通る道について「数カ月に一度大掃除をするから今は汚れてても平気」という考え方はまあなんとなく分かるけれど、なんか納得はしにくい。それに、ある地点のゴミの総量が減れば業者の仕事の質があがり、決められた時間内でより広範囲に清掃が進み、私達の生活の質も上がり、清掃業者のレビューも良くなって、みんなそっちの方が良いんじゃないだろうか?やはりもとからゴミが少ないに越したことはないはずだ、と思っていました。

 でもそれより気になったのは「誰かの仕事を奪わない」とか、なんとなくいいかんじの理由をつけてやらないことを正当化しているところでした。ゴミのことは単なる一例ですが、自分のすぐそばに散乱している問題に取り組まずに、自分だけは快適な部屋の中で地球環境とか、動物や女性の権利の議論に興じようという人、という図に、しばしば出会った気がします。大義のためには滅茶苦茶がんばるけど、自分自身や至近距離の人のくらしを良くすることについてはやけに力を出し惜しむような。でも別の見方をすれば私のような考え方も「些末な事にばかり気をとられて大局的でない」と思われるのだと思います。きっと、悪気もないのでしょう。

 でもアメリカ人て、これがたとえばユニフォームなどを作ってただのゴミ拾いを「#地域の保全活動」みたいな形に整えてあげると急に「コミュニティのために!!!」と、我先に飛び出してきてやってくれるところもあるんですよね。自由奔放に見えるアメリカ人ですが、ああいうのってメディアで見るごく一部で、一般大衆は意外と『体裁』をかなり気にしているし、常識から逸脱することにも過剰に警戒するように見えます。