2022年5月22日日曜日

海外で「日本人」を育てる



 とは言ったものの、自分が実際何人を育てているのか釈然としていない部分があります。6歳の娘の話です。「娘はニホンジンです。」と、思う事にしていますし、アメリカで生まれ育っているから「アメリカジンです。」というのも、妥当に思います。今日何が食べたい、と聞くと「ハンバーガー!」と言ったりしますが、なっとうご飯の日も多いし、にんたま乱太郎に声を上げて笑い、なにより履き古したスニーカーにこっそり「ありがとう」と手を合わせてから捨てている様子などを見ると、「日本人だ」と感じます。生物学的に半分はロシア人であり、父親に言わせると性格は「とてもスラブ的」だと言います。娘のおばあさんは先祖代々ボルガ川のほとりの小さな村に住んでいたメリヤというフィン系のロシア人でした。娘のマユゲはユダヤ人が見え隠れする時もあります。言語も、文化も、DNAも、いろいろに混ざったチビな命、それがわが子というのが現状です。

 子が生物学的背景をこえて「何人か」を考えるときひとつの指標になるのが「どの言語で深く思考するか」ついで「その国の文化が母文化として体に染みわたっているか」という点かと思います。私自身を振り返れば、「日本で生まれた」ことや、「日本人から生まれた」こと以上に私を日本人たらしめるものがあるとしたら、「私は日本語で深くものを考える」「日本の文化を熟知している」という点ではないかと思います。

 とりわけ日本語による思考は、私が日本という地理的な座標から遠く切り離されても、いつでも変わらぬ基準点として自我を照らしてきました。義両親についても同じで、移民として40年以上このアメリカで暮らしてきましたが、どれだけアメリカの生活に馴染もうと英語がどれほど堪能になろうとも、思考の深部にはいつもロシア語があり、ソビエト的思考回路があり、日常のいたるところで脳裏にソビエトの詩、歌、美術や歴史の知識があふれます。たとえ国を捨てたとしても、やはりどこまで行ってもソビエトの人なのです。これは、アメリカの移民一世の中ではよく見られる現象です。「血は水よりも濃い」といいますが、この移民の国に住むと水よりも血よりも濃くさらに強力に自己を醸成する存在は「土」であり、それと固く抱き合った存在である言語と思考である、と思えるようになります。

 まっとにかく、そのような観点から見れば、いずれアメリカで義務教育を修了してアメリカ文化に精通し英語による深い思考能力を身に着けることになる娘は、アメリカ人だということになります。生まれた時から疑いようもなくアメリカ人であるよその子供達と比べたら、成長のうちのどこかの段階でアメリカ人に「なる」後天的なアメリカ人とも言えるかもしれません。

 ここで日本人の親としては、子供が「アメリカ人」であると同時に「日本人」であることは両立し得るのか、というソボクな疑問が浮上します。さっき書いた考えをもとにすると、子が「日本の文化を体験として知っている」「日本語での深い思考が可能」であれば、「およそ日本人」と言えるとも思うので、じゃあ、将来的にそれをある程度可能にするレベルの日本語の力が子供にもあるといいいな、というところまでやってきます。




 ここワシントンDCメトロエリアは、日本人や日系子女が学ぶ場としていくつかのオプションが存在します。文化公共事業、および学生支援などを行うワシントンDC日米協会をはじめ、日本語継承センター、文部科学省承認校で高校2年生まである補習授業校ワシントン日本語学校などがその筆頭と言えます。また、全米でも珍しいのですが公立校で英語と日本語によるエマ―ジョン教育を展開しているFox Mill ElementaryGreat Falls Elementaryなどの小学校があります。未就学児についても土曜だけ開園する幼稚園にさくら学園たんぽぽ幼稚園ひまわりの会、日本語で保育を行うホームデイケア・プリスクールにバージニア州ハーンドンのわらべ教室、メリーランド州ベセスダのWEEセンター、などがあります。日系人の若者同士の相互扶助や夏冬のキャンプ・プログラムの運営をしている団体としてオーエン・ネットワークがあります。

 在住日本人の母数としては決して多いとは言えない都市圏にありながら、「日本文化や言語の継承」という観点から取ることの出来る選択肢が複数存在することは比較的恵まれていると言えます。北米において「バイリンガルの技能を高いレベルで維持している(バイリテラシー)」と判定されることは、たとえばバージニア州では「Seal of Biliteracy」の称号が与えられたりAP試験 (Advanced Placement Program Exam)やSAT試験(SAT Japanese with Listening)で大学の単位を先取り取得できたりと、進学や就職活動において実益を伴うので、子にとってもメリットがあります(とはいえDC圏は非常に優秀な人が多く、「マルチリンガルで全ての言語がビジネスレベルに達してる」というようなバケモノ人材もゴロゴロしているため、実際には言語に+αとなる活動や運動系の技能なども同じくらい重視されると思います)。ともかくも子供に多言語教育を施す事にはさまざまな恩恵があるということで、特に日本の義務教育に批准した内容を教えてくれる日本語補習校には、毎年多くの子供達が進学します。


娘が初めてキンダーへ行く日、自分はスクールバスの所に連れて行ってもらえないと知った時の犬


 と、ここまで色々書いてきてずっこけてしまうかもしれないのですが、娘は補習授業校の1年生には上がらず、うちでのんびり自宅学習で日本語をやっていくことにしました。主な理由は、地理的な距離(上述したような機関の多くはうちから1時間圏にあります)と、またすでにアメリカの学校生活や習い事もある中で、さらに補習校へも行くとなると、子供が教室や机や車の中で過ごす時間が長くなりすぎるということです。ちょっとヒッピー的な考え方かも知れないけれど、今の我が子供の状態を見発達度合いを見、アメリカの幼稚園の成績を見、と総合的に俯瞰した時に「もっと実際の世界でさまざまな人と交流し、本物の自然と触れ、身体を動かしたり時にケガをし、原体験を積むことが必要だ」と感じました。

 普通に考えれば今後長く日本語学習を続けていくわけなので、勉強の習慣をつけるためにも速やかに日本式の学校に入れるのが良いと思いますが、最終的に学校で強制的につけられる『勉強習慣』と同じくらいかそれ以上に、実際の体験とそれに裏付けられた思考力、自信、独立性、社会性、根気そしてそして体力✊などがこれからの世を生きていく人には特にだいじで、まずはこれらの芽を伸ばしたいと考えました。

 また人間の子供を育てるうちに気付いたのですが「子の周囲に質の高い友達の輪がある」ということはかなりだいじな反面、子供が自力でこれを構築&維持していくことが難しいです。特に車社会のアメリカではこの傾向が顕著で、ここでは小さいうちからそういうものを作ってあげるのはじつは重要な親の役割だった、と気が付いたわけですが、しかし親が自分から働きかけて作っていく以外に効率的な方法はなく、一朝一夕では困難です(だから日本でもアメリカでも子供を私立に入れたがる忙しい親、というのが一定数いるのかな、と思います。ネットワークづくりを学校が手伝ってくれるので、、、)。というわけで、今後は犬のブログにときどき「外国で日本人を育てる(という無理難題にのたうちまわる私)ノート」が入ってくるかもしれませんが、ちょっと箸休め的な話題と思って、お許しください。




 ところで娘は昨日初めて「お弁当に箸が入っている事がみんなと違ってると思って急に恥ずかしくなった。」と教えてくれました。先週までは何の疑いもなくお箸とのり弁を持って学校に行っていたのです。クラスメイトは9割以上が白人の地域ですが、初日からお箸も海苔も、スナックに実家から送られたおつまみの貝柱(⇐娘の大好物)も持たせていたのです。かなり能天気な娘も、自分の食べ物がまわりとだいぶ違うということに急に気が付いたみたいで、日露米あやふや人⇒アメリカ人、への変容は既に始まっていると言えるでしょう。

 箸が恥ずかしくなった娘ですが、今朝のべんとうはサンドイッチにして、食器はフォークやスプーンを入れようか?と言うと、箸のままでいいと言ったのでそのままになりました。よく聞いてみるとどうもアメリカ人の子は弁当に野菜がたくさん入っているのに慣れてない子がいるみたいで、娘は茶色や緑色のお煮しめを「ew(きもっ)」と言われることもあるようなのです。「次は、あなたは工場で作ったソーセージや油で揚げたポテトばかり食べてるの?ew、といいなさい。」と言ったら大笑いしていました。

 まだまだ小さい今のうちに身辺の出来事に自分で対処する方法を学んでもらいたいです。相手と同じ土俵に立ってみっともないと思われるかもしれないですが、○○ちゃんにewと言われた、とか先生に言いつけて自分の問題をだれかになんとかしてもらおうとするまえに、小さいうちからハッキリ言いかえしていじわるするべきでない相手だと分からせることはだいじなことです(「何度もいじられる場合や、身体的に被害が及びそうな時は先生に言う」ことと基準は与えています)。それに、言い方は悪いけど、そうやって自分の力で他者を打ち負かす経験をしていないとはっきり言って自信は育たないと思うので、幼稚園の今がチャンスと思って頑張ってもらってます。


タコのようにかしこく柔軟に



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