2026年1月25日日曜日

いろいろ思うこと


 先週までの陽気と一変し寒波が通過中の北バージニアです。

 今回の寒波はいつもと違ってなんとなく空気にぬくもり?がある感じがします。山あいのこちら地域では、気温もずっとマイナス10℃台で、風も吹いているのでぬくもっているわけなどないのに不思議です。日曜日は一日中外で雪かきしていましたがとても捗りました。不思議といえば、今回のこの雪、すべて霰(あられ)で出来ているんです!よく見るとビーズみたいに、透明な氷の球体の集合で、「名和晃平さんの彫刻作品」みたいで可愛い雪です。

 コディはこの雪の中にいつも通り勇んで飛び出していき、それからふっと考える顔になったのち、手足を引っ込めたり持ち上げたりしながら小走りで帰ってきました。深い雪が足腰・関節にこたえるのでしょう。11年の犬生をかけてようやく「冬は寒い、雪は冷たい」と分かったのかも知れません。10年前、ドカ雪の中で遊んだ時の日記が残っていますが、こうして遊べたのも犬が若くて元気で、何にも心配のない私達だったからです。過ぎ去りし輝ける時間よ!思い切り雪で遊ぶ全ての犬と人間に幸あれ。


霰(あられ)の図 これ、木の枝や車に積もらないんです
停電になりにくそうで助かります

 コディと今まで本当に色々な冒険をしてきましたが、その無理がつもり積もって、今こうして歯は欠け・すり減り、紫外線で目は濁り、肩や膝も関節炎やら、耳もよくなりすぎて?しまったし、この飼い主のせいでより可哀想なシニアライフになっちゃっただろうか……と、雪遊びをしなくなったコディを見て今日はすまなく思っていました。

 口の中まで土だらけにして野山を走り回っている時、コディの瞳は輝いて本当に生き生きとして見えました。私はその表情を見るのが嬉しくてつい、次から次へと、いろんな冒険に連れ出し、さまざまなことを常に話しかけ、こまごまとしたスキルをことあるごとに教え、能力を伸ばしてセラピードッグをさせと、もしかしたらこの犬の生活をむやみに複雑にしてきたのかも知れないな。よかれと思って田舎に引っ越したことも、それによって出来なくなったこともいろいろありました。


雪の中の移動に手こずり、バツが悪そう


 11年目の内省としては「この犬の飼い方について飼い主として胸を張って言えることは何もないなあ~」ということです。自分が「これが良い」と思った判断が果たして正しかったか、それはだれにもわかりません。犬はそのとき・そのときを見つめて生きているので、わたしの方でもその場・その場で最良の判断をし続けて今に至りますが、それが長期的には、特に犬の健康などを考えると、プラスに働かない部分もきっといろいろあったはずです。


眠くて ぶたちゃんのようなコディ

 そういえば、引退した麻薬探知犬が、もう永遠に仕事する日は来ないのに、実働時代の名残で外出中常にボールを咥えたきりになっているのを見たことがあります。犬本人はもちろんその状態が落ち着くし、楽しいからやっています。それを見て思ったことがあるんです。そうやって命が燃え尽きるまで活動に従事するよう、そうやって幸福まで感じるよう「そう生まれてきた」犬の宿命とはなんと哀れで、愛おしいものなのかと。

 「そう生まれてきた」原因は、もちろん私達にあります。たとえば、鼻ペチャの犬は健康的でない、鼻ペチャの犬を繁殖することは人間のエゴだ!という人がいますよね。でも私が思うに鼻ペチャだけが人間のエゴじゃないんですよ。私からするとコディだって、疑いようなく私のエゴを具現化し昇華する存在です。ある見方をすれば、私がやりたがることを全て叶えるために、文字通り彼はいつも大喜びで身をすり減らしてきました。飼い主に「私はいいことをしている」といつも思いこませてくれました。この事そのものがこれまで連綿と続く人の「犬作り」の結果です。これは鼻が低いとか足が短いとかいうのとはちょっと比べ物にならないレベルの「生物の改造」です。

 純血種の犬だけに限らず、雑種などであっても、必ずその血筋のどこかで人の手は入っています。現代よりずっとずっと資源の限られた時代にも犬は飼われてきました。「役に立つ犬がほしい」「かわいい犬がほしい」———これらはわたしたち人の中にずっと強烈な動機としてあったはずです。そうやって犬の精神の構造(を司る脳の構造)までも人間が選別・制御を繰り返した結果が「犬」です。よって現存する犬とは、程度の差はあれ、すべからく人間のエゴ、都合と需要の産物です。

 鼻がぺちゃんこなのは命にかかわるからいけない、というのは明確で分かりやすいのですが、では、犬がこのような精神構造を持って生まれてきているということは、全く犬の命に関わらないと、私達ははたして言い切れるのでしょうか?むしろ、目に見えないだけで本当ははかり知れないほど多くの犬の苦しみ・孤独や死の源泉になっているのではないでしょうか?たとえどんなに乱暴で怖い主人でも、愛着を感じ好かれようと努力し、しっぽを振って付いていこうとするこの無垢な精神が、どんな肉体の構造よりも犬にとって不当で有害なものになりうることを私達は知っています。

 そうやって考えると、全ての犬を飼う人間が、自分の犬も含め、本質的には犬っていうのはみな私達人間の都合のためにあるべき姿、形、本能を曲げ、時に超・強化された形で生み出されてきたことを認識することに意味があると思う。そしてどんな犬の生もまた、程度の差はあれ、不可避的に私達の都合のために日々費やされているのだという事実について思いを馳せることも必要だと思う。

 私自身も自分の犬を含めてまわりのいろんな犬を思い出すと、思いつくほぼ全ての犬は「可愛い」か「ひとの役に立つ」か、その両方かに仲間分けすることが出来て(愛玩犬や老犬だって「愛情の受け手」として立派に人々の役にたっている)、ほとんど例外がないのです。もしこのどちらにも当てはまらない場合、その犬の命は人間社会では極端に粗末に扱われていたり、あるいはなかったことにされているのだ……なんてなことを、つらつらと考えていた今日でした。

 なんか、ここまで書いてみて、自分に反論したい意欲が湧いてきたな(笑)
 「犬という存在はそれだけじゃないんだよ、と信じたい自分」がいるのですよね。

 人間世界の倫理を凌駕する存在として「自由と超自然」を信奉する者としては、人の需要があるかぎり、鼻ペチャ犬は永遠に鼻ペチャ、ダックスフントはますます短足であっても仕方がなく、キャバリアキングチャールススパニエルを可愛がりたい人は、僧帽弁閉鎖不全症の治療費をたっぷり準備したうえで自由に可愛がるべきであり、それをいけないと思う人はそう信じて一生懸命戦えばいい。犬を捨てることは仕方がないと思う人がいれば、捨てられた犬を拾う行為をもって自らの善性の根拠としたい、という人があります。

 結局のところ、人間社会というのは、そういうひとの勝手と都合が激しく自由にぶつかる騎馬戦みたいな状態にいつもなってるのがいいんだと思う。倫理的には不衛生な状況なのですが、歴史を振り返るといつもこのストレス、不快感をバネにして、文化の発展が生じているように見える。そして犬達には、この宿命の檻の中で自ら更なる幸福を求める力強い生物として生きてってほしいと思います。


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