2016年2月9日火曜日

村いぬ考



    まわりのアメリカ人達がよく使うフレーズに"It takes a village to raise a child"というものがある。子育ての大変さを表す日常表現でもともとはアフリカの諺だったらしい。

    先進諸国でも半世紀ほど前までは、 ヒトの子育てはコミュニティ全体のアクティビティだった。子供は村全体で色んな人が入れ代わり立ち代わり世話をして、さらに時間をかけてようやく一人前の「ムラビト」になっていく。

 いつか日本の新聞で読んだけれど、ひとりの子供を不自由なく育てるのには、最低成人4人分の手が必要だという。自分で小さい子を持ってみても、確かにそう思う。まわりの大人達がかわるがわる世話を負担しあえる環境にあれば、両親達は子供を持ちながらも一人の人としての生産性を失わずにすむし、小さいうちから様々な社会体験を積み重ねていくことは、子供達の心身の発達にも重要な意味を持つ。

コディと散歩中こんな事をとりとめなく考えていて、これって犬にも言えることかも?と思っていた。




 村全体で入れ代わり立ち代わり世話をして、時間をかけてようやく一人前になっていく。自分の記憶をたどれば、日本の田舎でも3、40年位前までは、ヒモに繋がれていない犬がけっこう当たり前にフラフラしていて、人の家の庭でせんべいやミルクにひたしたビスケットなどをもらい日向ぼっこしていたり、表で遊ぶよその子供達のお守を勝手にしていたりする、そんな光景があった。

 両親が好き勝手に恋をした結果生まれてきた子犬たちは、「犬は社会的な生きもの!子犬の社会化!!」と力まなくても、生身の人と動物が行き交う社会の中で、沢山の経験を積みながら育っていくことが出来た。今、自分達のいるモダンな「社会」は、そういった昔ながらの社会からはだいぶ進化?というか、異質なものになってきている気がする。

 もちろんそういう生身と生身の「リアルな社会」には暴力的な側面もあって、闘争なんかは日常茶飯事であり、「リアルな社会化」の過程でケガをしたり病気になったり、最悪死んだりする子供や犬も多くいたわけだから、手放しで昔・礼賛をしたいとは思わない。ただ、子育ても犬育ても、わたしたちの歴史過去何万年もの間、そういうものだったという点はよく覚えておかなくてはいけないと思う。


🐕


 先進国の社会では、小さな子供が悪さをすれば、それはほとんど100%親のせいになる。しつけの悪い犬がいれば、それは100%飼い主のせいである。けれどそれは本当にフェアなんだろうか?

 今の親たちは、飼い主達は、愛情に満ち溢れたよい母親、よい父親であるだけでなく、本来村一つ分かけて用意するほどの環境を一人でとってかわれるほどの、優秀な教育者であることを求められる。どんどん長命になる年長の家族の為に、「良き娘」「良き息子」でもい続けなくてはいけない、そうするためには心身共に非常にタフでなければいけない。さらに仕事をすれば一個人としての生産性をも厳しく追及される。それらは本当に可能なことなのだろうか?

 週末のドッグランのベンチで、ノーメイク、または無精ヒゲを生やして、疲れた顔で携帯電話に顔を落としている人々がいる。以前なら「犬の監督をしないで、無責任だな」と思ってみていたが、最近だんだんそう思わなくなった。もちろん迷惑なことに変わりはないし、ほんとに無責任な人も中には含まれるかも知れないけれど、ハードワークの文化があるここ北バージニアにおいて、家庭でも職場でもタスク・タスクで、週末太陽の下で45分間だけの「マイタイム」をぼーっと過ごしたい人々もいるのだと、今は分かる。そんな貴重な時間をわざわざ愛犬のためにドッグパークで過ごそうと考えた時点でむしろ、とてもえらい人達なのではないかとも思うようになった。






 なんてな事を考えながらバージニア州フレッド・クラブツリーパークをコディと歩いていました。せっかくうちに来たからには、コディにも立派な「村いぬ」になってほしいけれど・・・、そのためにはどうしたら良いのか?自分に何が出来るのか?生後1歳1か月を迎えて、考えています。


4 件のコメント:

  1. 既に止められないくらいのスピード感で走っている現代に、ちょっとした休息を入れ込む制度が必要だとつくづく思います。
    この駆け足社会を作ったのも、人々が望んでのことではなく、ある一部の組織(国家)の単なる考案なのだから、制度として社会の組み立てを変えることは簡単なはず。でも、休符を打つことって、音を鳴らし続けるより難しい。それを誰がするの?誰が始めるの?という話ですよね。
    たぶん、私が生きている間には、変わらないか、もっと悪化すると思いますが、変化は少しづつ表れてくると思います。愛がある限りーなんて、超ダサいですが、ここまで複雑な感情を持てる人間ですから、自滅はしないでしょ、と、500年後くらいにもう一度覗いてみたいです(^^;)

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  2. >akaさん コメントありがとうございます!レスが遅くなりすみません。

    >休符を打つことって、音を鳴らし続けるより難しい。

    すごく同感です。一度走り出した車を止めるのに、何倍も力がいるのと似てますね。
    「政府が政策として打ち出す」みたいな感じでなければ変革はムリでしょうね。
    それに、国際化社会になって全体的に競争が激しくなる傾向があると思うので、そういう案があってもなかなか採択されないかもしれません。
    一息入れてのんびりしたい人やハンデのある人にはちょっと厳しい世の中だと思います。
    「愛がある限り」、ダサくないですよ!この感情が人が人たる所以でしょうから。これが厄介のモトでもあるけれど(笑)
    そうですね、私も500年後を見てみたいです。とりあえず80まで健康で居る事を第一目標にお互い頑張りましょう!!

    あ、そうそう!ヤドクガエルのは水槽は一度セットしてしまえばそんなに手間はかからないですよ。
    ヒーターと濾過機(あれば)はつけっぱなしでOKですし、照明はタイマーがあるので自動点灯・消灯できます(このへんは相方さんがお詳しいと思います)。
    ただ餌(小バエやコオロギの幼体)だけはできればこまめにやった方が良いので、もし3日以上外出する時はカエル・シッターさんをお願いするといいと思います^^

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  3. あー、わしさんのこの記事に感激&激しく同意します!

    我々のように成人2人(しかも中身はまだまだ未熟者!)だけで育てていくのなんて、子どもと犬が気の毒だ、と私も常々思っています。
    子ども時代に祖父母と同居していた人って何か違う気がするんです。なんというか人間的に奥深いというか。
    核家族にできることって、色んな意味で限られているのかもしれません。

    さて、そんな我々にできることって本当に何でしょうね。。
    わしさんとのつながりもそうですが、例えば何かこのオンラインという手段で広がる人との交流とか。昔は到底できなかったことで今ならできることがきっとあるはず。。

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    1. >ちえぽんさん コメントありがとうございます!同意していただけ心強かったです。

      核家族っていう暮らし方は、本来のヒトの生態から考えるとかなり斬新っていうか、ここ100年以内にはじまったものですよね。
      犬も人も、スピリチュアルなレベルでそんな新しい生活スタイルに慣れていくにはまだまだ時間がかかりそう、と私も常々思っています。

      そうですね、我々に出来る事・・・と可能性を模索するちえぽんさんの姿勢、見直さねば。
      ないものにばかり目が向きがちになっていてはダメですね。
      確かにPCがあって、PCの前に座ってなにかするほどの物質的な余裕があったから、わたしたちの出会いもあったわけですよね。
      そう考えると恵まれているのかな。。。、

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