先週までの陽気と一変し寒波が通過中の北バージニアです。
今回の寒波はいつもと違ってなんとなく空気にぬくもり?がある感じがします。山あいのこちら地域では、気温もずっとマイナス10℃台で、風も吹いているのでぬくもっているわけなどないのに不思議です。日曜日は一日中外で雪かきしていましたがとても捗りました。不思議といえば、今回のこの雪、すべて霰(あられ)で出来ているんです!よく見るとビーズみたいに、透明な氷の球体の集合で、「名和晃平さんの彫刻作品」みたいで可愛い雪です。
コディはこの雪の中にいつも通り勇んで飛び出していき、それからふっと考える顔になったのち、手足を引っ込めたり持ち上げたりしながら小走りで帰ってきました。深い雪が足腰・関節にこたえるのでしょう。11年の犬生をかけてようやく「冬は寒い、雪は冷たい」と分かったのかも知れません。10年前、ドカ雪の中で遊んだ時の日記が残っていますが、こうして遊べたのも犬が若くて元気で、何にも心配のない私達だったからです。過ぎ去りし輝ける時間よ!思い切り雪で遊ぶ全ての犬と人間に幸あれ。
そういえば、引退した麻薬探知犬が、もう永遠に仕事する日は来ないのに、実働時代の名残で外出中常にボールを咥えたきりになっているのを見たことがあります。犬本人はもちろんその状態が落ち着くし、楽しいからやっています。それを見てふと思いました。命が燃え尽きるまで活動に従事するよう、それで幸福まで感じるよう「そう生まれてきた」犬の宿命とは、なんとすごいんだ、ということです。
「そう生まれてきた」原因は、もちろん私達にあります。たとえば、鼻ペチャの犬は健康的でない、鼻ペチャの犬を繁殖することは人間のエゴだ!という人がいますよね。でも私が思うに鼻ペチャだけが人間のエゴじゃないんですよ。私からするとコディだって、疑いようなく私のエゴを具現化し、昇華している存在です。ある見方をすれば、私がやりたがることを全て叶えるために、文字通り彼はいつも大喜びで身をすり減らしてきました。飼い主に「私はいいことをしている」といつも思いこませてくれました。この事そのものがこれまで連綿と続く、人間による「犬作り」の結果です。これは鼻が低いとか足が短いとかいうのとはちょっと比べ物にならないレベルの「生物の改造」です。
純血種の犬だけに限らず、雑種などであっても、必ずその血筋のどこかで人の手は入っています。現代よりずっとずっと資源の限られた時代にも犬は飼われてきました。「役に立つ犬がほしい」「かわいい犬がほしい」これらはわたしたちの中にずっと強烈な動機としてあったはずです。そうやって犬の精神の構造(を司る脳の構造)までも人間が選別・制御を繰り返した結果が「犬」です。よって現存する犬とは、程度の差はあれ、すべからく人間のエゴ、都合と需要の産物です。
鼻がぺちゃんこなのは命にかかわるからいけない、というのは明確で分かりやすいですが、では、犬がこのような精神構造を持って生まれてきているということは、全く犬の命に関わらないと、私達ははたして言い切れるのでしょうか?むしろ、目に見えないだけで本当ははかり知れないほど多くの犬の苦しみ、孤独や死の源泉になっているのでは?たとえどんなに乱暴で怖い主人でも愛着を感じ好かれようと努力し、しっぽを振って付いていく無垢な精神構造が、犬自身にとって破壊的で、有害なものになりうることを私達はすでに知っています。
そうやって考えると、全ての犬を飼う人間が、自分の犬も含め、本質的には犬っていうのはみな私達人間の都合のためにあるべき姿、形、本能を曲げ、時に超・強化された形で生み出されてきたことを認識することに意味があると思う。そしてどんな犬の生もまた、程度の差はあれ、不可避的に私達の都合のために日々費やされているのだという事実について思いを馳せることも必要だと思う。
自分の犬を含めてまわりのいろんな犬を思い出してみます。
思いつくほぼ全ての犬は「可愛い」か「ひとの役に立つ」か、その両方かに仲間分けすることが出来、ほとんど例外がないのです。このどちらにも分類されない犬の命は、人間社会では極めて粗末に扱われていたり、または「始めから存在しない(生み出されない)」ようになっています。この異常に不自然な存在、それが犬なのだ……なんてなことを、つらつらと考えていた今日でした。
なんか、ここまで書いてみて、自分に反論したい意欲が湧いてきたな(笑)
「犬という存在はそれだけじゃないんだよ、と信じたい自分」がいるのですよね。
人間世界の倫理を凌駕するものとして「自由と自然」を信奉するわたしとしては、人の需要があるかぎり、鼻ペチャ犬は永遠に鼻ペチャ、ダックスフントはますます短足であっても仕方がなく、キャバリアキングチャールススパニエルを可愛がりたい人は、僧帽弁閉鎖不全症の治療費をたっぷり準備したうえで自由に可愛がるべきであり、それをいけないと思う人はそう信じて一生懸命戦えばいい。犬を捨てることは仕方がないと思う人がいれば、捨てられた犬を拾う行為をもって自らの善性の根拠としたい、そういう人があっていいと思います。
結局のところ、人間社会というのは、そういうひとの勝手と都合が激しく自由にぶつかっている騎馬戦みたいな状態にいつもなってるのが「いい塩梅」なんだと思います。倫理的には不衛生だし、個々の人にとってはストレスフルな状況も多いが、歴史を振り返るといつもこのストレス、『不快』をバネにして、文化の発展が生じているように見える。人類社会には暴力や強欲や不道徳も蔓延していますが、つまり、それが私達のサバイバルを強烈に後押しする原動力だからなのではないか。「私らが良いと思う解」と「自然が示す解」はいつもちょっと違う、だから面白いなあと思います。そして犬達には、この宿命の檻の中で、自ら更なる幸福を求める強靭な生物として生きてってくれ、と思います。