2026年1月23日金曜日

補習校なし日本語学習のその後


小さくなくなってきたにんげんの姿
令和7年夏、山口県萩市 笠山にて

 海外で『日本人』を育てるという文章を書いてからなんと4年弱が経過していることに気付いてたまげています。当時6才だった「小さいにんげん」は10歳です。もうあんまり小さくなくなりました。5歳の終わりから始めたアイススケートも続けています。種目はフィギュアからアイスホッケーに変わりましたが、2つのトラベルチームで頑張っています。

 子供10歳ということは、わがやの「補習校なし日本語学習」も約5年目を迎えたということになります。国際結婚家庭で、補習校が遠く、定期帰省もしておらず、まわりに日本人も殆どいない環境ですが、なんとか家庭学習で学齢レベルの日本語をとこれまで手探りでやってきました。現時点で思うのは低学年の間ならば、大人と一対一で日本語をインプット/アウトプットする時間が毎日あれば『おおむね学齢レベル』の日本語の四技能の維持は可能なのではないかということです。私は自分の所の子供だけでなく似たような環境にあるよその子達にも勉強を教えるのですが、彼等の達成度合いを見てもそう思います。

 思うに、このくらいの年頃の子供にとっての言語の学習は運動などと同じで、キーは毎日の良質のインプット・アウトプットだと思います。たとえ短い時間だったとしても、大人と一対一で、毎日というのがコツなのだと思います。高学年以降は、それに加えて「漢字の出来」「本人の性格/興味/能力」によって、学習速度と達成度合いが変わります。

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 ということで今回は4年前に書いた「補習校なし日本語学習」の後日談として、アメリカで生まれ育つ子供の日本語や日本人性は、アメリカ人・果汁100%と言っても差し支えないこの東海岸の小さな田舎町でいったいどうなってしまったのか、ということについて記録し、微力ながら日本語家勉界隈(あるのかな)に寄与したいと思います。本ブログの主役・コディ君の近影も最後にあります。


 さて「おおむね学齢レベルの日本語」とか気軽に書いてしまったのですが、在外児にとってはこいつがなかなか大変です。わがやでは大体以下のような意味合いで解釈し、目標としてきました。

 ・日常的に日本語での会話や読書が無理なくできる
 ・日本の小学校に入れた時、先生や級友とコミュニケーションがとれる
 ・場面によって敬語など適切な話し方、話題選びを考えた日本語を話す
 ・先生の指示を理解し自分で連絡帳を書け、教科書にそった授業に参加し発言もできる
 ・板書を写すことや、簡単な草稿などの文書作成が授業時間内でできる
 ・単元テストでどの教科もまんべんなく平均点ていどとれる
 
 ・給食や掃除などの文化を理解し自発的に行動できる
 ・分からないことを自分から聞ける
 ・緊急車両の呼び方などの知識がある。必要に応じて大人に助けを求められる
 ・お手洗いの張り紙や食品ラベルなどの読み方を知る

・・・が、言語については家庭ごとに捉え方が全く違うのであくまで「うちではこうです」というだけのものです。また、学齢が上がるにつれ、子供に期待される能力値も当然上がるため「学齢レベル」の達成は加速度的に難しくなります。


子供の体験入学と、家庭学習のノート
要約や作文などは気合十分でばりばり書いていきますが、漢字(書き)は不得手です

 これらの達成のためにまず必要なのは大人によってインタラクティブに日本語に暴露する時間、いわゆる良質な対話をする時間が毎日あることです。内容は別に高度でなくてもよいし、長時間でなくてもよいし、教材を使うとしても、好きなものを使って大丈夫だと思います。日本の教科書は優れているし、公文式やしまじろうもいいですね。我が家は七田とZ会のワークブックを使用しました。あと、色んなネタがランダムに載っている小学館のプレNEO図鑑シリーズは非常に有用で、何回も一緒に読みました。

 思うに、教材、勉強道具というのは良質な対話の時間を生じさせる「よりしろ」みたいな存在です。
 一方で、どんなによい本をそろえたとしても、またどんなにネイティブスピーカーに囲まれていても、対話につなげる時間がなければ子供の言語力は上がって行かないと思います。私の周囲では高度なバイリンガル状態に到達している人は長子や一人っ子が多いのですが、「大人と一対一で言語をインプット」の総量が単純に多いからだと見ています。海外生活では日常生活で勝手に入って来る日本語インプット量が0なので、年と共に日本語が自然に劇的に上達することは基本的になく、子供自ら学習に向かうモチベーションがあったとしてもなお、誰かに手引きして能力を引き上げてもらう必要があります。


 わが子は先夏、2週間山口県の公立小学校に体験入学をさせてもらって過ごしました。
 入ってすぐに学期末テストが始まったのですが、どの教科もだいたい90点~100点あたりの点をとって、すぐお友達を作ってお出かけの約束をしてもらい、児童館や図書館に出かけていました。

 子供を見ていると、低学年までは『おおむね学齢レベル』を保ったまま来られたけれど、4年生になって漢字力の粗がやはり目立つようになったなあと感じました。特に書字と運用には難があります。3~4年生の配当分あたりから「読めるが書けない字」「初見だと読めない熟語」がふえてきました。熟語が読めないのは音読みの習熟が進んでいないからですね。といってもさぼっているわけではなく、ふだんから読み・書きともに前学年の復習も込みで、毎日こつこつと練習をして、家でやるテスト的なものも取り組んでいます。するとその時は読めるし書けるのですが、その後新出漢字をする過程で忘れてしまい、なかなか定着には至らない、という状況です。

 がんばって取り組んでいるのに出来ないという状況は、子供心にはなかなかつらい状況じゃないかと思います。うちの子供の場合、作文の中身や理解力など、漢字以外の力が比較的大丈夫なので日本の小学校の先生もなんとかしてあげようと思って下さるのか、余分に漢字の課題をくれたりして、心苦しいことがありました。また、漢字テストの赤点を日本人の子供に見られるのがすごく恥ずかしいようです。となりの席の男子が目を丸くして『やっぱガイコクのヒトなんだー。』と言ったのがやだったとぼやいていました←自分はアメリカ人と思う気持ちと、日本人には日本人と思われたい気持ち両方があるようです。


 子供の勉強を見ていて痛感するのが、日本人の学力というか知性そのものがこの「漢字力」にものすごく大きく依存しているということです。漢字の習得度合が今後の子供のリテラシー能力全般の根幹とその成長に関わると思うと、これは大きな課題です。

 外国生まれの日本人にとって漢字の読み書きも含めた「高度な日本語」習得の壁は果てしなく高いもので、太平洋戦争の時に米軍が行った日系二世の調査 (U.S. Army Center of Military History - PDF)でも、当時軍役についていた全日系人のうち、軍事機密の翻訳や尋問に耐えうる所謂「即戦力レベルの日本語」を備えていたのは受験者の約3〜5%に過ぎなかったという記述が残っています。しかも、そのほとんどは「kibei(帰米二世)」と呼ばれる、成長過程で日本で学校教育を受けた事のある人々だったのです。今よりもっともっと日系人地域社会のつながりや、文化教育がしっかりしていた時代の話です。

 なので高学年くらいになってくると、外国生まれの子供の漢字については親も日本語の先生なども「読めればよい」とする人が増えてくるのは、うなずける現象です。自分の子や、ほかの家の子に、漢字を「一、二、三」から教えてみて、漢字の学習には膨大なエネルギーがいることを知りました。漢字学習にかかる機会損失も見過ごせないほど大きい。例えば日々の漢字練習にあてる時間のかわりに、今までいったいどれだけのスペリング、語彙、イディオム、美しい英語やロシア語の詩や古典文学、西洋史、地学や一般教養、より実用的な生活スキルなどを学べただろうかと思います。もしくは、数学やコンピュータ言語の学習なんかを先に進めておくこともできたかも知れません。

宇部空港の壁に掲示してありそうな写真がとれました
これが経年劣化で色あせてくると本物です(ニュアンスつたわるかな)

 けれど、仮にここで漢字をやめて、かわりに上記のような色々な知識をつめこんだとて、それら情報を精査し、統合し、豊かな感情、世界観、個人や家族の経験などを踏まえてひとつながりの知識として目の前の生活や自分の人生に役立つところまで高めること、その思考のブループリントを示してやることのできる親が、たまたま日本人であったがために、子供はどうしても高度な日本語の理解が必要とされる状況に置かれています。非常にアンフェアかつ、多言語家庭のジレンマといえるかと思います。

 「グローバル人材」とかいって、近年はバイリンガル性がちょっとキラキラした雰囲気で語られることが多いですが、本当はこういうもっとのっぴきならない家庭の都合や、国や世代や文化、幼い頃から多重にかけられる知的な負荷のはざまからしかたなく出じてくるものなのではないでしょうか。生得的なバイリンガルとは、ある別の場所に移設された文化が、消滅へと向かう、その摩擦の中で生まれる一代かぎりのアートなんだと思います。

コディ君です ドカ雪の日の前日

 まあでも漢字も言語も、不毛に見える反復に真面目に取り組むという人間性の育成という視座を与えれば、そんなに悪いものじゃないかも知れないな。やってもやっても報われない、努力が正当に評価されないなんていう場面は、勉強だけじゃなく社会にはよくある事です。単純作業の退屈さ、自己への無力感、空虚な感じ、自分にはこれだけ困難な事をやすやすと乗り越えていく他者へのいらだちや羨望、嫉妬。こういう不快な心理状態とどう向き合うかという経験は、子供にとって意味があると思う。


 言語、言葉を学ぶということは、「認知領域の暗い海」みたいな場所があってそこに光を灯す行為です。守ってやらないと自然の物理法則に従いかき消えてしまう淡い光です。一度光ったその場所を、何度も何度も思い、考えることで光はやがて明るさを増して行き、ついにはいつも明るく自由に動き回れる場所になります。わたしたちひとりひとりの中にある「知の領土」です。

 認知領域の海はその反面、語りかけても到底答えてくれそうにない意識の自然の中の暗黒の海という感じでしょうか。子供にとっての私は、その暗い海からぬっと頭を突き出している、光る眼の海獣だかアンコウだかみたいな存在だといいなと思います。そうした他の存在が照らしてくれることで初めて「そこにその概念があった」と、子供って気が付きますよね。そう思うと自分の持つ「知」って、多くが他者からの助けを経て構築されているのですね。

 長くなってしまったので「日本人性」についてはまた、別の日に書こうかな。
 漢字だのなんだのいっていますが、語学力は究極、やればだれでもいずれはつくのでいいんですよ。ケントもデイブもボビーもみんな語学は堪能ですよね。だが、魂についてはそうはいかないと思います。こっちの方がもっともっとずっと難しい問題です。