2021年6月30日水曜日

田舎生活の課題点

 ランチブレイク時のミニミニトラッキング(黄色い旗が目印)

 田舎エリアへの引っ越しから早くも8カ月が経過しました。仕事や子供のホームスクーリングもどきも大詰めを迎える中で、かなり忙しくしてしまい、コディにはその分しわ寄せが行っていたように思います(本犬はのんびりウサギの糞を食べたりして満足そうですが…)そんな中で、「田舎生活と飼い犬の健康ライフ」という観点から、2つほど気付いたことがあります。

 まずひとつ目に、田舎では犬との行動範囲がかなり制限されるということです。車を出してどこかへ行って…、というような事はもとより、ふだんの散歩などにおいても、畑あり、林道あり、雑木林あり、各家々の敷地などは広々としてスペース的には十分な見たかんじとは裏腹に、自由に立ち入らせたりできる所はほぼ皆無なのがちょっと残念な所だと思いました。これらの場所は私有地なのでもちろん勝手に犬を放して遊んだりといった活動もいけません。

 このような住環境に来るときめた時点で、そういった点は考慮してありましたが、計算外だった点は積極的に犬を連れだす主な人(私)がこのコロナでうっかり多忙を極めてしまったことです。その結果、コディの外出機会が目に見えて減少するという事が起こりました。加えて、都会や郊外では馴染みのある犬の運動や遊びを代行してくれる場所や、サービスなどにもアクセスできにくい状況です。モノとモノの距離が離れているので、飼い主が忙しいと、途端に社会化のための外出や、しつけ教室等に参加する機会も限られてきます。子犬や若い犬と暮らしている人にとっては特に死活的な問題です。「愛犬との田舎暮らし」は、自然がいっぱいで空気もよくてと、なんとなく先行するイメージとは異なり、大きく飼い主のマンパワーに依存した案外と脆弱なものであるという感想に至りました。

 またもう一点は、田舎の住環境で犬に与えられる運動が比較的単調だということです。道を延々と歩く…、、、林道を延々とウロウロする…、、、そういう運動が非常に多くなりました。これらの運動は気分転換やストレスを除くためにはとても大切なものですが、身体を作っていく運動とは異なります。コディは幸運なことに、犬生の初めの5年間を人気のない自然公園の横に住み、人工的な床での運動・昇降はもとより、自然の道や獣道、倒木の上を乗り越えて丘を谷を自由に駆けまわる生活を続けてきたわけですが、今思うとかなり恵まれた環境だったと言えます。現在の日々の運動の内容を見返してみると、以前と比べて見劣りがします。見た目からは分かりにくいですが、体幹の筋肉などはかなり失ったのかもしれません。こうなってくるとケガが心配です。何しろ、(後述しますが)完全にやる気が体力に先行している性格なので…。

 余談ですがアメリカの田舎の方のドッグイベントを調べると、アジリティ大会がものすごく多い事に気付かされます。今までは、実務になにも関係のない遊びの競技がなぜこんなにポピュラーなのかなあと思っていましたが、今回実際に似た環境に住んでみて、はじめてその理由を体感した気がします。アジリティは、単なるのドッグスポーツの枠を超えて人・犬にとっての社交の場、また犬に対してふだん不足気味な動きを要求するアスレチックの良さをバランスよく兼ねていることが人気の秘訣なのではないかと思いました。


みつけた~ (歓喜で目が血走る)

 今日の写真は、ランチブレイクの時にやっている「ミニミニトラッキング」のようすです。アーティクルは、コングにドッグフード(コディの昼飯)をつめたもの。旗を持ってコングを置きに行こうとすると「早くやらせろ」と、ヒンヒンヒャーヒャーうるさいです。でも、若い頃は私の前に陣取って天に向かってギャンギャン吠えたりしていたので、大分おとなしくなったようにも思います。とにかく、シャイロのわりにやる気がかなり強いのが面白い反面、心配です。遠くの豆粒のような害獣なども見つけると、50キロ以上の体でかくやと思うガチ走りを見せるので、とにかくフィットネスと付け加えてケガの種類やケガ予防について、真剣に考えているここ最近です。



2021年6月1日火曜日

だれかの靴を履かない事



 向いていないこと、やってもできないことをみとめる事ほど、自分の子供や愛犬に対してすることが困難を極めるものもないと思います。いちおう、教育関係の末席にひっついている者として、また地域の子供達を集めて勉強会兼プレイグループなどもしている中で、面談などの場になると必ずこの「うちのコができないこと(潜在的にその子に不向きな事もある)を、どう出来るようにするか」というテーマが、往々にして立ち現れることに感心を持っています。育児の命題のひとつなのではないでしょうか。

 この問いに関しては、人の子と比較すると犬などは動物であり、はじめからできる事が明らかに限られているのでまだ「まし」です。呼び鈴が鳴って、毎回、爆吠えしてうるさかったとしても、「そうか、コディは我慢する努力をしたけど、できないんだね」で、なんとなく許されます。

 ところがこれが子供のことになると一変して、みんな我が子の可能性は無限大のように感じてきてしまうわけです。そして、「まわりの皆は出来ているのに、うちの子供は出来ない」と、急にみんな気をもみだしてしまいます。私も人の親として、この感情には身に覚えがあります。だからこそ時折こうして、「人には生まれながらの向き・不向きがある」ということについて考えたくなります。


野ばらの季節になりました。ブログに香りを記せないことが残念


 未就学~小学校くらいの子供達の暮らしを観察していて、やるせなく思う事があります。人と比べて発達がゆっくりな子らのことです。彼らは毎日、ねんどしたり、つみきしたり、草はらの端から端までチョウを追いかけたり、野花をつんで遊んでいたのに、5歳のある日、学校生活が始まって、突如他の子との比較の対象になります。「なんであなたは出来ないの」と、大好きな親に怒られる子が出ます。私が「義務教育」というシステムの根源的な欠陥だと感じるところです。

 義務教育とは、皆がお金をかけずに、だれでもある一定の質の教育を受ける事が出来るという点で非常に優れたシステムですが、年齢をベースにした制度のため、必ず不適合を起こす子供を生み出します。いきものは、同じ年齢でも、心身の発達や性質には開きがあるのは、動物の子供を育てたことのある人ならだれもが自然に知っているにもかかわらず。

 一つの集団を導く存在としていろんな子供に触れていると、人間の子供の個体差の振れ幅に圧倒されます。かつて自分自身がそうだったように、今やっている題材に、頭の成長がぜんぜん追い付いていない子なども、わりとすぐに分かります。人よりゆっくり何かを探求したい子供もいます。教科書の中で、さわりだけの単元をやって、はい、次!ではとても物足りないと思う、知りたがりな子もいます。義務教育の忙しいカリキュラムから抜け出て、時間を与えてあげるだけで、別人のように輝くのではないかと思うことがあります。机に座ってなにかをするより、クレヨンやらタイルを虹色にならべるのが大好きで、一日やっても飽きない奴もいます。所謂、「異能」というやつですが、そんな子らにとっては学校は、彼らの居場所のフリをしているだけの場所に留まるでしょう。

 惜しい、かわいそうだと思う一方で、そういう子を守ってあげすぎることもまた「ちがうのではないか」という気がしているから、悩ましいところです。近代以降のアメリカの学校教育では、平均的な発達段階の集団からはずれた子供達を「発達障害」「学習障害」「〇〇エクセプショナル」etc……、、、として、子細に区別したり、制度上有利な処遇をする傾向がありますが、こうした教育プログラムを経た子供達の大勢が、人一倍成功し、幸せな大人になったという実績はあまり耳にしません(たまたまうまく適合して、すばらしい効果が見られる人もいると思いますが、ここでは全体としての話をしています)。

 子供のうちから「定型発達ではない、特別な人」「あなたはユニークな人」としてとりわけ大切に扱われたとしたって、いずれは人生という競争の場に出て行かねばならないことは決まっています。子供達はどの道自分に与えられた現実に満足したり、もっと重要なのは、そんな現実の中に自らの幸福を見出して行かねばならなくなります。

 勉強や、知の世界を探求することとは、人生における「幸福への感受性」を高める主要な手段の一つだと思うのですが、どの子にとっても、そうあり続けて欲しいと強く思います。そのためには、その個体における「向き・不向き」を恐れずに認める事、親もそんな子供を認めて、子供にとっては親に受け入れてもらえる事が、まずはその第一歩と言っても過言ではないのではないでしょうか。