彼奴の換毛期が到来しました。ブラッシング用のレーキをかけると、いつかお祭りで見たワタアメの機械のように無限に毛がとれます。とても楽しいです。フサホワ系大型犬の例に漏れず、シャイロシェパードのアンダーコートもとても細くて柔らかく、わた埃みたいにふわふわと舞います。毛量は、たぶん多くの人が思うよりかは少ない方だと思うのですが、それでも体が大きいのでなかなかです。我が家ではこの時期、全てのものにこのホワ毛が混入してくるので、私自身も気付かないだけでこれまでに相当量の犬の毛を口に入れてるはず。でもま、私は犬毛は食物繊維の一種と捉えているので、今日も心の平穏は保たれるのでありました。
編み物が得意で家に糸車を持っている友人曰く、シャイロの毛は「紡げる毛質・長さ」なのだそうです。バージニアには頼んで愛犬の毛を送れば紡いで毛糸にしてくれる人もいるので、少し気になっています。今年は手はじめに、子供と一緒に比較的カンタンなフェルト作りにチャレンジしてみようか?コディの毛のフェルト石鹸を作ろうか?などと、夢を膨らましています。家の者より、「洗えば洗うほど手が汚くなる石鹸」などという、なんとも不敬なコメントも来ているのですが・・・(私は私で「石鹸なんかにしたらせっかくのコディの獣臭が分からなくなるからいやだ」と思ってます)
くだらない計画ですが、こういうことを思案する際、そろそろ脳裏に「思い出作り」という単語がよぎる、愛犬の7歳の終わりです。私達はいつもニコイチで色んなところへ行き色んな事をしてきたからか、もう本当に長い長い日々を共にしている様に感じています。「犬の飼い方」という本を開けば、こういう風に犬とベタベタと癒着した暮らしをしたり定期的に留守番させないのは犬自身のためによくないとか、分離不安にさせてしまうとか、色々書いてありますね。それはまったく論理的ですし正しいことだと思います。
でもときどき思うのです。
やっぱりそれってそんなにダメなことなのか?と。
まだまだ人が大家族で、村や、町はずれで、ウシやらウマやらヒツジやらと共にアナログな生活をしていた頃。6,70年前くらいまで、、人類史においては「ついこないだ」程度の昔ですが、家の外で日がな一日ヒモもつけずにゴロゴロして行き交うニワトリの向こうに寝そべって、この人に着いていこうと自分で決めたその人をずっと横目で追いながら生きる、犬とはそんな生き物だったはずです。そういう性格の個体が、選び抜かれた「人間のトモダチ」として、犬と言う生物の命を繋いできたはず。
信頼しているその人が「おいで」と言ったらすぐに来て残り物をもらい、隣村まで仕事に行くとなったらついていく。その人が寝たらふとんの近くに陣取り、「変な物音がした。行こう」と言ったら、夜の3時でも目を光らせながら闇夜の中に飛び出して行く。そういう暮らし方は、ごく普通のものだったはずだと思うからです。